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〔アニメ評〕反復という呪い、永遠という呪い、キャラクターという呪い/新・旧「エヴァ」について

※このテキストは、2009年「エヴァ破」公開時に、ある雑誌の「エヴァンゲリオン」特集のために書かれたのですが、事情により特集そのものがなくなってしまったため未発表となったものです。その後、ブログ「偽日記」にて、2009年10月01日から3日にかけて、三回に分けて掲載しました。

古谷利裕


キャラクターは歳を取らない


 アニメのキャラクターは歳をとらない。のび太もカツオもまる子も、永遠に小学生だ。まるで、死んでしまった人がそうであるように、いつまでもかわらない。安達祐実や神木隆之介が、成長する姿をテレビ画面やスクリーンに刻みつけ、我々と同じ時間の流れのなかに存在し、その過去の映像と現在の姿との落差によって時間を表象するのとは異なり、十四歳で亡くなってしまった人が永遠に十四歳のままであるように、シンジもレイもアスカも十四歳のままでフリーズされている。彼らは時間の外にいて、それを観た観客は、彼らを置き去りにして歳をとってゆく。あるいは、彼らは我々を置き去りにして永遠の十四歳を生きる。
 だが、十三年前に熱中して観ていたテレビシリーズを、十三年後にDVDで観直すというのであれば、十三年前に撮った写真をアルバムで見るということとあまりかわらないだろう。十三年前に観た十四歳のシンジは、それを熱中して観ていた頃の自分を思い出させ、それを改めて観直して感じる感想は、以前の自分と今の自分との差異を、そこに流れた時間を感じさせるだろう。それを感じさせるのは、十三年前に撮った写真が十三年前の映像を保持しているのと同様に、「作品」が十三年前と同じものであるということによるだろう。しかし、十三年後にあらたにつくられた新作でも、当時十四歳だった登場人物たちは、かわらずに十四歳なのだ。時間のなかで生き、歳をとってゆくことを強いられた生身の人間である観客は、永遠にかわらず、そのままの姿で「現在」に現れてくるキャラクターの不動性を、どのように受けとめることが出来るのだろうか。

フィクションの時間と外(現実)の時間


 『エヴァ』のオリジナルのテレビシリーズには。明確に年代が書き込まれていた。物語の現在は二〇一五年であり、セカンドインパクトは二〇〇〇年の出来事である。逆算すれば、シンジが産まれたのは二〇〇一年となり、もしシンジが実在するとすれば、今年八歳になるはずだ。この年代は、テレビシリーズが製作された時には近未来であり、未だ訪れてはいない時間、不定形の時間であるから、そこにフィクションがひらかれる余地があった。しかし、現実の時間はフィクションの時間を追い越してしまった。現実には二〇〇〇年にセカンドインパクトは起こらなかったし、現在まだ、第三新東京市など実在しない。
 フィクションのなかに年号が書き込まれること。それは、フィクションに、その外側にある現実との参照関係が生まれるということだろう。ナチスは一九三二年に第一党となり、翌年、ヒトラーはドイツの首相となった。これは歴史的な事実である。フィクションがこの事実をその内部に含み込むという時、それはその時代に起きた出来事、風俗その他を、背景として利用することが出来るのと同時に、その歴史的な事実の多くを受け入れることが強いられるということになるだろう。
 フィクションが、歴史的事実として承認され記述されていることの全てに束縛される必要はないが(それではフィクションではなくなってしまう)、大筋としてその背景を受け入れることは求められるだろう。例えば、一九三三年に、もしヒトラーが首相にならなかったとしたら、というフィクションを成立させるとしたら、そのような大きな歴史的事実の変更は、それ以外の事実により強く従属するという結果を招くこととなろう。そもそも、そうでなければ、歴史的な事実を参照した思考実験としてのフィクションの意味がなくなってしまうからだ。一九三三年にヒトラーが首相とならなかった「もう一つの世界」の可能性を探るというのならば、「それ以外の条件」は、出来るだけ現実と同じものとしなければならないだろう。フィクションが現実の歴史的事実を内包する時、そこには必然的に歴史的事実(とされるもの)に対する責任と、政治的な立場が生じる。

