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【まとめ】現代諸学と仏法~(序)第一原理考争⑥/Ⅰ仏法と論理学/6帰納・演繹・弁証法【石田次男先生】

[出典:http://imachannobennkyou.web.fc2.com/19.htm]


帰納・演繹・弁証法


(1)多から一へ(帰)・一から多へ(命)

演繹とその性質
演繹とは一般的法則から個別的な事柄を導き出す操作のことです。例えば、ユークリッド幾何学の五つの公理は一般的法則として前提され、その公理からさまざまな定理が導き出されます。これは一から多へと進む考え方です。演繹法の特徴として、一般的前提の中にすでに演繹命題が含まれているため、導出関係は必ず正確です。

帰納の特徴
帰納とは、多数の個別的事柄の集合から一般的な法則を導き出す操作です。これは多から一へと進む考え方で、例として物理学や化学の法則などがあります。しかし、帰納で得られた知識や法則は必ずしも絶対的に正しいわけではなく、蓋然的な正しさしか保証されません。

演繹と帰納の関係
演繹は絶対的に正確である一方、内容が空虚とされます。対照的に、帰納は内容が豊富であるが、絶対的な正確さは欠けています。この二つの方法は相補的な関係にあり、その組み合わせが演繹的帰納法という科学の方法につながります。

仏法と演繹・帰納法
仏法は、単純に言って演繹法であるとは言えません。仏法は特定の方法や分別に基づくものではなく、分別や無分別の分野には様々な方法が含まれています。仏法の教えや経典は、特定の論法に基づいて展開されるわけではなく、演繹法や帰納法だけで説明されるものではありません。

演繹的帰納法の起源
演繹的帰納法の考え方は、十九世紀の後半にイギリスのミルから始まったとされています。ミルは「帰納論理学体系」を作成した人物で、その後、この考え方はさらに発展していったと言われています。

演繹的帰納法の意義
演繹は形式的な真理を提供し、帰納は現実の法則を示します。しかし、それぞれには欠点があるため、両方を組み合わせた演繹的帰納法の考え方が生まれました。これは「一から多へ」および「多から一へ」の思考を組み合わせたものと言えます。

真理の二つの種類
真理には二つのタイプが存在します。一つは常に現実から離れない世界、もう一つは現実の事象に依存しない計算の世界です。

数と演繹法
数は物の性質ではなく、概念の性質です。例えば「十」に関しての説明は、十一から一を引いたものや百を十で割ったものなど、無限に存在します。これは計算であり、直接的な体験を必要とせず、万人に共通です。

十進法の起源
十進法は、代々先祖からの経験を基にした約束事として生まれました。しかし、現代の我々が使用する際には、実際の経験を必要とせず、純粋に計算の世界として機能します。これはアプリオリの性質を持っています。

帰納法と真理
生々しい真理に関しては、帰納法で接近するしか方法がありません。この接近方法としては、合理的な手法を取る必要があり、そのために演繹法の使用が不可欠です。

演繹的帰納法の背景
実際に、帰納法と演繹法が相互補完する形で利用されてきた方法が、演繹的帰納法として知られています。これは科学の進歩にとって強力なツールとなっています。

ミルの提案
ミルは「帰納論理学体系」で演繹的帰納法を提案しました。特に、仮説が間接的にしか検証できない場合には「仮説演繹法」と呼ばれる方法が用いられます。

『哲学辞典』の記述
『哲学辞典』によれば、この方法は、仮説からの論理的結果を現実の事実と照らし合わせて法則を確立するものであり、基本的には帰納法が中心となり、演繹法がその助けとして使われると記されています。

物理学への応用
この方法は特に、物理学のミクロの世界の研究に非常に有効であるとされています。

仏法との関連
仏法においても、類推法としての古因明や演繹法としての新因明が用いられています。

帰納推理の種類
帰納推理には特殊的帰納法と一般的帰納法が存在します。特殊的帰納法は伝統的に類推法と呼ばれ、一般的帰納法だけが真の帰納法とされてきました。普遍概念は、個々の要素を帰納して得られるものと考えられています。

(2)仏法の演繹的側面・帰納的側面・類推的側面、一念寂照

現実世界と分別世界の認識
現実の世俗世界は、様々な要素が混沌としています。しかし、人間関係の面では、それは分別の世界や思考の世界として表現できます。この観点から、仏法の論理的側面を探求します。

