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夢の場所、フレームの淵/『水死』(大江健三郎)論 (1)

古谷利裕


0.

 当たり前のことだが、小説は必ず一生よりも短い。一生をかけて繰り返し読み続ける小説があったとしても、一生のすべての時間をかけて読む小説はあり得ない。もし、一生のすべての時間をかけて小説を読みつづけるとしたら、小説はそのまま、その人の一生とぴったりと重なって、等しくなる。だからそれは小説とは呼ばれず、その人にとっての現実そのもの、その人の人生そのものということになってしまう。一生よりも短いからこそ、それを自分自身の現実から切り離されたもの、つまり「小説」として読むことが出来る。小説が人生よりも小さいサイズであるからこそ、例えばそれを座右の書として、生涯傍らに置いておくことも可能になる。

 模型の魅力は原寸より小さいところにある。原寸より小さいからこそ、見る者は、その空間から切り離された、その外に立つ者として、空間を所有するかのような感覚と共にそれを見る。記憶や幻想の外在化であるジオラマは小さくなければならない。そうでなければ現実と分けられなくなってしまう。では原寸大のサイズをもつジオラマ、江戸川乱歩のパノラマ島のようなもの、あるいはテーマパークのようなものはどうか。そのような場所は、空間的な区切りと、その内部にいる時間の区切りとによって、現実から切り離されてる。外と内との区切りがはっきりしてして、任意に、その中に入ったり、出たり出来ることによって、現実との区別を確保する。

 フィクションは一般に、時間的、空間的なスケールの小ささによって現実と区別される。逆にいえば、時間的、空間的なフレームの淵がはっきりしないフィクション、そこに任意に(自らの意志によって)出たり入ったり出来ないフィクションは、不可避的に現実と混じり合い、現実と呼んでも差し支えないものとなる。一生つづく小説や映画、出口のないパノラマ島は現実である。あるいは、自らの意のままにならない幻覚は現実である。そこにあるのはフレームの問題だろう。

 フレーミングされるフィクションのサイズが小さいことは重要である。それは現実からこぼれ落ち、現実から逃れ去るものを拾い上げ、仮留めする。あらゆることが関係し合い、影響し合い、あらゆることが変化しつづけ、流れ去りつづける現実のなかで、そこから区切られ分けられることで、フィクションは一定の独立性や持続性をもつ。小説が一生と同じサイズになると、現実となった小説はそこへの自由な出入りを許さず、人はそこに絶対的に拘束されるが、一生より小さなサイズであることによって、それを意識しつつもその外にいて、、それを傍らにずっと置いておくことも出来る。一生、その人の傍らにありつづけた小説は、現実の外から現実へと強い影響を及ぼしつづけるかもしれない。あるいは、「現実」と呼ばれる、自由に出入り出来ない、そのただ中に拘束されつづけるフィクションを、その内部から別の方向へと動かし、つくり直す、その時の導きのしるしとなるかもしれない。

 だが実は、世界そのものには時間的にも空間的にも果てがない(フレームがはっきり確定できない)以上、サイズの大小、フレームの内外は絶対的なものではなく相対的なものであり、そしてそれは反転されるかもしれない。例えば夢。一日に八時間寝るとしても、夢を見ている時間は一日(二十四時間)より短い。つまり、小説と同様、夢は一生よりも短く、一生の時間の内部に切り分けられてある。だが夢は、眠りと覚醒の断絶によって外側からフレーミングされながらも、夢自身を内側から測る正確な時間の基準がない。夢は、その内側からはフレームを確定することはできない。夢の時間は計測できない。だから、一晩の夢が一生よりも長く、人の現実の一生が、一晩の夢の内部に梱包されてしまうということもあるかもしれない。


1.

 近年の大江健三郎の小説の多くは、明らかに作家本人(の現在)を想起させる主人公によって語られる。そのほとんどで、作家の身近な範囲で起こる出来事が描かれており、作家の家族や友人たちが登場する。小説の主人公の家族や親類の構成や、主人公の作家としての来歴は、我々が大江健三郎という作家の伝記的事実として知っているものに正確に対応している。例えば『水死』において、主人公の作家、長江古義人の過去の作品として登場する『みずから我が涙をぬぐいたまう日』という作品は、本作において言及されるのと同じ内容をもつ大江健三郎の作品として実在する。著名人である作家の友人たちもまた、それが現実の誰に対応するのかが明らかだ。主人公の配偶者の兄である塙吾良は、実際に大江の配偶者の兄である伊丹十三の像とほとんどぴったり重なる。作曲家の篁、建築家の荒、恩師の六隅などが「誰のこと」であるのかも明らかであろう。

