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【まとめ】現代諸学と仏法/Ⅱ四句分別という論法②/2レンマ(論法)の構造と自覚の展開【石田次男先生】

[出典:http://imachannobennkyou.web.fc2.com/19.htm]


2レンマ(論法)の構造と自覚の展開

(1)三諦(悟り)有っての四句分別(表現)

叙述判断と論理の関連
判断とは、直接的なものを除いて、推理に基づく叙述判断には論理が深く関わっています。このタイプの判断、例えば比量(類推)や思量(反省的思考)では、多様な論理が適用されます。

仏典における応用型判断
仏典では、横型の叙述判断がよく見られます。これは、存在や非存在の代わりに他の概念が用いられる「応用型」として現れます。例えば、「止観」では、この応用型が論理的な議論に用いられています。

四句分別の原型と竜樹の役割
四句分別の原型は、主に反省判断において使われます。竜樹は、縦型の四句分別を発展させ、これを深く用いました。竜樹の論理では、反省的思考が中心となり、論理学の伝統的な形式とは異なります。竜樹の作品「中論」は、この縦型の使用において、特に重要です。

四句分別の逆説的理解
四句分別は、通常、論理的形式として認識されますが、その真の理解は、実際には逆説的なものです。例えば、四句分別の理解が悟りに至るための道であると考えるのは、事実上の逆転です。真実は、悟りを得た後に、悟りの内容を四句分別を通して伝達することにあります。

四句分別の実践的応用
四句分別は、他者への説明や自己の反省という点で、実践的に応用されます。これは、仏教徒が日常的に用いる一種の道具であり、縦型の使用は、特に悟りを得た後の伝達において重要です。

竜樹と四句分別の関係
竜樹は、四句分別を使って、小乗や外道の限界を明らかにし、空の概念を戦いの中心に置きました。彼の議論は、四句分別そのものを主張するのではなく、仮、空、中といった概念を四句分別を通して表現しています。

仏教における四句分別の歴史と進化
仏教の初期から、四句分別は横型の形式で広く使われていましたが、竜樹の時代には、縦型の使用がより一層強化されました。この進化は、悟りを得た結果、四句分別がより自由に使えるようになったことを示しています。

(2)四句分別と山内得立氏の正論

四句分別の概要
四句分別は、仏教以前から存在する論理的な概念で、以下の四つの要素から成り立っています:

  1. 肯定(有) - 何かが存在すること。

  2. 否定(無) - 何かが存在しないこと。

  3. 両肯定(亦有亦無) - 何かが同時に存在し、存在しないこと。

  4. 両否定(非有非無) - 何かが存在もしないし、存在しないわけでもないこと。

これらの要素は、物理的な存在の有無だけでなく、より広義の「望ましい」「望ましくない」という欲求から発展したものです。

四句分別の論理的構造
四句分別は、単なる存在の有無を超えて、論理的な叙述判断として発展しました。この論理的構造は、形式論理の記号として理解されるべきで、特定の概念を含まない純粋な判断の形式です。

山内得立氏の見解
京都大学の名誉教授である山内得立氏は、四句分別の第三と第四の順序を逆にすべきだと主張しています。彼の見解によると、論理的には「非有非無」が「亦有亦無」より先に来るべきだとされています。この考えは、四句分別を論理学の一部として捉え、独自の解釈を提示するものです。

四句分別の応用と現代への影響
山内教授の研究は、日本人が忘れていたか、初めから学ばなかった論理学的思考を再認識させる重要な役割を果たしています。特に、中国や日本では論理学が従来あまり発達していなかったため、このような研究は特に価値があります。

四句分別の現代的な解釈
四句分別の現代的な解釈は、二重否定と二重肯定の順序に焦点を当てています。空(非有非無)を叙述的な文脈で理解することで、より複雑な論理的構造を明確にすることができます。このアプローチは、仏教と論理学の関係をより深く理解するための新たな道を提供しています。

仏法と論理学の接点
仏法の教えと論理学の関係を理解するには、存在判断、叙述判断、反省判断の三つのタイプを区別する必要があります。これにより、四句分別が示すような複雑な概念をより明確に理解できるようになります。仏法の「有」と「無」は、単純な存在の有無だけでなく、より深い意味を持つことが強調されます。

(3)非有非無(空)から非空非有・亦無亦有(中)の帰結へ

重層有と重層無の理解
単に「重層有」と「重層無」と言うと、通常は論理学の肯定や否定の話として解釈されがちですが、仏法においてはこれらの概念はより深い意味を持ちます。反省のプロセスが深まるにつれて「重層無」に至り、自覚が深まるにつれて「重層有」となります。これらの否定や肯定は、論理学の一般的な法則とは異なるものです。