仏法と演繹
信仰者としての我々の行動は、妙法という思想に基づいている。私たちはこの思想を力にして、多岐にわたる活動を行います。これは、一つの原則から多様性に進む、演繹的な方向性です。

信心と演繹
信心の基本は、全てを妙法に基づいて行動することです。これも、一つの原則から実行の多様性へ進む演繹的な考え方です。

仏法との正確な理解
化他の指導の際、仏法の論理を演繹的に話すことは許されますが、実際のアプローチは帰納的です。帰納的な思考は、多様な現象や経験から一つの原則に辿り着く方法です。仏法の理論的側面について、演繹法だけを強調するのは間違いです。

類推の重要性と限界
仏法の論理的側面には、類推も含まれています。類推は、概念の共通点に基づいて推論を進める方法です。しかし、類推だけを強調すると、それは論理としての証明力が低くなり、非常に曖昧なものとなります。

仏法の真髄
仏法の論理的側面は、最終的には反省を基盤とした四句分別の世界です。そして、それを超えた無分別の行為の世界です。仏法が演繹法だと一般的に言われることがありますが、それは特定の局面に関するもので、無制限に拡げて解釈するのは間違いです。

誤解の危険性
仏法を演繹法だと固定的に解釈することは、大きな誤解となり、進歩の妨げとなります。過度な解釈や偏見は、進歩を止め、堕落の原因となる可能性があります。

論理学と日本人
こういう転落を防ぐためには、演繹法や帰納法の基本的な部分を明確にする必要があります。実際、不注意や誤解によって多くの問題や混乱が起こっています。日本人全体が論理学の基礎に弱い点があり、それによって問題が生じているのです。論理学や数学は形式科学ですが、その基礎には哲学的な側面もあります。

寂照とは
「一念寂照」という言葉がありますが、寂照とは論理を超えた領域です。寂照は、単なる概念や認識を超えた、実際に感じる体験の世界を指します。この世界は、言語や認識では表現しきれない、深淵な部分を持っています。

実感の説明の難しさ
人々が「美味しい」と感じたとしても、その具体的な体験や感情は言語で完全に伝えるのは難しい。例えば、同じ食べ物を食べた人たちが「美味しかった」と感じても、それぞれの感じ方は微妙に異なるでしょう。

生の哲学の障壁
実感や体験の中には、一般化や言語化が難しい部分があります。これは「生の哲学」での大きな問題点となっています。しかし、この不可解な世界、すなわち寂照は、深い自己反省を通じてしか理解できないものです。

弁証法と自覚
弁証法は、人が自分自身や世界を理解するための方法論として存在します。「一念寂照」はこの弁証法的な考え方を取り入れています。最終的には、言語や論理を超えた、真実の体験に到達することを目指しています。

深層心理への接近
日常の経験は比較的シンプルですが、より深く探ると、理解しきれない深層心理の領域が見えてきます。この領域へアクセスするための方法として、弁証法や四句分別が存在します。これらは、人々が真実の体験に到達するためのプロセスや手段として機能しています。

(3)反省的否定操作のオルガノン

弁証法とその性質
弁証法は非合理領域の論法であり、意志的な操作です。形式的には論理として扱われることもあるものの、本質的には論法で、意志的な否定操作・反省操作の形をとります。合理的な類推、帰納、演繹とは異なる性質を持っています。

仏法と四句分別
西洋流の考えに基づいて理解するだけでは不十分です。実際、仏法には弁証法とは異なる「四句分別」という論法が存在しており、これは釈尊時代から重要な柱として扱われてきました。

反省の本質
弁証法を理解するためには、「反省」とは何かを正確に理解することが不可欠です。行為の反省と思考や判断の反省は異なるものです。弁証法の反省は、思考や判断の反省を指します。

弁証の反省の過程
弁証の反省とは、帰納や類推で得た法則を更に進め、否定命題を立てることで、新たな局面「正対反」を作ることです。こうした過程は非合理領域を展開することにつながり、その結果として命題の構造が縦型になります。

新領域と合理的推論
この新しい領域は、合理的に推論され、結果として「合」という局面に達します。この流れの中で、命題の型が縦型の構造になり、これが弁証法と呼ばれる規則的な方法になります。純粋に知識の法則としてのものです。

ソクラテスとヘーゲル・マルクスの弁証法
ソクラテスの弁証法は本来の弁証法であり、正統的であった。しかし、ヘーゲルやマルクスの弁証法は異なる構造を持ち、邪道とされる図式的なものとなっている。