 もう一つ、作品相互が密接な関係をもっているという特徴もある。『水死』は特に『取り替え子(チェンジリング)』と『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』という先行する二作と深い関わりをもつ。本作は、これら二作と地続きの地平の上に構築された物語をもち、本作を読むためにはこの二作を既に読んでいる必要があるとさえ言えそうだ。

 これらの点だけを見ると、その小説世界は私小説的と見えるかもしれない。だが事はそう単純ではない。『取り替え子』における吾良の自殺、『臈たしアナベル・リイ…』における渡辺先生の死等は、確かにそれに対応する人物の死が事実として存在するが(我々も作品外の情報としてそれを知っているが)、『臈たしアナベル・リイ…』に書かれたような、作家の国際的な映画(『メイスケ母出陣』という映画)制作への協力、あるいは『水死』で書かれたような、作家の周囲で起こった殺人事件などを、我々はニュースとしても噂やスキャンダルとしても聞いてはいない。古義人が書いたとされる『みずから我が涙をぬぐいたまう日』は作品の外にも大江健三郎の作品として存在するが、戯曲『メイスケ母出陣と受難』という作品は小説内にしか存在しない(少なくとも発表はされていない)。筆者の知らないところでそのような事実があったかもしれないということを完全に否定することは出来ないとしても、それらの事柄はフィクションであるとみてまず問題ないと思われる。つまり事実とフィクションとが分かちがたく混じり合っている。

 以上のことを、たんなる小説の技法として受け取るべきではない。つまり、読者をフィクションの世界へと誘うための入り口として、親しみやすい身辺雑記的な細部から滑り出す、というようなことではないのだ。このことは、近年の大江健三郎の作品には二つの作品外へと開けた通路(作品外からの通路)が通っているという事実を示していると思われる。あるいは二つの源泉があると言うべきかもしれない。一つは、現実の作家自身の身の回りで起きた出来事であり、もう一つは、自分自身によって過去に書かれた作品の世界である。それは、現実と虚構という単純なことではない。起こったことと書いたことという、二つの次元の異なる現実(過去)なのだ。自分の身の回りの出来事と、自分が過去に書いた架空の出来事は、どちらも現実として、作家の人生という連続性のなかに位置する。ある一定量の「書いたこと」が、『取り替え子』や『臈たしアナベル・リイ…』という、それぞれ別のタイトルをもつ別の本、独立した別の作品として成り立ち、まとめられたからといって、それを書いたそれぞれの時間は作家の人生の連続性のなかにあるので、それをきれいに切り離すことは出来ない。長年、多量の言葉を書き続け、多量の本を出版している作家であればなおさらであろう。これは、意識的な自作の引用やサーガ形式の採用ということではなく、書く人、書き続ける人としてある作家にとって自然な現実を反映していると思われる。身近に起こったことと自分の手によって書かれたことという二つの異なる次元が、共に同じ強さ、同等の資格をもって混じり合うことで、「次に書かれる作品」の土壌が形作られているのだ(さらに第三の系として「読んだこと」もここに加わるが、これは独立した一つの系であるよりも、「起こったこと」と「書かれたこと」のどちらにも流れ込むもので、この点については後述する)。

 ここに、近年の作品のほとんどが作家自身が想起される人物を中心に置いていることの必然性がある。「起こったこと」と「書いたこと」という二つの異質さ、重なり合わなさを、実際に作品としての言葉を書き付けているその人である大江健三郎と、書き付けられた言葉の束(小説)を語り手として秩序づける中心人物である物語の主人公の作家を重ね合わせることで、合流させることが可能となるのだ。私の生のなかで起きたことと、私が「書く」ことのなかで起こったことが、その小説を書いている作家にとって切り離せない、同等なものであり、その「同等である」世界のなかで次の小説が書かれるのだとすれば、その小説のなかに書かれる人物もまた、作家と同様にその「同等」を生きる者でなくてはならない。つまり、大江健三郎自身(を正確に反映する者)でなければならない。大江によって生きられたことと、大江によって書かれたことという二つの流れを合流させることの出来る人物は、大江本人をおいて他にいないのだから。

 例えば古井由吉は、「私」と書くことによって私から離れられるという発言をしているが(『本』二〇〇八年一月号等)、大江健三郎の「私」はそうではない。他でもない大江健三郎である「私」だからこそ、起こったことと書いたこととを同等な重さをもったものとしての「言葉の束-小説」を組織出来るのだ。


2.

