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シドニアの騎士 - 結局、ガウナとは何だったのか?

【注意】このメモは、マンガ版+アニメ版+劇場版完結編「シドニアの騎士」シリーズのネタバレを含む、個人的な考察のメモです。とんでもなく面白い作品ですので、「あいつむぐほし」までを観ていない方は、こんなメモを読まずにぜひ劇場に足を運んでください…! 劇場版を最初に観たあとでアニメ版→マンガ原作などと進んでも大丈夫ですよ!

結局、ガウナとは何だったのか? 原作のマンガ版ではあまり語られておらずモヤモヤしていましたが、この劇場版完結編にて、「ガウナを理解した」という落合から、むっちゃサラッとたった4文字の、非常にシンプルかつ難解な答えが明確に示されました。

確かに。確かに…! その答えならば、納得がいくような気がします。

要するにGoogleのようなものかな!

Googleは日々使われている検索エンジンだけど、人は検索エンジンさんと対話したり関係を築くことはできない(そもそも人格とか無いし…)。世界中のウェブサイトをクロールして(巡って)、インデックス(索引。検索に必要な情報)を貯めこむことだけが目的。人類のように「生きること」や「種の保存」といった存在意義をまっとうするとかも考える必要がない。

ガウナがGoogleと異なるのは、その情報収集の手段が少し…いやかなり…人類から見た場合に乱暴だということか。人、食べちゃうし。そりゃ人間は情報の塊だから、とても取り込み甲斐のある対象だろう。情報そのものを収集するため、それはもうガッツリと「アクセス」してくる。

シドニアの騎士のストーリーでは、あたかも「どちらかがこの宇宙に生き残る」かのような対立構造のように(ミスリードを含めて)描かれていたけれど、実は、そもそもお互いに向いている方向、軸が全く異なっていた。人類から見たら種の存続を脅かす敵だったけど、ガウナ側は、敵とか味方とかいう概念が無く、そもそも衝突しているという認識すらも無いまま大事故を起こし続けていたといったところか?

最後の大シュガフ船がシドニアに向かってきたのも、「おっと!あそこにまだクロールしてないデカいウェブサイトがあるな~!」くらいのお気持ち(?)だったのではなかろうか。それが、人類側の存亡を賭けた最終戦争となるなど、当然考えもせず…。「なんか上手くクロールできないよ~」ってノリで数万体のガウナを放ってみたりね…。実際、検索エンジンのクローラが無邪気にアクセスしてきたのが原因で、壊れてしまったウェブサイトを知っている。なるほど、なるほど。

弐瓶先生の作品は、BLAME!しかりアバラしかり、このような根本的に異質のモノ同士の訳の分からない衝突(+その中で生きる人間たち)が描かれることが多い。シドニアの騎士は、ハードSFの中に魅力的な登場人物たちが織り成すドラマ、また、異質の者たちがその壁を超えて手を取り合うような心に沁みる物語が展開される一方で、どうしても相互理解できない存在というのもあった、というお話だったのかな、と自分なりに理解した。

そういえば、キノコ🍄が何度も出てくるけれど、同じ地球上に居るのに相互理解や意思疎通ができない相手の象徴かな。いやぁ、キノコ、食べちゃうなぁ…。ごめん。人類からはガウナがキノコみたいに見えているけれど、ガウナから見たら人類の方こそキノコのように見えている、かもしれない。

(余談) ガウナがヘイグス粒子に反応するのも、「エネルギーがあるならば、そこに何らか情報(≒情報を内包する物質)が存在する可能性が高い」という程度の、広大な宇宙の効率的な探索ロジックの一種にすぎないものだと思う。

(余談2)カビが発見された「ヘイグス粒子を遮断する構造体」は、やはりガウナに発見されないよう、かつての別の知的生命体が作ったものだろう。「検/索/避/け」みたいなものか。ただ、ヘイグス粒子だけが探索ロジックではなさそうで、結局は見つかってしまっていたが…。みんなも検索避けになってない検索避けには気を付けよう。

粗雑な分解と再構成

例えば、ここに時計があって、これの仕組みはどうなってるんだろう?と思う。それを知るには分解するしかない。なんと残酷な…! いやいや、時計は生きてないから問題ない? そうなのだろうか…。一生懸命チクタクと時を刻んでいる、これは、時計にとって、その存在意義をまっとうすべく活動している、すなわち生きているのでは…?