反省の歴史的背景
江戸時代にも「反省」という概念が存在した可能性があるが、それはおそらく倫理的なものであったと考えられる。真の思考や判断の反省は、明治以降、西洋の学術の影響を受けて語られるようになったと思われます。

反省と思考の違い
単に「反省」を考えるだけでは理解は難しい。反省と思考を比較することで、真の意味が明らかになる。思考は、多様性を統一するプロセスであり、矛盾が存在すれば思考は誤りとなる。

弁証法の誤りと真実
弁証法では矛盾が存在すると認識されているが、これは真実である。しかし、正・反の比較や総合の方法に誤りがある。図式弁証法は詭弁の域を超えない。

思考と反省の矛盾
一般的に、思考には矛盾が存在してはならない。しかし、反省の場合、矛盾が中心的な役割を果たす。反省の過程で、矛盾を介して飛躍が起こる。

ソクラテスの弁証法の特性
ソクラテスは、対話を通じて相手に自らの無知を自覚させる方法を取っていたと言われています。

動機としての無知の自覚
無知を自覚すれば反省して知を求め、愛知の精神が向上するからだ・というのがその動機であったそうです。つまり相手は「身分は有知だ」と思っていたのに、「無知だった」と思い知らされて、その矛盾に気が付いて目覚めるという事だそうです。これもやはり矛盾を媒介にした弁証法になっています。

相対性と自覚の誕生
こういう自覚はどうして出来たか。それは今のソクラテスの例で判る事ですが、較べるものが目の前に現われたからでしょう。相対が反省自覚への契機になる訳です。

美人の問題と矛盾
自分は美人だと思っていても、スタジオへ行って女優群に取り囲まれてみると、周りはそれ以上の美人ばかり。自分の方は色褪せてしまってちっとも美人ではなくなってしまう。何事につけても矛盾は悩みの種なのです。

善悪の反省
美人・不美人の問題は気の持ち様でくよくよする事も無い訳ですが、善悪となるとそうは参りません。悪は気の持ち様で善にはなりません。必ず反省を必要とします。

人の矛盾と品位の追求
下品な人は上品な人に囲まれると格差の矛盾に悩んで品位を求め・劣勢を回復したいと感じます。

反省の二面性
反省と言うと、普通は良い方へだけ受取られますが、今の場合は実は悪い方へ働かせていますね。こういう矛盾や反省や弁証法などは、全て自分の心内の問題ですね。人の智法ですね。

犬猫と人間の違い
山川草木や犬猫が反省したなどという事は無い訳です。これらは人間独特の能力です。自分は極めて有限で大した事は無いのが現状だという自覚が無ければ、反省も努力も向上も救いも悟りもへったくれも無い訳です。

人間の良心
人間には必ず良心が有って、良心の咎めに刺激されざるを得ませんから、向上しようと努力もし・救われたいと思い・悟りたいと希求する訳です。

自己認識の真実
「過去の因を知らんと欲せば現在の果を見よ、未来の果を知らんと欲せば現在の因を見よ」と言われております。これが本当の自己反省です。

真の弁証法とは
その「見よ」とは、見てどうするか。見て推理しただけでは「ああ判った」でお仕舞いです。真の弁証法はここへ用いる反省弁証法・そして自覚弁証法でなければなりません。

末木先生の見解
末木先生の『論理学概論』には、弁証法は心の問題を取扱う論法である事が明らかです。

深層心理と己の認識
本当の意味で己を知るというのは、深層心理内に無意識層を抱えているからです。

心の弁証法的操作
自分というものは、絶えず主観主体であると共に客体であるという心理的な操作の弁証法がそこに有ります。そこで仏法には、西洋には無い、二値論理に非ざる・様相論理にも非ざる・三諦論、空という問題が出て来ます。

俗諦と究極の真
俗諦は究極の真でないと否定され、その代わりに何が究極の真かが肯定される。この考えから、認識や実用といった功利的な視点を超えて、真諦の世界に足を踏み入れる。

寂照の無分別世界
この寂照の世界は、言葉で説明できない深みがある。だが、それを伝えないままでは他人に理解されない。そのため、この世界を一旦離れ、再び言語で説明する場に戻る。