 二〇〇九年である現在(※このテキストは2009年に書かれた)、『エヴァ』の物語が再び語られるとするならば、それは二〇〇〇年にセカンドインパクトが起こったという「この世界とは別のもう一つの世界」の物語とならざるを得ない。物語において現在となる二〇一五年は未だ近未来であるが、その重要な背景となるセカンドインパクトの起きた年は、既に過去となってしまっているからだ。
 なにしろ物語上では、シンジもアスカも既に産まれて、現在どこかに存在しているはずなのだ。しかし、そのような現在にきわめて近い近未来のパラレルワールドという設定に意味があるとしたら、その物語それ自体が、現在の現実的状況ときわめて近い設定で、しかしそのどこか一部が異なっているという時に限られる。だが、『エヴァ』はそもそもそのような話ではない。もともと、『エヴァ』には具体的な年号が書き込まれる必然性などなかった。シンジが産まれたのが二〇〇一年であることの必然性は、たんにそれが二十一世紀の最初の年であり、『エヴァ』が製作されたのが二十世紀であること、つまそれが「次の世紀」であり、彼らが「新しい世代」であるということにしかないだろう。しかし、オリジナルであるテレビシリーズでは、実際に年号が書き込まれてしまった。書き込まれてしまった以上、現実の時間との対応関係が生まれてしまう。

「サザエさん」と「ちびまる子ちゃん」


 ところで、『サザエさん』のテレビアニメシリーズの放送がはじまったのは、一九六九年である。そしてその年からカツオはずっと小学5年生であり、11歳である。その世界では、基本的に時間は流れていない。よく言われるように、家電製品などのマイナーチェンジがみられるが、しかしそれはまさに時間が流れていないことを示すためのもので、舞台は常に、ここではないどこかでありながら、決して遠く離れた場所であってはならず、「昔」だと感じさせてはならないという理由からだろう。神話的な世界ではなく日常的な世界が舞台である『サザエさん』においては、それが「時間の外」に位置するためには、常に現在からの視線にとって違和感がないことことが求められる。そのような世界のなかで、カツオは呪われたかのように永遠に11歳でフリーズされている。
 対して、『ちびまる子ちゃん』の世界では事情が異なる。その世界は昭和三十年代の記憶によって構築されており、それはごく大雑把に「昭和的」と称されるノスタルジーを喚起する世界だ。それは厳密に考証された昭和三十年代ではなく、イメージとしての「昭和」であろう。だからそこでは、一見日常的世界が舞台とされているようでいて、実は神話的世界が舞台となっていると言えるだろう。『ちびまる子ちゃん』の登場人物たちが、『サザエさん』のそれに比べてさえもずっと類型的であり、役割的である、つまり、キャラクターの固有性が希薄である理由は、そこにあるように思われる。
 まる子の呪いが、カツオのそれに比べれば軽度のものであるように感じられるとしたら、まる子が徹底して類型的なキャラクターであり、人物と言うよりも人物以前のもの、その原型とか雛形のような存在であるからだと言えるだろう。

 永遠に時間の止まった『サザエさん』の世界でも、季節は移り変わる。春は夏になり、秋は冬になる。しかし、次の年は決してやってこない。来年が今年になり、今年が去年になることはなく、来年は永遠に来年でありつづけ、去年も永遠に去年でありつづけるだろう。『サザエさん』の世界の外では時間は流れる。カツオの声を担当する声優は、大山のぶ代から高橋和枝に、そして冨永みーなへと移り変わるが、声がかわろうとカツオはカツオであり、11歳のままである。『サザエさん』の外の世界では、四十年以上の時が流れたが、一週間に一度の間隔で繰り返されるその内部の世界では、時は止まったままだ。
 『エヴァ』が『サザエさん』と異なるのは、それが一旦完結して十年過ぎた後に(「Air/まごころを、君に」の公開は九七年、「新劇場版・序」の公開は二〇〇七年)、とつぜん反復されたということだ。それは『サザエさん』のように、毎週律儀に反復されているわけではない。
 『サザエさん』の無時間性を支える重要な要素の一つとして、それが(その外部の流れる時間のなかで)一定のリズムを保ちながら反復されているという点があるだろう。それは、(時間の流れる)現実世界のなかに一定の場所を確保された無時間なのだ。本来、無時間は、時間の流れる現実世界のなかに場所をもたないはずなのだが、一定の間隔を置いた機械的反復の持続が、不規則に変化する「この現実」のなかで特別な位置を作り出し、それを現実のなかに登記可能にする。
 『サザエさん』が毎週つづいている限り、わざわざ、今日、これが反復される必然性はどこにあるのか、と問われることはない。しかし『エヴァ』は、その間をあけての唐突な回帰によって、「何故、今」と問われることから逃れられない。『エヴァ』の回帰は、道頓堀からのカーネルサンダースの回帰のように唐突であり、不条理である。それは、本来オリジナルの『エヴァ』が持っていた特徴を裏切るものですらあるように思われる。しかし本当にそうなのだろうか。

