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〔書評〕子供たちの産まれる場所 / 『一一一一一』(福永信)

古谷利裕

 「二」からはじまる。二人の人物がいる。《二つに分かれ》た道を前に《二の足を踏》む誰かに、別の誰かが声をかけた。《どちらか一方を選ぶ》ことが出来ず《一歩たりとも》前進できなくなっているのでは、と。つまり「二」の次に「一」がくる。その後しばらく、「二」は完全に姿を消すわけではないがやや後退し、「一」が圧倒的に前景化する。「刻一刻」「一時停止」「一期一会」等々。そして二〇頁まで進んではじめて「三」が登場する。《二泊三日》。次の行には「〇」も登場し、ほぼ役者が揃う。本作に登場する数字は「一」「二」「三」「〇」の他は、「万」を残すだけとなる。

 二人の人物の関係。一方が一方的に話しかけ、もう一方は「ええ」「そうでしょうね」「たしかに」と、概ね肯定的な承認の返事を返すのみだ。時に「わかりません」「知りませんね」と保留したり、ごく稀に「いや、あります」と否定を返すことがあるとはいえ、話しかけられる側は相手の言うがままをほぼ受け入れる、話しかける側に形づけられ色づけされる素材である。つまり一見問いかけのような語りは、彫刻家が粘土に対して行うような塑像の行為である。問いかけられる誰かは、《そこの旅のお方》と声をかけられるまでは「誰か」としてさえ存在しない不定形であり、声をかけられたその時点では未だ男でも女でもない「誰か」に過ぎない。

 とはいえ、問いかける者も全能ではない。ごく稀に、オレの存在も忘れるなとばかりに介入するいわゆる「地の文」が、小説世界が二人だけのものでないことを主張する。地の文の初登場は「三」という数字が登場する一頁前のことで、地の文が「三」の登場を準備するともとれる。地の文により、問われる者を塑像する問う者もまた塑像される。だが、問われる者<問う者<地の文という階層関係が成立するというより、地の文は唐突に挿入される異物であり、問われる者<問う者である二人的世界の裏に潜在的な別の次元、別の原理も作動しているのだということを告げる役割であろう(さらに、七六から七七頁を読むと、二人だけと思われた場面に潜在する第三者の存在が匂わされてもいる)。

 加えて、問われる<問う関係とは別の原理である輪廻転生は本作の重要な技法であり同時に主題である。輪廻転生とは同じものが違うものとして、違うものが同じものとして反復されることであり、あるものが別のものへと同一性を宿したまま姿を換え、別の場所へと移送されることだ。その変換方法や散り方は様々である。「一」「二」「三」などの数字は自身を反復、増殖させるだけでなく、それぞれ「ワンカップ大関」「ニット帽」「サンダル」へと転生する。あるいは「一」はさらに「犬(ワン)」や「ワンボックスカー」に転生して、終章の展開上の重要な要素ともなる。

 自転車事故は、幼い男の子と別の誰かで怪我人を交換して反復される。序章で語られる小動物の死は終章にまで様々なコダマを響かせる。靴屋は自転車屋と役割を交代し、セガワサイクルはハセガワリサイクルへと転生する。自転車屋の「自」の字は、「目」や「日」、「白」、「首」、「身」へと転生して、例えば七〇頁だけみても、「逆境」「説得力」「自転車屋」「二代目」「自分」「着々」「道」「手間」「身勝手」「告白」「意見」と、多数の単語の中に似姿を増殖させてゆく。

 では、以上のような形式的な特徴によって本作は何を実現させようとしているのか。結論めいたことをざっくり先に言えば、子供たちが生まれてくる場所、子供たちを孕み産み出すポテンシャルを持つ場所、そのような場の状態を、小説という形式によって作り出そうとしているのではないか。それは、必ずしも現実的な家族や父母という形をとるものではないとしてもある家族的環境の創出といえよう。

 そのような場は予めあるわけではなく、ネガティブなものも含まれた様々な条件から創りだされなくてはならない。本作に描かれている出来事を振り返ると多くがネガティブな事柄である。少女に降りかかる孤立といじめ。小動物への死の脅威。父の期待に応えない二代目。事故が起こり易いよう子供用自転車に細工する瀬川忠保。そして離婚や一家心中、子供の死の予兆。世界は危険に満ちている。さらに、問いかける側の言葉は一方的である上うんざりする迂回を含み、裏に隠された悪意や欲望さえ感じられ、その口調は年長者が年下の者にする鬱陶しい説教を思わせる。

 しかし本作にはネガティブな要素から輪廻転生したその反転形も同時に存在する。溺れた少女を助けようとする小動物達の連携や彼女を助けた心優しい男の存在。死んだ小動物の母の新たな命の懐胎。自転車屋に替わって活躍する靴屋。幼い子供に替わって負傷する者。小説の序章では、誤った道を示す第一の問いかけ人を否定して新たな道を示す第二の問いかけ人も登場する。回りくどい迂回や、説話の展開とは無関係な様々な次元での記号の散逸や乱反射は、ネガティブな要素とポジティブな要素が潜在的に混在するこの世界のあり様の多層性を表している。

 事故というネガティブな結果は、自転車の補助輪を外そうとする子供の冒険心の芽生えというポジティブな要素と裏腹なのだ。新たな存在としての子供はこのような環境のなかに孕まれる。 

 最終章が示すのは、重層するネガティブな状況が迂回と記号の散乱を通り抜けることでポジティブなものへ反転される様であろう。迂回は、継起的展開の線を内側に折りたたむことで何重もの入れ子構造をつくり、そのなかで諸記号の輪廻転生が繰り返されることで、問いかけられている「誰か」の人格が入れ替わるという奇跡が起こる。捨てるべき未練の指輪がいつの間にか希望を示す指輪になっており、妻から見限られた男が頼もしい革ジャンの男になっている。対象は固定したまま内実が書き換わる。その時、一方的に語り鬱陶しく迂回する問う側(うざい年長者)の説教の意味もポジティブへと反転する。ここで「父」が環境全体の変化と同時に誕生する。それによって子供を巡る不穏な徴候が消え去るわけではないとしても。

 一一階へ向かう二つの一(問い、問われる者)に、時速一一一キロでやって来る三つ目の一(輪廻転生する力)が加わり、一一一一号室に至ることでもう一つの「一(子)」が現れる。小説全体が『一一一一一』であるなら、五つ目の一は何もしないがそれを祝福する妖精としての犬(ワン)ではないか。

初出「新潮」2012年2月号 (『フィクションの音域 現代小説の考察』所収)


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