空の二重否定
「空」は「有でもない、有でもない」という二重の否定から成り立つ。これは「ゼロ」とは違う。非有も「無」や「虚」のようなものとは言えない。

真実と実有
人にとっての「有」は事実であっても真実ではない。時間の流れとともに変化していく。そのため、固定的な言葉では真実を捉えることはできない。

言葉の限界と再びの言説へ
真実を言葉で表現することの難しさを認識しながら、それを説明するために再び言葉の世界に戻る。

弁証法の役割
弁証法は、分別の世界を超えて無分別の世界へと導く道具。自我の自覚弁証法は迷いの九界に留まるが、それでも一部の無分別の領域には達する。

分別と無分別の行き来の難しさ
これら二つの世界の間の移動は難しく、例えば棒高跳びのように特定の道具が必要となる。弁証法はその道具としての役割を果たす。

無分別な己心の世界
この世界には様々な名前が付けられている。寂静、涅槃、悟り、解脱、法身、般若など、多くの言葉で表現される。特に「寂照」には深い意味がある。それは変わらない真実に基づく、随縁による現れの世界を指す。

寂照の深さ
「一念寂照」という言葉には特別な味わいがある。寂照はその「一念」の中に存在しており、その「一念」が寂照そのものである。この寂照が全ての事物を静め、世俗を照らし出す。

(4)対話における弁証法

弁証法の起源と概念
弁証法は、古代ギリシャで「ディアレクティケー」と呼ばれ、対話から生まれた思考法です。政治や倫理など様々な分野で真理を探求するこの方法では、議論を立てる人と、論理的に反論する人が存在し、互いに議論を重ねながら真理を探ります。

産婆術としての弁証法
この対話に基づく弁証法は「真理を生み出す産婆」のような役割を果たし、「産婆術」とも称されました。ギリシャの哲学者たちは、他人との議論の前に、自分の心の中で弁証法による自問自答を通じて思想を深めていました。

弁証法の意義と展開
心の中で行われる思考プロセスは、自己反省と学問の進歩を促し、ギリシャにおける対話的な弁証法の発展に寄与しました。個々人の内面での対話は、弁証法の根源的な起源であると言えます。この対話では、単にイエスかノーかの答えを求めるのではなく、相手の心の中を深く探ることが重要です。

個人の内面での弁証法
個人の心の中では、既存の思想や概念に対して、否定や肯定を繰り返しながら、新たな理解を築き上げます。対話が弁証法の形になること、そして人間が心の中でこのように考えることは、時間的に同時に起こる現象と考えられます。

弁証法対話の有効性
対話相手が思慮深い場合、弁証法に基づく対話は有効であり、高度な議論が可能です。この種の対話は、真理や正義、博愛など高貴な原理原則を追求するもので、智者や賢者の間で特に有効です。

弁証法対話の最終目的
弁証法に基づく対話の最終目的は、相手との関係性や自己の心を深く反省し、より高次元の観点から物事を考えることです。これにより、自分の中の普遍的価値や原理原則を明確にし、相手をより理解し、包容する態度が養われます。

類推法との比較
類推法は、弁証法に比べると初歩的なものであり、結局は自分の意見の押し付けになりがちです。対話において異なる論理法を適切に使用することは、対象や対話相手によって変わります。合理的な論法だけでなく、心情的な論法も存在し、対話の文脈に応じて様々なアプローチが取られます。

弁証法対話の究極と演繹法・帰納法との関係
弁証法に基づく対話は、類推、帰納、演繹など多様な方法を取り入れるべきです。真理探求の究極形態としての弁証法は、単なる理論ではなく、演繹法や帰納法に比べてより高度な思考を要求します。このような対話は、自己の内面世界との調和を通じて、より深い理解を達成する道となります。

(5)己心の自覚にのみ成立する矛盾

弁証法の変遷と現代への影響
かつてギリシャで活発だった対話法としての弁証法は、ヘーゲルやマルクス以降、「正・反・合」の形式に図式化され、認識、存在、自然に関する弁証法へと発展しました。これらはすべて矛盾の弁証法とされ、実際の自然や存在、認識の中に矛盾が本当に存在するかという疑問が提起されます。しかし、厳密に言えば、認識、存在、自然のどの領域にも同時に存在しえない矛盾は実際には存在しません。