たった一度の十四歳の夏 


 オリジナル版『エヴァ』に具体的な年号が書き込まれた理由は、フィクションとしての虚構内世界と、その外部の現実世界とに参照点をつけ、両者を結びつけるためというよりも、その作品世界が、(『サザエさん』のように)繰り返し反復される無時間世界ではなく、たった一度だけの出来事として記述されるはずの出来事だったからではないだろうか。だからこそこの話は二〇一五年という特定の年の出来事であり、二〇〇一年に産まれたシンジが十四歳の時という特定の年齢の話なのだ、ということではないか。
 作品の設定では、二〇〇〇年のセカンドインパクト以降、地球には季節が存在しなくなり、ずっと夏がつづいているということになっているのだが、逆に言えば、このことは、この物語が「十四歳の夏」という極めて限定された一時期の、一度きりの経験の話である、ということを表すのではなかっただろうか。そう考えれば、年号の必然性は理解出来る。

やり直される終幕


 とはいえ、『エヴァ』という作品には当初から「やり直し」が付きまとってもいる。現在観ることの出来るDVDに収録されているのは、テレビでオンエアされたバージョンとは微妙に異なる、リニューアルされたビデオ版であり、しかも、終盤になるとOA版とビデオ版とが両方同時に、世界が分離するかのように併置されて収録され、OA版の結末(二五、二六話)と、ビデオ版から繋がる結末(「Air/まごころを、君に」)という二つの結末に分かれる。
 つまり、結末が、反復され、やり直されている。だが、このやり直しは、根本的なやり直しではなく、こまかな修正であり、余裕がなくてばらけてしまったものを整理し直したに過ぎない。
 実際、作品としての『Air/まごころを、君に』は、その絵柄の異様な歪みも含め(冬月の顔など全然別人だ)、非常に陰惨な印象が与えられるばかりだ。しかも、世界への根本的な拒否の感情が、アスカという(シンジにとっての未知の)他者に預けられ、それに依存するかたちで表明されているという他は、こけおどし以外はOA版に新たなものは何もつけ加えられていないし、変更もされていないという作品だったと言わざるを得ない。
 これだったら、やり直しなどされない方がマシだった。多分に混乱がみられ、作中の重要な謎を未解決のまま残して、半ば投げ出すように強引につけられた結末だとはいえ、OA版の結末こそがこの作品の必然的な帰結なのではないだろうか、と感じられてしまう。つまり、出来事に後からつけられた注釈は蛇足だ、と。

