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鎌倉の家をリノベする計画

うちの家族はほとんど鎌倉に縁はない。と思っていたけどひいばあちゃんの妹が2人ほど鎌倉に住んでいた。もう二人とも他界しているけど一人は一族が鎌倉にいるらしい。らしいというのは、私は直接会ったことがないからである。もう一人の叔母(大大叔母と言えば良いのか?)は子供がいなかったのと彼女の夫が一周り以上も離れていたのでその叔父が亡くなって以来ずっと一人だった。もちろんひい婆ちゃんの妹なので私はほとんど面識はなく(まあ普通ないと思う)育ったわけだけど、ひいおばあちゃんは何回か私がその大大叔母の”梅”さんに似ていると言っていたことがある。見た目ではない、やることが、らしい。

梅さんには記憶がないくらい小さい頃には何度か会っていたらしい。もちろん覚えていない。たまに聞いていたのはおじいちゃんが毎月子供のいない梅さんの代わりに銀行やら株券のことやら弁護士さんやら、おばさんが貸していた家に家賃を回収に行ったりしていたということぐらい。東京の西の端から鎌倉に行くのはかなりの旅だ。今思えば同じ市内に住んでいる姉妹の家族に頼めばよかったのにとも思うが、なぜかおじいちゃんが面倒を見ていた。おじいちゃんは1番のお気に入りの甥で小さい頃から学費の後押しやら色々してくれていたらしい。というのをだいぶ後になって聞いた。

私がちゃんと梅さんに会ったのは27歳の時。梅叔母さんは久しぶりと言ったが私は全く覚えてないので初対面である。ひいばあちゃんはその2年前に他界していた。おじいちゃんはその一年前。そう、梅さんは頼りにしていたおじいちゃんに先立たれてしまっていた。そして何故か梅さんのお使いはおばあちゃんが任命され、一人でやるのは心許ないとおばあちゃんに頼まれお母さんがついていくことになった。というわけでおじいちゃんが死んでからはおばあちゃんとお母さんが梅さんのお使いに毎月鎌倉に行くことになった。梅さんは鎌倉高校裏にあるキリスト教の病院に入院していた。入院、というより入居に近かったような気がする。心臓が弱かったこともあり、80年代からはほとんどその病院暮らしだったと聞いていた。普通の病院なのになんでこんなに手厚く長期入院ができたのか私にはわからないけど、おそらく長い病院との関係があったのではないかと思われる。ちなみに梅さんが亡くなった後の遺言書には土地の半分をその病院に寄付するようにと書いてあったということだ。

話を戻すと、梅さんに会ったときにびっくりした。100歳近いおばあさんが全くボケていない。ひいおばあちゃんも100歳で死んだけど最後までシャッキリしていた。やはりボケない頭というのは遺伝なのだろうか。ひいばあちゃんの姉妹たちは皆長生きであった。

その時初めて知ったのが梅さんはアメリカに行っていたということだった。いや、多分ひいばあちゃんが言っていたのかもしれないけどあまり気にしてなかっただけかもしれない。ものすごくはっきりとものを言う人で明治生まれの人にしてはすごく個性的なおばあちゃんだった。毎朝コーヒーを飲むのは欠かさないこと。アメリカに行った理由はアメリカ赴任になった家族の子供の専任家庭教師として行ったこと。アメリカのビーフは美味しいと言うこと。ボーイフレンドはいるの?等々質問織り交ぜながら、色々嬉しそうに話していた。一番驚いたののはそのアメリカで叔父さんと出会い結婚したということだった。あの時代にしてアメリカに飛び込み相手を自分で見つけて結婚してしまったのだ。面白すぎる。

帰りがけに母から聞いた話では、アメリカからは戦前には戻ってきていたようで、その頃真っ赤な広いつばの帽子を被り真っ赤なワンピースを着て颯爽を歩く細身で長身のおばさんは街でもものすごく目立っていたらしい。らしいと言うのは母も聞いた話である。100歳近くてもあの頭の冴え方とジョークの飛ばし方だ。想像は難しくなかった。

私はその後程なくしてまたカナダに戻った。梅さんにとっては数回目でも私にとっては1度会ったきりで梅さんは翌年に旅立ってしまった。時々思い出してはもう一度くらい会って話がしたかったなあ、と思うのである。これまた後になって聞いたけど梅さんは私のことを姪宛の手紙に書いていたらしく、何度も私が梅さんに会ってたんじゃないかと思うほど詳しく書いていたらしい。一度しか会ってないと母が言うと大層驚いたそうだ。なんとなく会った瞬間にお互いに同種の人間だと感じたのかもしれない。ほとんど会ったことはないとはいえ確実に血は繋がっているわけでこの自由奔放な私の性格がひいおばあさん方の遠い誰かからきていてもおかしくはない。少なくとも梅さんと私には引き継がれているようである。あの時代に何週間もかけて海を渡った梅さんの方が確実に濃いのは間違いない。