自己認識における矛盾の存在
一方で、自己認識の視点から見ると、矛盾が浮き彫りになります。例えば、結婚相手を選ぶ際には、一人を選ぶことが他のすべての候補者を否定することを意味し、これは同時に存在しえない矛盾です。宗教の文脈では、この矛盾はさらに深刻です。一つの宗教に命を捧げることは、他の宗教を否定することを意味し、同時に複数の宗教に帰依することはできません。

信仰と弁証法の関係
法律上、信教の自由は認められていますが、一人の人間が同時に複数の信仰を持つことは本質的に矛盾しています。日本のように、異なる宗教行事に参加する慣習は、信仰の一貫性から見ると矛盾を内包しています。したがって、真の弁証法は、自己の内面での反省と自覚においてのみ成立します。

宗教と矛盾の排除
宗教においては、真理を求める過程で高い理念を取り、低いものを捨てることにより、矛盾を排除します。このプロセスは、反省と自覚によって行われます。したがって、真実の弁証法は反省の世界にのみ存在するのです。

矛盾と弁証法の本質
矛盾は弁証法の基盤であり、否定を通じて発展します。否定は純粋に心の中、判断の領域にのみ存在し、真実の弁証法はこの反省の世界にのみ成立します。仏法の観点から見ると、唯識論では自我の自覚は誤った自覚とされ、この自覚と弁証法との関係が重要です。

宗教と心の機能
宗教における弁証法の役割は、自己の内面世界への入り口としての選択に重点を置いています。意識の各段階において、反省と否定の弁証法が機能し、自我の自覚を深めるプロセスを促進します。

西洋と仏教における心の解釈
西洋では、心の作用を感性、知性、悟性、理性などに分割し、これらが心を構成すると理解されがちですが、仏法では第八識や第九識などを実体としてではなく、用途として理解します。これらの識は、分別から生じる仮有として扱われ、反省を通じて真理に到達する可能性があります。

(6)妄語か実語か――論理の課題

宗教実践と分別の均衡
宗教実践における分別と論理の役割について、一部の宗派や禅宗のように、分別や論理を軽視する傾向があることが指摘されています。これは実践に重きを置くあまりに生じる心理的傾向です。しかし、このような極端な考え方は、中道からの逸脱となり、仏法の教えとしては不適切です。過去には、学生として教学に打ち込むと、実践に偏重する見方から批判された経験もあります。

反対解釈の問題
宗教界では、教門と観門、つまり教えと瞑想の間のバランスを保つことが重要です。どちらか一方に偏ると、他の側が軽視され、実践と教えの一致が欠けることになります。この偏りは修行の成就に影響を与えます。また、宗教において信仰だけを重視し、間違いや脱線を許容する姿勢は誤りであり、反対解釈の一例です。

誤りの修正と反省
誤りや脱線がある場合、反省と悔い改めが必要です。特に、他人に影響を与える立場にある場合、その責任は重大です。間違いをそのままにしておくことは許されません。また、「普賢経」で述べられるような、御本尊に向かっての反省と悔い改めが、真の反省の方法とされます。

分別と虚偽の問題
分別が虚妄であるという観点から、一面だけを見て全体を見落とすことは、真実を隠し、虚偽を生む原因となります。仏法では、事実に基づく真実を徹底的に追求し、分別に基づく真実を伝えることが重要です。

論理操作の誤りとその影響
現代社会では、論理的思考が重要視されています。事実把握の誤りは科学の進歩により減少していますが、論理操作から生じる誤りや、言語使用上の誤解は依然として問題です。適切な論理学の理解と、妄語を見破る能力の育成が求められています。

妄語を見破る力
人が妄語を見破る能力には個人の背景が影響します。逆境で育った人は他人を疑う傾向があり、裕福な環境で育った人は人を信じやすい傾向があります。しかし、妄語を見破る力はこれらの洞察力とは異なり、論理的な思考と教育によって育成されるべき能力です。

(7)反対解釈に堕るな――虚妄仮は反省材料

論理的思考の必要性
多くの人々は、見事な論文や説得力のある学説に簡単に影響され、真実を見極める力が不足している傾向があります。これは思考力の不足や論理的な慣れの欠如によるものです。したがって、論理的な思考を習慣化することの重要性が強調されます。

記号論への関心
哲学者カルナップが指摘したように、記号の分析が哲学の重要な課題です。論理実証主義の影響下、記号論は哲学の主要な流れとなっています。これを理解することは、論理的思考を深める上で不可欠です。