旧劇場版によって付け加えられた「呪い」


 しかし、注意深くみてみると、この『Air/まごころを、君に』には、ひとつ、OA版にはなかった重要な呪いが刻印されているのに気づく。旧劇場版は、この「呪い」の刻印のためだけにつくられたかのようですらある。それは終盤、作品がほとんど終わりに近付いた時の、冬月とユイとの会話にみられる。
 そこでユイは言う。人はこの星でしか生きてゆけないが、(神の代理物である)エヴァは無限に生きてゆける、そのなかに宿る人の心と共に、と。たとえ、五十億年経って、この地球も、月も、太陽さえも無くしても残る。と。つまりここで刻まれているのは永遠という呪いだ。
 一見、優しげな表情で、息子に向かって、生きてさえいればどこでも天国だと語りかけるこの母親は、自分の息子に無限という呪いを、当然それが息子にとっての幸せであるかのようにして平然と刻み付けるのだ。たった一人でも生きてゆけるなら、さみしいけど、生きてゆけるなら…、とユイは言い放つ。ここで刻まれる呪いはだから、永遠というだけでなく、永遠の孤独でもある。人類補完計画とは、この「呪い」のことだったのだろうか。
 この場面は、陰惨な殺戮ばかりがつづくこの旧映画版のなかでも、最も恐ろしく、背筋の寒くなる場面だと言えよう。『エヴァ』という物語に出て来る男たちが皆、ひたすらに求め続ける「母」とは、このように、息子に平気で永遠という呪いをかける恐ろしい存在なのだ(オリジナル版+旧劇場版では、シンジだけでなく、ゲンドウも冬月も、ユイという不在の磁力に操られている)。
 呪いをかけられた息子は、エヴァという永遠につづく「魂の座」のなかで、(たった一度の出来事であったはずの)十四歳の夏の悲惨を(果てしのない殺戮を、アスカによる拒絶を)永遠に繰り返すことになる、というのか。それがこの『エヴァ』という物語の帰結なのだとしたら、それはいくらなんでもあんまりではないだろうか。ここでかけられた「呪い」が遡行的に作用して、『エヴァ』という作品全体の時間のあり様さえ変質させてしまうように思う。
 これが付け加えられることで、『エヴァ』という作品全体が具体的な年号と、出来事の一回性を手放すのではないだろうか。

 エヴァという器のなかで、十四歳の夏の悲惨が、永遠に繰り返される。オリジナル版に対して、旧映画版があらたに刻み付けた呪いがこれだとするならば、ここで『エヴァ』という物語は完結したのではなく、たんに封印されたということだ。外から切り離されたエヴァの内部で、それは永遠の内省として反復されつづけている。
 二〇〇〇年、セカンドインパクト、二〇〇一年、シンジ誕生、二〇一五年、第三の使徒来襲。このような外的な現実(時間)と出来事との関係はもはや消失し、すべては内部に反響するこだまとなり、しかしそのこだまは常に反響しつづけ、ずっと生々しく生き続けられている。
 外部の時間との参照点の消失は、その出来事が、その時間が、決して過ぎ去らないということと同義だ。『サザエさん』のカツオが、毎週律儀に11歳を反復し、11歳を生き続けているのと同様に。たんに、我々の目からはそれが隠されていて、見ることが出来なかったというだけだ。道頓堀に投げ込まれたカーネルサンダースが、決して消失したのではなく、ただ川の濁った水によって隠されていただけで、ずっと存在しつづけていたのと同様に、十四歳の悲惨は存在しつづけた。そしてそれは唐突に回帰する、「新劇場版」として。

新劇場版として反復する意味


 「新劇場版」という新たな回帰、新たな顕在化は、しかしまったく恣意的なものというわけではないだろう。そこには何かしらの意思があり、賭けられた何かがあるはずだ。そしてそこに賭けられたものがあるとすれば、それは「母の呪い」の解除の他にはないだろう。実際、誰がみてもわかるほどはっきりと、「新劇場版」では、母の磁力、ユイの磁力を、作品を崩壊させないギリギリのところまで、出来うる限り軽減しようという試みがなされている。
 例えば、父との関係の影が濃厚にうかがわれる葛城ミサトに対し、母との関係が濃厚にうかがわれる赤城リツコの存在が「新劇場版」では希薄であり、彼女の母親の人格がそのまま移植されているという設定であるはずのコンピューターシステム「マギ」は、ただその名前を残すのみで、その由来(母性)は消失してしまっている。ミサトとシンジの関係も、保護者-被保護者的(母-息子的)なものから、擬似的なカップルのようになっている。
 最も顕著な例はエヴァの覚醒の意味がかわってしまっていることで、オリジナル版では、エヴァの覚醒とはまさに、息子であるシンジを母であるエヴァが取り込んで一体化しまうという出来事であり、そこでシンジが見る世界は、旧シリーズの一応の完結編であるはずの「まごころを、君に」でみられる、人類補完計画後の(呪いの)世界と酷似している。
 一方、新劇場版では、エヴァの覚醒とは、エヴァと(レイと同化してしまった)使徒との融合であり、それは使徒からレイを奪い返し、自分自身がレイと一体化したいというシンジによる強い主体的欲望の具現化として起こっている。ここで、母子関係から男女関係への重心のシフトはあまりにあからさまであり、わざわざそれを指摘するのが恥ずかしいくらいだ。それは、オリジナル版ではあくまで母のイメージのコピーであったレイというキャラクターのあり様を、根本から変えてしまうほどに徹底されている。