 大江健三郎の小説の主人公となる作家本人を思わせる人物は、大江本人に限りなく近い。だが勿論、ぴったりと一致するわけではない。そこには主に二つのズレが生じるだろう。一つは、書かれる私は書く私にとって常に過去の私であるという点。これは、小説が出来事を既に起こったこととして書くしかない以上、避けることが出来ない(これから書かれるはずだった小説の破綻の顛末から書き始められる『水死』においてはなおのことだ)。もし仮に、今、小説を書いている自分を描写するとしても、そこには言葉が書かれるという行為に必要な時間、その一瞬の遅れが常につきまとう。もう一つは、書いている私は現実の側、つまり「起こったこと」の側に住んでいるが、書かれる私は「書かれたこと」の側に住んでいるという点。これはより根本的なズレとしてある。

 後者についてもう少し考えたい。そもそも、書く私をそのまま作中人物とするのは、起こったことと書かれたこととを同等なものとして混じり合わせるためであった。なぜなら、作家自身にとって、それらは同等なものとして生きられているから。ならば、二つの異なる次元を同等なものとして生きている作家(真に「書く私」である誰か)とは、実は、書いている私でも書かれている私でもなく、その中間というか、「書いている私/書かれる私」の間にある「/」という二つの落差という場所に(アンフラマンスとして、あるいは書く行為そのものとして)存在していて、それこそが、常に書いている私と書かれる私とを、分裂させつつ発生させていると考えるべきではないか。前節で、起こったことにおける私が現実で書かれることにおける私がフィクションというのではなく、どちらも現実であると書いたのだが、より正確には、その中間にある「/」としての私こそが現実であり、そこから産出される書いている私も書かれる私も、共にその効果によって生まれるフィクションであると言うべきなのかもしれない。つまり、現実の世界のなかにいる私と、書かれたものの世界にいる私の間に、もう一人、書く人(書く行為そのもの)としての私が存在するということだ。だが、書く人-行為としての私とは、二つの私の落差として、あるいは、私を二つへと分裂させつつ、それらを産出する力の場としてしか存在せず、その姿を見ることはできない。

 これは詭弁のように聞こえるかもしれない。なにしろ、現実としての私は、何も書かなくても、つまり「書かれる私」など存在しなくても(まして、幽霊のような、スラッシュのような、「書く人としての私」などの存在とは尚更関係無く)、それより前から独立して存在しているではないか、と。確かに、書く人としての私(「/」)は最初から存在したわけではないだろう。それは、現実としての私が、小説家として小説を書くという仕事を長年つづけたことによって、その結果としていつの間にか生まれてしまった誰か-何者かであり、本来ならば現実としての私(の職業、生活、習慣)を根拠とする、現実の私に従属する位置としてあったはずだ。しかし、それがいったん生まれてしまえば、主従は反転し、姿を見せない(フレームの淵としてしか存在する場所のない)書く人としての私こそが現実の私を制御し、なおかつ、書かれた私さえ生み出してしまうのだ。書く人(「/」)としての私が発生してしまった以上、「現実の私/(書く人としての私)/書かれた私」という構造が成立してしまう。いったん構造が成立し、作動しはじめるやいなや、現実の側にいる私は(書く人としての私による遡及的な効果によって)、それ以前の(生まれたままの?)私ではあり得ない別物(フィクション)となってしまったのだ。

 ここで、大江健三郎の小説の多くが二人組を主題としていることを思い出されたい。いや、それは主題というよりも、人物関係の基本的なユニットが二人組(二人組の折り重ね)によって出来ていると言うべきだろうか。『水死』においても、まず古義人-コギーという基本関係があり、古義人-アカリ、父-古義人、あるいは父-大黄という関係が、そのバリエーションのように表れている。他にも、アサ-ウナイコ-リッチャンという女性達の協力関係は、まず、アサ-ウナイコというペアとして、つづいてウナイコ-リッチャンというペアとして小説上に現れる。さらに、リッチャン-アカリというペアが、小説全体を通した希望として現れもする。

 主に男達の関係を規定する古義人-コギーという関係について見てみたい。コギーという存在には特異な性格がある。作中でも言及される通り、コギーは具体的な存在であると同時に超越的存在でもあり、いわば、オブジェクトレベルとメタレベルとに同時存在するような位置にある。つまりコギーは、分身であると同時に分裂させる(分身を生む)力でもある。だから古義人-コギーという関係がそのまま、例えば古義人-アカリへと展開されるのではなく、コギーという分身の存在が、古義人とアカリとの関係を可能にする媒介となることで、それが可能となる。古義人とコギーとの関係は、「古義人/(コギー)/コギー」というものであり、そこで作用する括弧のなかの不可視のコギーが、「古義人/(コギー)/アカリ」という形で二人組の関係を成立させるのだ。だから、『水死』における男達の系譜の展開を身も蓋もなく要約するとすれば、「父/(コギー)/古義人」であるべき二人組が、実は「父/(コギー)/大黄」であったという風に読み替えられる話だと言える。とはいえ、もう一方でコギーの存在はその呼び名からして古義人に根拠をもち、古義人との非常に強力な結びつきが働いているので、「父/(古義人)/大黄」という入れ替わりを予感させ、それによって古義人は、夢のなかで大黄と入れ替わり、夢として大黄の行為を体験するかのようになる(大黄が事件を起こした時に古義人は眠っていて、その眠りのなかで、古義人=コギーである「物の怪」が大黄を「憑坐」にした、かのような)。そしてこの時、括弧のなかの古義人は、その位置関係によって、「現実の私/(書く人としての私)/書かれた私」の関係の「書く人」と、一瞬だけ重なることが出来るのだ。この点については後ほど再び触れることになろう。


3.

