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〔書評〕媒介が思考し、関係が対話する/『ウエストウイング』津村記久子

古谷利裕

 カーナビや携帯電話に利用されるGPSによる位置測定には、地上二万メートルにある複数のGPS衛星に搭載された原子時計との時間の照合が必要だという。だが衛星は秒速四キロメートルを超える高速で軌道上を移動しているため、特殊相対性理論により地上に比べて時間が遅く進む。ややこしいことに、高度二万メートルにある衛星は重力の影響が地上よりも少ないため、今度は一般相対性理論によって地上よりも時間がはやく進む。


 両方の影響を重ね合わせて計算すると、衛星内の時計は地上の時計に比べ一日に二八・六マイクロ秒だけはやく進むことになるそうだ。地上-衛星間の情報のやり取りは光速で行われ、光は二八・六マイクロ秒で約十一キロ進むから、位置情報は放っておくと一日当たり十一キロもズレが生じてしまう。このズレを想定し計算によって補正することでGPSははじめて正確に機能するという。


 我々のいる地上と衛星とでは視点の位置が異なるだけでなくそもそも時間の進み方が異なっていること。そして、一方からもう一方へと情報が届くのにもまた時間がかかること。その時、(伝達経路も含めた)三者を同時に俯瞰的にとらえる視点は成り立たなくなること。つまり「同時」という概念が成立しなくなること。だけどそのズレを計算によって補正することで、基底の異なる三者の正確な対応関係を描くことが出来、三者の情報を掛け合わせた「ある図柄」を浮かび上がらせることは出来ること。GPSという技術は分離した項を「計算」という媒介によって関係づけることで可能になる。


 主要な人物は三人いるが、本作の出来事のすべてはフカボリからはじまると言える。フカボリは一貫して切り分けられた向こうとこちらとを結びつける役割を担う。デスクペンのカートリッジによってネゴロとヒロシを結びつけ、幽霊を見ることで西棟と東棟を結びつけ、トンネルをくぐることで椿ビルとカワダ熱学を結びつけ、大雨で水没したトンネルのこちらとあちらをボートで行き来する。舞台となる椿ビルはターミナル駅の近くに位置するが、間が鉄道の貨物レーンによって分断されており、長いトンネルだけが両者を繋ぐ。フカボリという名はどこかトンネルを連想させもする。


 とはいえ本作にあるのは、無関係だったAとBがCという媒介によって繋がりを持つという単純な構図ではない。例えば自転車のチェーンはペダルと後輪とを媒介しペダルを踏む力を後輪に伝えるが、後輪の動きを前輪に伝えるのは後輪と前輪を繋ぐ車体そのものの硬さであり、後輪が踏んでいる大地と前輪が踏んでいる大地が連続しているという環境の構造だと言える。つまり自転車という装置の構造は、それが存在する環境の構造を取り込むことで成立している。

 前輪と後輪とが接する地面が連続していなければ自転車は進まない。ある関係の作用は別の関係を地とすることで成り立ち、その関係もまた別の関係の作用の影響下にある。フカボリによる関係の媒介は、既にある諸関係の関係という環境=地を利用することで可能になる。椿ビルという環境は諸関係の集積であり、同時にそれらの関係を可能にする基底でもある。インクカートリッジもゴムボートも家庭電気機器取扱協会という謎の組織のゴミとして出されたものだし、ネゴロやヒロシとの関係が生まれるのも、家具が放置されたままの物置スペースがあったからだ。


 そこで、関係を媒介するのはフカボリではなくモノなのだとも言えそうだ。ネゴロとヒロシを結びつけるのはインクカートリッジや消しゴム版画であり、トンネルの向こうとこちらを繋ぐのはゴムボートである、と。モノたちの移動が関係をつなげる。


 だとすれば関係は交換によって生じる。ネゴロがカートリッジに対するお返しを提案しなければ三人の関係ははじまらなかった。ネゴロは「根来」と書くようだが「値頃」と書くことも出来る。彼女はミソノに対しカップラーメンの代金を支払うべきか迷うなど、常に適正な対価(返礼)を気にしている。ネゴロの思いがモノを動かす。


 同じビルにある進学塾の小学生たちと、「人生には多様なバリエーションがあり得る」のだということを話し合いたいというネゴロの思いが、冒頭近くで記されている。彼女のその思いは、結果として匿名の物々交換を通じて知らないうちに果たされる。塾に通う小学生ヒロシは、物々交換をはじめビルで生じた諸関係を通じてネゴロと同様の考えに至るのだ。ここでは事実上、モノの交換を媒介とすることで二人の対話が成立していると言える。その意味でもネゴロの思いこそがはじまりだと言える。もし二人が直接話し合ったとしても(地上と衛星のように時間の流れの異なる)小学生男子と三十歳のOLとの間では深い対話は成り立たないだろう。


 ≪ああそうか、そういう人もいるのか≫と、大雨がなければ知り合うことがなかっただろうアヤニノミヤについてネゴロは思う。これは共感とも無関心とも異なる「違う人生」に対する関係(関心)のあり方だ。そう思うことは彼女の気持ちを少し軽くする。既にある関係によって規定された自分を少し自由にする。


 おそらく小学生ヒロシが様々な人との関係から得たのも同様の感覚だ。「そういう人もいるのか」という形で示される人生の別のバリエーションは、実例として知り得た具体性を越えて広がる。母と二人暮らしであるヒロシの像は、ネゴロの同僚で娘と二人暮らしの柳澤の作中に直接的には登場しない娘の存在にも実質を与え、同時に柳澤の姿がヒロシの母の存在のリアリティを支える。


 フカボリ、ネゴロ、ヒロシにはどこか似たところがあり、近いところで生まれていたならばヒロシ、フジワラ、フルノのような関係になり得たかもしれない。


 しかし本作で重要なのは、近い位置にいても相容れない人物たちの間に一種の和解が為されるというところだ。例えばネゴロにとってりさちゃんとの関係はただ「忘れたい」と思う他ないものだった。しかし様々な関係と関係の関係を通り抜けたネゴロはふと、りさちゃんのメールに返事をしてもよいと思えるようになる。


 ネゴロとりさちゃんが仲良しになる日は永遠にやってこないだろうが、ネゴロは、彼女のことを忘れなくてもいいと思える程度にはリサちゃんを受け入れられるようになる。ネゴロはまた少し自由になる。これは凄いことではないか。


 ならばネゴロと杉本次長の間にも何かしらの和解が訪れる日がくるかもしれない。それが可能だとすれば、関係と関係の関係が本人たちの意識とは別のところで行う補正計算=対話によってだろう。本作が示すのはそのような意味での対話だ。


初出 「新潮」2013年2月号 (『フィクションの音域 現代小説の考察』所収)


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