母というオブセッションから異性へ 


 オリジナル版で、二度とエヴァに乗らないと決心したシンジを再びエヴァに乗せるのは社会的な使命感だが、新劇場版では、それはあくまでレイのためであり、レイを取り戻したいという個人的感情、恋愛感情である。ここでは、母の力を後退させるために、社会性さえも犠牲にされ、「個の意思-恋愛」が尊重されているのだ。
 だが同時に、新劇場版においてもシンジの自立した感情や主体的意思が絶対化されているというわけではない。シンジは確かに自らの意思で主体的に行動するが、シンジのレイに対する欲望は、既に父ゲンドウによって事前に予測され、彼の計画の一部に組み込まれてさえいるようなのだ(オリジナル版のゲンドウならば、レイはゲンドウにとっても欲望の対象であり、シンジに取られたことを嫉妬するはずで、ここにもレイというキャラクターの占める位置の大きな変化がみられる)。
 オリジナル版においても新劇場版においても、出来事のことごとくは既に「死海文書」によって予言されており、その予言された出来事を、自分の目的に都合のよいように利用するために、ネルフ(ゲンドウ)とゼーレとの駆け引きがあり、闘争がある。大きく引いてみるならば、シンジ自身は、その能力だけでなく、感情や欲望のあり様さえ含めて、彼らに操られるコマでしかない。
 新劇場版では、ネルフとゼーレだけでなく、新キャラクターのマリや、オリジナル版とは異なる登場の仕方をする渚カオルまでが、その大きな枠組みのゲームに参加しているかのように匂わされている。

 シンジの自立性が強調されるとともに、同時にそれが相対化される。それによってもたらされるのは当然、父によって導入される社会的な空間であり、母の磁力の後退であろう。しかし、それは本当にそんなに上手くゆくのだろうか。永遠の十四歳の呪いは解かれるのだろうか。母性から異性へって簡単すぎないだろうか。母から女へ移行したとしても、結局その欲望が「一体化」だというのはどうなのか。社会的空間とか言ったところで、そもそも現実的な時空との参照-関係を断った上で設定された、幼稚な世界像の上でのゲームでしかないのではないか。
 もともと『エヴァ』はあからさまに母性的な作品で、エヴァは母であるし、エントリープラグは子宮だし、LCLは羊水だ。人類補完計画は失われた母子一体化への追憶だし、その全体への合一化の強い欲望と、それに反する他者への嫌悪の唐突な発現は、愛と憎しみとが果てしなく反転しつづける(メラニー・クライン的な)母性的癒着の世界だ。こんなことはわざわざ書き付けるのも恥ずかしいくらいに明白だ。それは作品の最も深いところにまで刻み込まれている。だからこその「呪い」ではないのか。
 それを解除してしまったら、『エヴァ』によって『エヴァ』という作品が否定されるということになりはしないだろうか。これら疑問はしかし、新劇場版が未だ完結しておらず、途中の段階であることから、それを最後まで見届けた後にまで保留としておくべきだろう