まぁ、我々は時計さんとは存在する軸が異なるので、そんなことは分からないし分かる必要もない。時計さんにとっては脅威で災厄かもしれないけれど、分解してしまおう。よし。バラバラになった。うん、直せないねこれアハハ…。

って、この時計が無くなると誰かが困っちゃうかもしれない…! イカンイカン。立つ鳥跡を濁さず。というわけで、ちょっと間違ってるかもしれないけど、時計っぽいモノを見よう見まねで作って置いておこう…。

多分こんな程度で紅天蛾(べにすずめ)とかエナ星白が造られた。ちょっとどころか(人類から見れば)だいぶ間違っててとんでもないことになったけど、それはガウナからしてみれば、分からないし分かる必要もないだろう。

別の可能性としては、「コピーしたものなら、親和性が高くてもっと奥の方まで入り込んで情報収集できるのでは」とかのロジックかもしれない。時計を分解してみたら、手持ちのドライバーではデカすぎてぶっ壊してしまった。反省を活かして、次は時計に合わせた小さなドライバー(山野コピー)を作ってみたぞ、というくらいの。

そんな謎の目的で存在しているガウナは、一体誰が何のために創ったのか? という疑問が一瞬頭に浮かんだけれど、そういう自分自身、「種を存続させる」という目的で存在している人類は一体誰が何のために創ったのか? という疑問と全く同じくらい、意味のない問いだと気づいた。

惑星セブン:原作のラストの意味

そもそもシドニアが旅立った理由は地球がガウナに襲われたからで、最終的に1000年前、地球はガウナによって真っ二つにされている。あー、ガウナさん、「この丸いの、中身どうなってんのかな~」くらいのノリでやっちゃったか。。。

。。。と、ここまでの考え方の延長で、原作マンガ版のラストもほとんど矛盾なく理解できる気がする。

ガウナは「十分情報集まったし、あの時ぶっ壊しちゃったやつ(地球)、ここに作って置いとこ!」ってノリで惑星セブンを地球そっくりに作り替えたのかな、と。

ガウナの存在意義は、情報の収集と蓄積。あと必要に応じて再構成。

まぁ、あるいは「こうしておけば、次に来た時にまた情報がいっぱい貯まってるかも~」という理由でテラフォーミングしたのかもしれない(だとしたらヤバいぞ、入植者たち)。

…さて、谷風長閑は、その時に惑星セブンを防衛する英雄となるのか、はたまた別のガウナと遭遇したイザナたちを助けに行くのか? もしかしたら、落合のように、あるいは落合を超える、双方を理解可能かつ対話可能な「調停者」となるのかもしれない。。。ですね!

壮大な世界観と、その中で紡がれるとても小さな存在(人類+α)の愛と絆の物語。勝手な解釈も含みますが、自分の中ではとてもスッキリして、綺麗な幕引きとなったように思います。

最後に

劇場版完結編「あいつむぐほし」、想像をはるか超えて最高の更に上の出来でした。泣きました。こんなの泣かないわけがない。シドニアの騎士が本当に終わりを迎えて、嬉しいのと同時に寂しい気もしたのですが、これは未来に向かっていくハッピーエンド。ふと「今頃、セブンのみんなやシドニアで旅立ったみんなはどうしているだろう…」と思いを馳せることができるような、いつまでも心に残る素敵な作品となりました。

吉平"Tady"直弘監督、弐瓶先生、キャスト・スタッフの皆様、素晴らしい映画をありがとうございました…!

2021年6月8日

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