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写真の思い出

先日、マキノさんという知り合いのカメラマンに夫婦の写真を撮ってもらった。出産まで残り一ヶ月。大きくなったお腹を記録に残しておきたかった。

マキノさんには、私たち夫婦が結婚する前にも一度写真を撮ってもらったことがある。遠距離恋愛だった私たちは、当時直接会った回数はまだ片手で数えるほどだったと思う。その時は、夫の実家の近くの鎌倉に来ていた。二人で会うこと自体が特別で、とにかく一緒にいられるだけで幸せだった。三人で鶴岡八幡宮やその近辺の通りを歩いた。私たちがなるべく自然でいられるようにと、マキノさんは少し離れたところを歩き、時折シャッターを切っていた。写真を撮られ慣れていない私は、初めこそ緊張で顔がこわばっていたように思う。でも、いつの間にか写真を撮られることを楽しく感じられるようになったのはマキノさんの不思議な力のおかげだ。時折話しかけてくれるマキノさんと過ごす内に、いつの間にかリラックスして普段通りの自分の姿になっていた。

今まで私は、写真を特別なものだ思ったことがなかった。現代ではスマホによって、いつでも、誰でも簡単に写真が撮れる。撮った後の加工も自由自在。誰でも美しい写真を作ることができる。撮った写真はいつの間にか何百枚、何千枚と写真がフォルダに溜まっていくが、不必要なものは簡単に消去できる。私にとっての写真とは、そんな「身近」であり、「手軽」なものだった。

でも、マキノさんから送られてきた写真は、私の知らない写真だった。写真の中の私は、現在の夫である有生の横で、恥ずかしさと嬉しさが入り混じった表情をして笑っていた。マキノさんの提案で、手を繋いでいる写真もあった。実はその時に初めて手を繋いだのだ。照れ臭くてその時には相手の顔をじっくり見ることもできなかった。どんな表情だったのか。それがこの一枚の写真の中に収められていた。そこには、私が「手軽に撮れる」と思っていた写真はなくて、「その時にしかとれない」、そして「その人にしか撮れない」写真だった。

結婚する一ヶ月程前、地元に住んでいる母方の祖母の家に寄った時のことである。結婚する際に持っていくようにと言われ、祖母が持っている食器をいくつか分けてもらっていた。その時に、祖母の本棚の一列分が何冊もの薄いアルバムで占められていることに気付いた。背表紙には祖母にとっての孫たちの名前が書き記されていた。
「見てごらん」
祖母が、私の名前が書いてあるアルバムを一冊開いた。そこには、幼いころの私の姿があった。姉や従姉妹、そしてずいぶん若い私の父母が写っていた。自分の姿よりも、そんな両親の姿が新鮮だった。ページを遡ると、産まれたばかりの赤ん坊を抱いている母と、近くに座っている父の姿があった。おそらく祖父がこの写真を撮ったのだろう。二人共カメラにはお構いなしで、ただ一身に赤ん坊に注意を向けていて、そして、幸せそうだった。

私はアルバムを閉じた。そこには私の知らない父と母がいて、私の知らない彼らのストーリーを垣間見たような気持ちになった。


マキノさんから、写真のデータが送られてきた。有生の横で、大きなお腹を抱えている私。いつか我が子がこの写真を見るだろうか。その時どんなことを思うだろう。ふとそんなことを思った。

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