真実と虚偽の区別
実際の事実と虚偽との違いを理解し、それに基づいて判断する態度が必要です。論理を適切に使い、その学習を軽視しないことが重要です。

虚偽論の理解
アリストテレス以来の論理学において、「虚偽論」という分野があります。これは主に「研究方法に関する虚偽」と「統整法に関する虚偽」の二つに分けられます。

虚偽の種類
虚偽には、観察に関する虚偽と、思考や伝達の際の論理操作に関する虚偽の二種類があります。この理解は、論理的な誤りを避ける上で役立ちます。

仏法における虚妄の理解
仏法では、事態の把握と論理操作の真実を組み合わせて虚妄とみなします。虚妄は、世俗的な真実と仏教的な真実との間で異なる理解を持っています。

誤謬と詭弁の区別
一般的には、無意識の誤りを誤謬とし、意図的な虚偽を詭弁として区別しています。しかし、学問的にはこれらを一括して扱います。

詭弁家の存在
歴史を通じて、インドやギリシャでは多くの詭弁家が登場しています。詭弁と正論は相互に依存し、同時に発生します。

逆説の理解
逆説は、常識や論理では説明できない真理、無矛盾的同一性では解明できない事態、言語遊びなど、三つの異なる形態があります。

詭弁の種類
詭弁には、論理規則に反しつつ論理的正しさを装うものと、前提命題の曖昧さを利用するものの二種類があります。

詭弁と正論の関係
詭弁家の増加は、新たな正論の出現を刺激します。この相互作用は学問の発展に寄与します。

政治的詭弁
政治においては、問題に対する具体的な答えを避け、抽象的な言葉を使うことが多いです。これは、視聴者に混乱をもたらし、政治不信の原因となることがあります。

論理と学問の重要性
論理的な思考は学問において不可欠です。妄語と実語、真実と偽りを正しく理解することが重要です。

分別と無分別の違い
分別(論理)には限界がありますが、無分別(非合理性)もまた重要な考え方です。仏教では、これらの概念を適切に理解することが求められます。

無分別の価値
無分別こそが重要であり、正しい理解を得るためには、分別に固執せず、中道の智慧に基づいて考えることが大切です。

あとがき

凡そ虚妄なる分別の先は無分別法の一境しか無い。その一境に智念を据えて「境智寂然たり」と聖者達は語り継いで来た。長い学校教育のお蔭で現代諸学の”漬物”みたいに仕上がった私には、迚も聖者達の悟りは無理である。だが・仏法と諸学との対比ならば出来ない事はない・やってみよう・と或る動機から思い立った。

当時・健康の都合上・全部を自分が書くのは迚も無理だったので口述を筆記して貰う事にした。私が口述すると相手が質問してくるので、口述が対話へ発展してしまった。こうして昭和五十年四月からこの対話を開始した。一通り対話を終えたのが五十三年八月であるから、延々三年半に亘ってしまった。その後に補正の為に折々追加の対話を試みて終結した。相手の本橋氏には大変な御苦労を掛けたと思う。

中味は対話であるが、仏教哲学専攻の友人・本橋雅史氏が問い掛け側に回って自分が答える側という事にした。話はあちらへ飛びこちらへ飛んで系列も何も在ったものではなかったが録音テープから原稿化して同類の話を集め、手直しの筆を入れ、一通りの順序に仕立てる作業は全て氏に負うた。

いざ対話をしてみて気付いた事が二つ在った。一つは相手の発言に触発されて守備範囲がどんどん拡がる事である。実際拡がり過ぎた部分も在ると思う。あと一つは・対話ではどうしても論証が厳密にやれない・という事である。この点は後で書き足す以外になかった。各書の引用文も勿論後日の筆記によって正確を期したものである。若しも本書の内容に不備や誤謬を発見した方が居られたら御一報下されば幸いと思う。喜んで訂正させて頂きたい。
実のところ、最初は手軽な読物にしようと思って出発したが、対話が進むに連れてとんでもない事になってしまった。それで気が変って、いっその事それなりに仕上げようという積りになった。これが本書である。本橋氏は「この書をドイツ語に翻訳してみたいものだ」と言う。「分析の本家へ提示してみようではないか」と問い掛けているのである。大いに結構でしょうと答えて置いた。野人の僭越というものであろうか。終りに、本書の大綱は内外相対の枠内での議論である事を再度申し述べて置く。
石田
昭和五十三年八月

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