事例による理解の促進
理論的な説明よりも、具体的な事例を通じて理解する方が効果的です。例えば、「沙羅の四見」の事例では、沙羅林が異なる視点によって異なる意味を持つことが示されています。これは、同一律や矛盾律の影響を受けない思量の例です。

仏法における有と無
仏法では、物事の「有」と「無」は、一般的な論理学とは異なる特殊な意味を持ちます。例えば、仏様の教えや悟りなどは「有」と見なされますが、これらは単純な存在の有無とは異なります。結局、仏法においては、論理的思考も反省も「有」から始まり「有」で終わるという特徴があります。

四句分別における結論の位置づけ
四句分別においては、最終的に「亦有亦無」(有でもあり無でもある)が結論になります。これは、四句分別の理解において非常に微妙で難解な部分ですが、仏法の深い理解に不可欠です。

山内教授の主張と四句分別
山内教授の提案によると、四句分別の第三句と第四句の順序を入れ替えることで、四句分別の論理がより明確になります。これは、仏法の深い理解に貢献するものです。

仏法と中道の理解
仏法においては、中道の理解が非常に重要ですが、その理解は容易ではありません。特に理論的な側面から中道を考える際には、反省の重要性が強調されます。中道の真の理解には、「重層有」と「重層無」の概念を適切に理解することが必要です。

(4)レンマを繋ぐ否定関係

四句分別の反省自覚用縦型整理
四句分別を反省自覚用として縦型に再整理すると、次のようになります。叙述用では、従来の形式―「有」「無」「亦有亦無」「非有非無」―を維持します。しかし、反省自覚用では異なる三句論式に整理することが適切です。この新しい構造では、以下のような順序と内容になります:

  1. 無・有 - これは、世俗生活における無分別(現量)と分別(比量→メタ現量)の選言です。

  2. 非有非無 - 有でもなく、無でもない状態。これは勝義(空)の状態を指します。

  3. 亦無亦有 - 無でもあり、有でもある状態。これも勝義(中)を示しています。

これらの論式は、反省と自覚のプロセスにおいてより明確で道理に合ったものとなります。

四句論式の再構成
この新しい論式では、まず無分別を否定し(無)、次に分別を肯定します(有)。その後、有でもなく無でもない状態(非有非無)を経て、最終的には無でもあり有でもある状態(亦無亦有)に至ります。この構成は、反省と自覚のプロセスにおいて、更に論理的な流れを持っています。

四句分別の応用と理解
この四句分別の応用は、基本的には「有でもなく無でもない」という状態が同時に成立することを示しています。これは、反省として成立し、仏教における深い教えや内観の表現となります。「有に非ず亦無にも非ず」という判断は、勝義の空を示し、仏法の深い理解を助けます。

四句分別の実践的重要性
四句分別のこの新しい理解は、仏法の深い教えとしての実践的な意味を持ちます。これは仏教の教えに深く根差したもので、信者にとっては信仰の深化に寄与する重要な理論です。反省と自覚のプロセスを通じて、仏法の教えがより明確になり、信者の理解が深まることを助けます。

(5)論理学論理との違い――その一

四句分別と論理学の基本的な違い
四句分別と一般の論理学との違いは主に二点にあります。まず、論理学は通常の世俗の学問の枠内に存在し、一般の哲学と同様に考えられます。一方で、仏法における四句分別は、世俗の範囲を超えて勝義へと導く道具として使われます。四句分別の初めの二つのレンマ(「無」と「有」)は世俗の範囲におけるものであり、その後の「非有非無」と「亦無亦有」は、より深い勝義の領域を探求します。

四句分別における「有」と「無」の理解
仏法における「有」と「無」は、単なる存在判断の「有」と「無」ではなく、反省に基づく深い肯定と否定の意味を持ちます。これは、叙述の肯定と否定とは異なる、より深いレベルの理解を示しています。この点では、四句分別は叙述と反省の両方に共通する特徴を持ちますが、さらに深い「重層有」と「重層無」への理解を求めます。

論理学との根本的な違い
一般の論理学では、「非有」は直接「無」に対応しますが、仏法の反省論法では、「非有」は「無」「空」「中」の三つの選択肢を持ちます。これは、文の脈絡によって選ばれる必要があるため、一般の論理学のような単純な二重否定の結果とは異なります。四句分別では、二重否定をしても元の「有」には戻らず、反省による「重層有」へと進みます。

