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〔書評〕「わたし」たち/『星よりひそかに』(柴崎友香)

古谷利裕



1.「わたし」たち

 「わたし」たち、について書かれた小説だと読める。「わたしたち」ではなく、「わたし」たち、である。「わたし」たちは、みんな「わたし」であり、それぞれ個別の「わたし」である。

 小説の登場人物である「わたし」は読者である「わたし」とは違う。ではなぜ、わたしでない「わたし」を内側からわたしとして語る(生きる)一人称の小説を読者はすんなり受け入れられるのか。もしそれが感情移入や同一化の作用によるものならば、二十歳前の美しいモデルの女性や眉の太い黒縁メガネの女子高生という作中の「わたし」を、中年男性である読者の「わたし」が受け入れるのは困難であるはずだ。

 わたしとは、必ず「他ならぬ唯一のわたし」として立ち上がる。わたしがわたしであればあなたはわたしではなく、もしあなたがわたしであるなら、わたしはあなたになってしまう。しかし同時に、すべての人が自分を「わたし」として立ち上げていることは誰でも知っている。あるいは、それを当然のこととして受け入れている。「わたし」とは一般的な形式であり、すべての人に適応されると考えられている。

 「わたし」という一般的な(ありふれた、交換可能であるはずの)形式が、その都度なぜか「他ならぬ唯一のわたし」という形でしか成り立たない。どんなわたしも「他ならぬ唯一のわたし」でなければならず、他の「わたし」たちから切り離された視点でしか世界を観測・認識・経験できない。わたしの視点は限定されたものであり、別のわたしもまた限定されていて、それはわたしの限定とは別の限定である。わたしの痛みはわたしだけのものであり、隣にいる人とは切り離されている。

 一方「わたし」はわたしを構成する内容とはあまり関係がないとも言える。思考実験としてならば、わたしの左腕を対象化して切り離し、義手にかえ、右足を義足にかえ、脳にコンピュータをつないで記憶とその検索という一部の機能を介助してもらうようにして……、といった具合に、徐々に「わたし」を構成する部分を対象化し、切り離し、別のものにとりかえてゆくと考えることはできる。すると、今のわたしを構成しているものがまったくなくなってしまうところに行き着く。部品A、B、Cで出来ている今のわたしが、B、C、Dとなり、C、D、Eとなって、D、E、Fにまでゆくと、最初のわたしとは完全に別物になる。しかしこの変化は連続しているから、最初と最後で同じ「わたし」が持続している。

 つまり「わたし」と呼ばれる何かから、わたしを構成するものすべてを対象化し、切り離すことが、原理的には可能だ。だから「わたし(という形式)」は、わたしを構成する要素とは別の次元にある一つの機能だ。登場人物の「わたし」と読者としての「わたし」は、そのような「わたしという形式」の媒介によって重なり得ると考えられる。


2.「思いを込めて誰かを見る人」と、「思いを込めて見る人」を見る人


 収録された七編は、二×三+一という形式で複雑に構成されている。ペアをつくる短編が三組あり(一、二話、三、四話、六、七話)、それらがわずかな繋がりで関係づけられ、そこにより繋がりの薄い一篇(五話目)が付け加えられる。

 一話目が、六、七話目のペアと、二話目が、三、四話目のペアと、それぞれ一方的な見る→見られるという関係で繋がっていて、五話目のみがやや異質な位置にある。いわば、一話目が六、七話の方を、二話目が三、四話の方を見ていて、五話目は逆向きに一話の方を見返していると言え、各短編間の関係に交わらない視線の複雑なやり取りがある。さらに、一、二話のペアと六、七話のペアは鏡像的な対称性をもち、三、四話のペアがその真ん中に挟まれている。このような連作の配置は内容と深く関わっている。

 一話目で亜希やミニ子から見られるnoka(乃夏)というモデルが七話目の視点人物となり、二話目でえり子から見られる黒縁メガネで犬顔の女子高生(沼田)が三、四話目の視点人物となる。ここで乃夏や沼田は一方的に見られるだけで、自分たちが一、二話の人物から見られていることを知らない。このような視線の一方通行性(AはBを見ているが、BはAの視線を知らない)の多様なバリエーションが作中に様々に描かれる。

 例えば、乃夏はモデルで女優であり、多くの匿名の視線が注がれていることには意識的だが、沼田はおそらく、他者からの視線をほぼ意識していないという風に、視線の一方通行にも様々な違いがある。

 視線の一方通行性は、まず見る人と見られる人という対照をつくる。それは一話目の冒頭がテレビを観る場面であることによっても示される(テレビは見られるだけで自らは見ないから、テレビへのツッコミは空転する)。そして、「見る人」であっても、思いを込めて誰かを見る人と、「思いを込めて見る人」を見る人に分かれる。乃夏は見られる人であると同時に前者であり、沼田は見られる人であると同時に後者である。

 さらに、思いを込めて見る人と見られる人の関係も様々だ。乃夏と高原は付き合っている、ノブナガは思い続けた彼女と結婚する、かなみの思いは届かないが彼は彼女の存在を知ってはいる、一方、ミニ子が乃夏を(高原が触れた女として)見ていることも、圭介がずっと朝川を見続けていることも、相手は知らない。

 思いを込めて見る人の「思い」は、思う相手に届かないとしても、「思いを込めて見る人」を見る人によって受け止められるとも言える。かなみの思いは彼には届かないが、その彼の彼女である亜希は「彼を思う女」の存在を知り、その思いを感じる。反面、乃夏の美しさや才能はみんなが見ているが、彼女の「思い」を見る者はいない。故に彼女の泣き声は《誰にも聞こえな》い。

 切り離され、見たり見られたりする「わたし」たちが本作にはぎっしり詰まっている。彼女や彼らの視線は一方通行で交わらないが、「わたしという形式」を共有する。

 「わたし」たちの視線の乱反射は、ふと「このわたし」と「あのわたし」との取り違え(位置の転換)を実現してしまいかねない気配を生む。それが本作の面白さだ。一話目は、《そしてわたしは、わたしの好きな人のことを、考えていた》という文で閉じられる。この《わたし》は話者の亜希のことだが、ここにあらゆる「わたし」が代入可能だろう。


初出 「新潮」2014年7月号 (『フィクションの音域 現代小説の考察』所収)


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