 だが勿論、『水死』をそのような単線的な展開で要約することは出来ない。本作には一色に塗りつぶすことの出来ない多様な力のせめぎ合いがある。父-古義人-大黄という(とりあえずは中心にあると言える)男達の系列の他に、古義人と穴居人という演劇集団との関係の系列があり、それはさらに穴井マサオとウナイコの系列に別れ、古義人とマサオとの関係は主に世代間の緊張を孕み、古義人とウナイコとの関係は男女間の緊張を孕む。男女間の緊張は、(父をめぐる)母や妹アサとの関係にもみられるし、(アカリをめぐる)長女真木との間にもみられる。男女の緊張が最も端的に表現されるのが、『こころ』をめぐってなされる「時代の精神」への態度の違いであろう。そして、女達の系列は、古義人との関係においてだけ作中に存在するのではなく、彼女たち独自の系列として存在していることを強く感じさせる。そして、それらどの関係にも還元されない特別な関係としての古義人とアカリとの関係が横たわっている。この、多様で緊密な力のせめぎ合いはきわめて充実した密度をもっており、本作を読むことによって得られる手応えには他にはない特別なものがある。

 古義人は、思想信条的には相容れない父に対し強く共鳴する感情-愛を持っており、しかしそれは女達の系列にある者たちによって徹底的に批判される。古義人の父への感情は、作中では大黄という父の弟子であった人物への信頼としてもあらわれている。だがそれは、暴力の匂いと不可分であり、古義人の父や大黄に対するの感情は、自ら制御出来ない暴力への畏怖と憧憬に根拠をもっている。だが本作で暴力的誘引力は、たんに大黄(ナショナリストたち)の側にだけ割り振られているわけではない。それは同時に女達、特にウナイコによっても担われている。ウナイコという人物は魅力的であるというよりは過分に強引な人物として描かれていて、彼女の行う「死んだ犬を投げる芝居」は、一見民主的な外観をもちながら、その実相当に強い言論誘導を伴う乱暴なものである。しかし古義人は、その強引さ、社会に対する好戦性にこそ強い魅力を感じているらしいのだ。それは、彼女たちとの共同作業によって書き上げられた『メイスケ母出陣と受難』という戯曲において、本来の自分の文体とは相容れないような細部(ウナイコが実際に強姦された時に着用していた血や体液の付着した肌着の呈示)を書き込むことに合意していることからも伺われるだろう。

 ウナイコにおける過剰に露悪的な表現は、吾良によって「ヘドだね」と言われた大黄の武器の使用法とも対応するような、思想信条を伴った「運動」に(不可避的に?必然的に?)つきまとう度を超した敵への挑戦-暴力であり、それは「民主主義者」である古義人は本来受け入れがたいものであったはずだ。しかし本作では、そのどちらに対しても、古義人はそれを(積極的に肯定はしなしとしても)明確には否定しないという形で肯定し、いわば引きずられる。思想信条的には互いに相容れないであろう大黄とウナイコとのどちらにも共通してある、生々しい暴力の感触(大黄もウナイコも、暴力を行使する者である以前に、暴力を受けた者でもあるという両義性をもつ)に対して、老年にある古義人が(そしてアサが)抗しがたい魅力を感じていることを、本作は隠そうとしていない。

 本作においてウナイコの強引さ、好戦性は、それがメイスケ母へと繋がる、一揆を起こす女達の妥協を許さぬ力として捉えられることによって正当化される。そしてもう一方、大黄のもつ暴力性もまた、ウナイコに対して再び卑劣にふるまう彼女の叔父(元高級官僚であり、立場としては大黄たちの側にいる)への抗議行動(彼を殺す)としてあらわれる。つまり、女たちの持つ暴力の感触も、男たちのもつ暴力の感触も、どちらも「物の怪」として「国家に抗する力」ということになって終わる。このような結末に対しては、字義通りには納得出来るものではないという態度を、本稿の筆者として表明しておきたい。そしてその上で、本作の肯定的側面について改めて考えたい。

(2)へつづく

初出 「増刊 早稲田文学π(パイ)」 2010年

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