反省と自覚の重要性
四句分別の反省論法では、直接把握のレンマ法を使って自覚を促します。このプロセスは、一般的な思考認識の論理学とは異なるもので、論理学の一般公式(同一律・矛盾律・排中律)は適用されません。四句分別における否定は、拒絶ではなく、より深い理解へと導くためのものです。

四句分別と論理学の形式化の違い
四句分別のもう一つの重要な違いは、非形式化されたアプローチにあります。一般の論理学は形式化されており、対象から論理を切り離します。しかし、四句分別では、基本的な形式以外の形式化はほとんど見られません。これは、論じる対象から論理を切り離さないことを意味します。

(6)論理学論理との違い――その二

論理学と四句分別の違い
論理学は「認識の妥当性」に焦点を当て、形式記号式を用いて理論を展開します。これに対し、四句分別は現実の認識事実と密接に結びついています。論理学が現実から切り離された抽象的な形式に依存しているのに対し、四句分別は具体的な事実や状況に根ざしています。

空の解釈
仏法において、空は「非有非無」と表現され、具体的な対象に基づいて判断されます。これは論理学のように対象から切り離されていないことを意味します。空の概念は、メタ言語化を通じて形式表現されますが、その本質は具体的な判断事態に根差しています。

インド論理学の特徴
インドの論理学、特に因明学は形式化が未発達だとされますが、これはインド古来の伝統において、事実と理論を分けない傾向が強いためです。仏法における四句分別も、現実と論法が一体となっている点がその特徴です。

四句分別の形式化
四句分別は、列挙・羅列を除いて、形式化されていないのが一層顕著です。この特徴は、論法が同時に事実の指摘である「直接把捉のレンマ」として機能することに由来します。

仏法における縁起と無自性の理解
仏法の基本的な反省認識の中で、縁起、無自性、空の概念は、論法と事実が一体となっていることを示します。縁起は仏法の出発点であり、すべての法が縁起しているという理解は、仏教徒にとっての常識です。

外道と仏法の世界観の違い
外道の世界観は「主語存在-個在-自性(本質・実体)-真実在」に基づきますが、仏法では「無常諸行-縁起-無自性-空」として認識されます。この違いは仏法における深い理解の基盤となり、真実の追求において重要です。

(7)『涅槃経』に就いての理解――その一

四句偈の多様な解釈と背景
四句偈が阿含部の経や法華部の経に同じ文で現れることは、様々な解釈が可能であることを意味します。同じ文であっても、異なる経によって意味する内容や指示するものが異なるため、偏見を持たずに解釈する必要があります。例えば、「是法」や「実相」といった用語は、阿含部では縁起仮法、般若部では空法、華厳部では中法、法華部では九界の意味を持つなど、経典によって異なる解釈がなされます。

漢文の読解の注意点
漢文を解読する際は、単語や熟語の文脈に基づいて適切に解釈する必要があります。中国語では、名詞や動詞、時制が同じ形で表現されるため、文脈に応じて意味を決定する必要があります。誤解を避けるためには、漢文の約束を理解し、文脈に基づいて適切に解釈することが重要です。

四句偈の正確な解釈
四句偈の下半偈「生滅滅己寂滅為楽」に関する解釈は、小乗義としての解釈に留まることなく、より深い理解が求められます。この偈は、生滅法に固執する心を滅し、寂滅への道を示すものであり、涅槃を実現する方法に関する教えとしての役割を担っています。

阿含経と法華経における四句偈の位置づけ
四句偈は、阿含経で説かれた後、法華経で再度取り上げられています。法華経では、四句偈が再説されることで、新たな解釈や深い教えが示されています。『涅槃経』での四句偈の取り上げ方は、涅槃を理解し実現する方法に関するものであり、仏法の深い理解を促します。

漢文解釈と仏法の深い理解
漢文の解釈は、仏法の深い理解に直結しています。文脈や時代の背景を理解することで、経典の真の意味を把握することができます。仏法では、理論と事実が分けられないため、文脈や背景の理解が重要です。

(8)『涅槃経』に就いての理解――その二

四句偈の深い意味とその実義
四句偈は、単なる断見や常見への反論としてではなく、より深い実義を示すものです。この偈は、外道が説く「生滅法」のみに固執する断見への対応として提起され、更に「無生滅見」の常見も破折し、真の中道を指向しています。

四句偈の核心:寂滅とその実践
四句偈の中で、「寂滅」の部分は特に重要です。この言葉は動詞として用いられ、生滅の見解や無生滅の見解を超えた中道の実践を意味します。これは、反省としての深い見解を形成し、真の涅槃への道を示す行為です。

