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〔美術評〕フィリップス・コレクション展/三菱一号館美術館

古谷利裕

※以下は、2018年10月17日~2019年2月11日まで、三菱一号館美術館で行われた「フィリップス・コレクション展」のレビューです。

 
 派手さはないが、質の高い作品が並ぶ。十九世紀から二十世紀半ばにかけ、ヨーロッパという土壌で育まれた近代美術のエッセンスが、作品それぞれが固有の花である小さな花壇の連なりによって体感できるようにしつらえられた庭のような展示だ。これらの作品のほとんどが一人のコレクターによって収集された事実には驚かされる。

 近代絵画の祖先としてのシェルダンに始まり、二十世紀半ばのモランディやジャコメッティに至るコレクションは、美術の歴史的展開を表す以上に、共有される土壌に育つ種の多様性を示すかのようだ。

 共通するのは、作中に「物を見ること」を見る、とでも言える視線が含まれる点だろう。それは「何かが見える」ということがどのように成立しているのかという問いが作品に内在しているということでもある。

 様々な切り口から観ることが可能な奥深い展示だが、ここでは本展で七点の作品が出品されているジョルジュ・ブラックに注目したい。それは大きく、一九三〇年前後に描かれた後期キュビズム期の四点と、晩年の一九五〇年代の三点に分けられる。

 後期キュビズムの作品、例えば「円いテーブル」は、シャルダンにまで遡る静物画の系統にある。多視点が採用され、対象の質感の再現より絵肌(絵の具)の物質感が優先され、物の描写より相互に干渉する形態や色彩の関係性が重視されるものの、目の前にある対象をどのように捉え、画布の上に再構成するのかという問題は共通している。

シャルダン 「プラムを持った鉢と桃、水差し」 1728年頃
ジョルジュ・ブラック「円いテーブル」 1929年

 だが晩年の作品には飛躍がみられる。特に鮮やかなのは「鳥」だろう。ここで問題にされるのは対象の捉え方というより、何かが「見えた」瞬間に、そこで「見えるもの」からこぼれ落ちてしまうものまで含めた「見ること」だ。そこに現れるのは、対象と言えるような手で掴めそうな安定したものではない。

ジョルジュ・ブラック 「鳥」 1956年

 鳥の形は、紫の面の上にくり抜かれた穴のように白で表される。鳥の形を見る時、背景の色面と木々は後退し、背景の俯瞰された木々を含む色の広がりを見る時、鳥の形は空白のように見失われる。このような、見え方の絶えざる反転による対象の捉えがたさのなかで鳥の形がつかみ取られる。ここで起動する「見ることの運動性」から、重力から解かれて空と一体になっている鳥の飛翔を感じさせる表現が生じる。

 そして、ブラックのこの飛躍は、二十世紀後半の絵画への向かう端緒の一つだ。

初出「東京新聞」 2019年1月18日 夕刊


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