キャラクターの著しい変化とそれでも維持される「同一性」


 『新劇場版・破』でもっとも興味深いのは、母の力の後退そのものであるよりも、その結果としてもたらされた、キャラクターの性格の著しい変化にこそあるように思われる。シンジ、レイ、アスカの三人は、まったく別人のようだとまでは言えないにしろ、まるで人がかわったかのようだ、とは言えるかもしれないくらいに変化している。
 ただし、変化そのものが重要なのではなく、著しい変化にもかかわらず、ギャラクターとして「同じ人物」であるということ、それが許容されるというところが興味深い。
 実際、キャラクターというのは、どのくらいの変化に耐えて、その同一性を維持するのだろうか。例えば、ドラえもんやカツオは、声がかわっても、ドラえもんでありカツオである。『ジャングル大帝』のレオは、フィクションとしての世界を飛び出して、プロ野球の球団マスコットになってもレオである。レオが二次元から着ぐるみとなって三次元化しても、綾波レイがフィギュアとして三次元化しても、レオでありレイである。新劇場版においてアスカの姓は、惣流から式波へと変化しているにもかかわらず、アスカはアスカである。
 キャラクターはそもそも、特定の時間や空間に囚われない。それが生み出された母体である作品から切り離され、マスコットとなり、二次創作のネタとなり、さらに、サザエボンやアムロ波平など、まったく出自のことなる別のキャラクターと融合されることさえあり得る(それでもなお、同一性を保っている)。
 では、視覚的な類似性が認められれば良いということなのだろうか。だが、絵の下手な人が描いた、まったく似ても似つかないシンジであっても、これはシンジだと言い張ればシンジなのかもしれないのだ。あるいは、アスカが極端にデフォルメされて二頭身で描かれたとしても、まったく似ても似つかない人がコスプレしたとしても、髪の色等、どこかでそのキャラとわかる「しるし」が認められれば、それはアスカであろう。キャラクターの同一性では、絵(イメージ)としての質など問われることはない。
 このような融通性の高さは、キャラクターという強い力のもつ自由さであると言えるのか、それとも、多々の変化にも関わらず、そこに共通した固有性が認められてしまうほどに強い「呪い」のもとに束縛されていると言うべきなのか。

 このような、キャラクターというものの極端なまでの融通性こそが、『エヴァ』という物語の反復的な語り直しを可能にしているとさえ言えないだろうか。
 オリジナル版+旧劇場版と新劇場版とでは、大筋で「同じ話」として進行している。しかし「全く同じ話」ではない。例えば、何度も映し出される教室のプレートは、オリジナル版では「2-A」だが新劇場版では「2年A組」となっている。レイの台詞、「ありがとう、感謝の言葉、はじめての言葉」は、オリジナル版でも新劇場版でも「まったく同じ言葉」として共通しているが、それが使われる場面(位置)が異なる。あるいは、シンジとゲンドウがユイの墓参りに行く場面は、構図やカット割りまで含めほとんど同一の場面として反復されるが、墓の形状が異なる。さらに、オリジナルではこの場面はアスカの登場以後なのだが、新劇場版では登場以前だ(ここでも同一物の位置の変化がある)。エヴァ三号機が使徒と化してしまうというエピソードは共通しているが、その時に乗っているパイロットはトウジからアスカにかわっている。オリジナル版では存在しなかったキャラクターが新劇場版には登場している、等々。
 だがそもそも、同じ世界の、同じ話が、新たなものとして語り直されると言う時、その基底である「同じ世界」であることを(二つの作品の「重なる」部分こそが基底となっていることを)保証している主な力は、オリジナル版でも新劇場版でも、物語がどちらも同じキャラクターたちによって演じられているという事実なのではないだろうか。

 オリジナル版と新劇場版は、比較のために二枚同時に並べられたそっくりなタブローとは異なる。それは同時にあたえられたものではなく、あくまでも最初にオリジナル版がつくられ、その作品の強い力の作用として、当初は予定されてはいなかったはずの新劇場版が(作品の完結から十年後に改めて)つくられた。
 キャラクターを立ち上げ、その固有性をつくりだしたのは、あくまでオリジナル版の力である。だが、一度成立してしまったキャラクターの固有性は、その後、その居場所(存在する環境)がかわっても一定の力を発しつづける。
 作品そのものを起動させ、持続させるモチーフや内在的な力や秩序に対し、キャラクターはそこからこぼれ落ち、自律した過剰な何かであり、作品から外在化されてしまったとしてもなお、その存在が存続する。このようなキャラクターの自律性が、作品の内部に外的な力を招き入れて、続きとして作られる作品をまったく別物にしてしまうことさえあり得る。作品そのものに対する、キャラクターの優位というのは、確かにあるようなのだ。
 もしかすると、キャラクターに刻まれた「永遠という呪い」とは、一度成立してしまえば、大きな変形を加えられてもなお「同一性」を維持してしまうという、キャラクターが持ってしまう「この力」のことなのではないだろうか。だとすると、シンジの呪いは必ずしも母性的な力の作用だとばかりは言えないのかもしれないのだ。
(了)


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