梅さんが亡くなったのを聞いたのは父からの電話であった。色々相続絡みで忙しいと漏らしていた。私にはそんな相続絡みで忙しいなんて犬神家でもあるまいしうちみたいな貧乏一家には全く想像できないお話だ、と他人事のように聞いていた。しかしながらそれは大袈裟な話でもなかったようだ。祖父が亡くなった後、おばあちゃんと母がお使いの仕事を引き継ぐ前に実はもう一人いたのだ。祖父の妹に当たる私にとっては大叔母である。梅さんはとても自分というものを持っている明治のおなごである。曲がったことが大嫌いな性分なのも会ってちょっと話せば一二分にわかるような人柄だ。当然甥や姪の中にも好き嫌いが発生する。もちろん祖父はダントツ一番であった。その次に信頼していたのがその大叔母だったのである。しかしそのお使いを引き継いだ大叔母もまだ60代の若さで亡くなってしまった。そこであっという間にバトンがおばあちゃんとお母さんに渡されたわけだ。長生きするには強さがいるな、とその時なんとなく理解した。自分だか生き延びる。周りの自分より若いものたちが自分より先に旅立っていくのだ。それでもボケずにはっきりとした人生観を持ちこうして周りが死んでいくたびに遺言書を書き換え続けた梅さんはすごいなと思う。これもまたまた後から聞いた話だが、梅さんは一回り以上年上のその夫であるおじさんから言われた通りにしただけらしい。この叔父がまたすごい。この話はもう少し先にしたいと思う。梅さんはこの遺言書を書いた通りに実行してくれる親族を見極めていたのだ。だからちょっとでも利用したりちょろまかそうという親族は一切そばに寄せ付けなかったという。すごいばあさんだ。私の家族にもこんな人がいたとはなかなか嬉しい。

梅さんが亡くなって、梅さんの遺言書管理をしていた弁護士先生にみんなが呼ばれ、親族全員の前でその遺言書が読み上げられた、らしい。そんなこと金田一耕助の事件簿くらいでしか聞いたことがない。まあ端的に話すとその時に梅さんが住んでいた鎌倉の家と土地がおばあちゃんとお母さんに行くようになっていた。本人含めてみんなポカン。となったらしい。まあ、きっと祖父に渡したかったんだろう。と言ったところである。

そんなこんなで急に鎌倉の家が転がり込んできて大変なことになった、らしい。長年住んでなかったから庭は鬱蒼と茂り、家の中はものであふれ、カビ臭く、動物が入り込んでいる形跡もあったという。それをみんなで大掃除して応急の改修工事を施しなんとか人が泊まれるぐらいまでにはなった。住んでいないと家が朽ちるのは早い。その後叔父や叔母たちがそれぞれに電化製品を持ち込んでたまに遊びに行く場所となった。土地の後ろ半分は梅さんのご要望通りお世話になった病院に寄付されることとなった。これが税金的に相当大変だったと言っていた。ここは梅さんの夫である叔父指示ではないから梅さんも贈与税のことまでは考えが回らなかったようだ。周りの親族からはおばさんが残したお金から贈与税を払うなんてアホか?と思われたようだが、本人の遺志だからと愚直なまでにうちの家族は梅さんの思いを貫いた。そう、梅さんは見抜いていたのである。うちの家族のこういうアホな性分を。素晴らしく頭のいい人だ。

あれから24年。その家は相変わらずあの時のまま、歳を重ね、さらに老朽化が進んでいる。なぜもっと早くに動かなかったのか?それはうちはそういう家族だからである。この家は私もたまに友達と泊まって庭でBBQを楽しんだりはしていたがほとんど寄り付くことはなかった。基本は弟が家守として住んでいたのだ。そんな私もこの家に2017年から2年ほどお世話になった。海外赴任から帰ってきたとき東京のマンションは貸し出してしまっていたため、即座に荷物ごと入れる場所がそこしかなかったのだ。弟が住んでいたところに私の荷物をねじり込んだ。梅おばさんに感謝である。そして私は今茅ヶ崎に住んでいる。全く湘南なんてものに縁のなかった私がサーフィンもしないのに海の近くに住んでいるのだから人生なんてわからんものだ。そして鎌倉の家といえば相変わらずオンオフで弟が住んでいる。

私が鎌倉に住んでいる間に土地の半分を持っていたおばあちゃんが死んだ。そしてこの鎌倉の家は母のものになった。そしてありえないことにシャカリキで元気だったはずの父まで死んでしまった。なんと私が鎌倉に住んでいるたった2年の間に祖母も父も亡くなってしまったのだ。私はといえばそんな2年の間に茅ヶ崎に住処を見つけてローンを組んでしまっていた。

親が勝手にすればいいと思っていた家が母のものになった瞬間に父が死んだため宙ぶらりんになってしまったのだ。








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