見惑と思惑の区別
この偈では、単に執心や思惑の問題ではなく、見解(見惑)が核心に置かれています。つまり、偈はどのような見解を持つか、正見と邪見の選択を迫っているのです。

涅槃とは何か:実義の理解
涅槃の理解においては、実義の深い理解が必要です。涅槃は単なる消滅や静寂ではなく、中道の真理を体現する智法として理解されるべきです。

「寂滅」の正しい解釈
「寂滅」は他動詞として解釈されるべきで、これは二重の反省としての「生滅の見を寂し空じる」行為を意味します。この行為自体が中道の真理への道を示し、真の涅槃への進路を開くものです。

涅槃経における四句偈の位置づけ
涅槃経において、四句偈は仏法の深い教えを示すものとして位置づけられます。これは、外道の見解を超えた仏法の深い智慧を示し、実義に基づく真の涅槃を開示しています。

四句偈の実践とその果実
四句偈の実践は、生滅や無生滅の見解を超えた中道の行為を意味し、これを実践することにより、真の涅槃、すなわち中道の法楽へと至ることが可能になります。

以上のように、四句偈は仏教の深い教えと実践の核心を示す重要な教義であり、それを正しく理解し実践することが、真の涅槃への道を開く鍵となります。

(9)縦型縁起法の表現形式

仏法と論理学の統合
仏法では、論理と事実が分離されずに一体となっています。これは「縁起-無自性-空」という教義の核心においても明確に示されています。

知識の源泉:現量から始まる縁起
一切の知識は現量、つまり無常の認識から始まります。これは縁起法の表現であり、無常は理果、縁起は理因として捉えられます。縁起法と無常法は常住しているが、実体や本質とは無縁です。

無自性の理解と空の概念
物事には自己同一性はあるものの、自性や他性はないとされます。無自性は客観上の事実であり、全てが仮和合、仮有であると解釈されます。ここから空の概念に至りますが、これは内観の真理であり、反省による思量の知識です。

外道と仏法の認識の分離
外道と仏法は、俗諦の領域で認識が分かれています。無常は万人の共通認識であり、縁起から無自性に至る認識過程は、仏法の勝義、すなわち真実を表します。

論理と事実の一体性
仏法において、論理と事実は分けられません。特に思量の領域では、論理使用者がそのシステムの中に参加しているため、論理と生の体験は分離不可能です。これは仏法の深い教えが自証の自覚世界を重視するためです。

四句分別の重要性
四句分別は、仏法における重要な教義で、事実と論理の一体性を示す役割を果たします。この教義は、仏法の深い理解を通じて、現実世界の真実を探求し、自覚へと導きます。

以上のように、仏法では論理学と事実が統合されており、この統合を通じて縁起、無自性、空という深い教義が展開されます。この統合は、仏法の根本的な教えとして、現実世界の理解に重要な役割を果たします。

(10)包括的な四句分別と弁証法との対応

弁証法と四句分別の違いと共通点

共通点の検討
弁証法と四句分別にはいくつか共通点があります。両者とも、一人称命題界の自覚の領域でのみ通用し、否定を論法の核としています。また、客観的な科学の分野では適用されないという共通性もあります。

違いの明確化
しかし、最大の違いは弁証法が世俗に留まるのに対し、四句分別は世俗と勝義の両方を包含する点です。弁証法は、世俗から世俗への止揚に限定されますが、四句分別は世俗から勝義へ、さらに勝義から世俗への往復が可能です。

図式弁証法との比較
図式弁証法では、敵対関係が重要な要素ですが、四句分別では敵対関係ではなく、相互依存の関係性が強調されます。弁証法の矛盾概念は客観化されているのに対し、四句分別では矛盾概念を実体化せず、非有非無の観点から捉えます。

弁証法と矛盾の克服
弁証法は矛盾を解消するために使用されますが、矛盾そのものを解消することはできません。一方で、四句分別では反省により矛盾を解消することが可能です。

弁証法と四句分別の位置づけ
四句分別は、弁証法よりも包括的で、弁証法を内包するが、弁証法だけでは四句分別を完全に理解することはできません。四句分別では、実践的な立場から矛盾を解消し、より深い理解を可能にします。

結論:矛盾解消のアプローチ
弁証法と四句分別は、それぞれ異なるアプローチで矛盾を解消します。弁証法は矛盾を止揚することに焦点を当てるのに対し、四句分別では、より包括的な視点から矛盾を解消し、深い洞察を提供します。弁証法が四句分別の一種であるという見解は誤りであり、四句分別はより大きな枠組みを提供するものと理解されるべきです。

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