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視覚のはなし(「肉眼」編)

こんにちは。

二日です。

今回は、人間の視覚の、特に「肉眼から取り込んだ映像」自体に着目して、話していきたいと思います。

と言っても、今回は、私が勝手に「こういうことってことは、そういうことも言えるのでは」と思っているだけの、すごく内容の薄い話になりますが、「こういう見方もあるよな」と思ってもらえるとありがたいです。

今回の話題としては2つあって、1つ目は、「結局写真で見るより、肉眼で見た景色の方が綺麗だよね」という話です。

趣味とは言え、写真を撮っている以上は、できるだけ綺麗な景色を写真に収めたいなと思うわけですが、私の未熟さもあり、目で見て綺麗だと感じた景色が、写真にすると微妙だなぁと思うことが多々あります。ただ、正直な話をすると、この感覚は自分の写真を見たときだけでなく、他の人の写真を見たときにも感じてしまいます。「写真」同士で比較するととても綺麗な写真、言うなれば相対評価としてはとても綺麗な写真でも、絶対評価として見ると「何かが違う」と感じてしまいます。

「写真」と「実際の景色」とでは、様々な点で異なることごありますが、その根本は「情報量」の差にあると言えます。「情報量」については前回書かせて頂きましたが、「写真」というのは結局「実際の景色」を、最小単位である「画素」を何千万個も集めることで成り立つ「点描画」に過ぎません。その上現代のプリンターも、結局は「点描画の生成」をしていると言えます。この無数の「点」は独立していて、隣同士の点との間は明確な「隙間」が存在しており、点同士が滑らかに「繋がっている」わけではありません。つまり「写真」も、いくら「実際の景色」と似た像を紙に起こすことができるといっても、結局は「実際の景色」からいくらかの情報をカットしているものと言えるのです。

ここで言うところの、「隙間がある」と「繋がっている」というのは「離散的と連続的」とか「デジタルとアナログ」というイメージになるのですが、例えば、「『1』の次の数字は?」という質問に対して、離散的・デジタルな回答をするなら「2」となります。連続的・アナログな回答をするなら「1.00000000000000000001」という、「1」より大きくて限りなく「1」に近い数字が答えとなりますが、厳密に言うならこの「1.00000000000000000001」という数よりもさらに「1」に近い「1.0000000000000000000000000000000001」という数が適当なのですが、これが繰り返されると、「『1』の次の数」は文字では表現できないということがわかります。。つまり、数は間違いなく連続していて、「1」という数の「次の数」は存在していますが、「文字」という媒体で表現しようとすると、その存在を表現することはできません。

「写真」においても同じことが言えて、「デジタル写真」だと、「点1」の隣に「点2」があり、その間は限りなく小さな隙間なので、パッと見は「繋がっているように」見えますが、「実際の景色」では、「点1」と「点2」の間に、さらに無数の点が存在しているので、本当の意味で「繋がっている」のです。この、現実では存在している「点1と点2の間に存在している無数の点の集まり」こそが、「写真」が「省略」している「情報」であり、それによって「実際の景色」とは「何かが違う」と感じるのだと思います。

ちょっと回りくどくなってしまって、長々とお付き合い頂いたのに申し訳ないですが、この「点と点との間の情報」以外に「明らかに『省略』されている情報があるだろ」と思っていた方もいるかもしれませんが、その通りです。「写真」は、人間の視野(両目での視野角にして水平で最大で200度ほど、上下60〜70度ずつ)から、あの長方形の紙に収まる範囲までの景色しか写せず、さらに言えば、その景色を見ている時の「蝉の鳴き声」、「雨の匂い」、「風が肌に触れた感触」などの情報も「省略」しています。さらにさらに言うと、人間の「目」はとても優秀で、脳の働きと合わせて、「見たいものをよりよく見ようとする」ので、より色んな「情報」を得ようとします。結果として、「実際の景色」を知覚したときの「情報量」と、「写真」に残せる「情報量」とでは、比べようがないほどの差が存在し、その「情報」から総合的にジャッジすると、「写真」はやはり、「実際の景色」とは違うものであり、「実際の景色」方が綺麗なのだという、私の無理矢理な主張につながります。

これが1つ目の「肉眼」に関する話題。ちょっと無駄に長い文章を書いてしまったので、2つ目はサラッと終わらせたいと思います。「こう考えると面白くないですか」っていう話題。

2つ目は「肉眼で今見ていると『感じている』景色は、『本当』の景色からほんの少しだけ『後』の景色なのでは」という話。

そもそも私たちが「見ている」と「勝手に」認識している映像は、肉眼で得た情報を元に「脳」が作り出した映像なのです。人間の目は、文字通り「目の前」の景色を捉えてから、眼球を通り、網膜を通り、視神経を経由して脳まで情報を運んでくれています。そのため、「目で見て」から「脳が映像を作る」までに少しだけ、ほんとにほんの少しだけタイムラグが発生します。ということは、私たちが「見ている世界」は「実際の世界」より少しだけ「後の世界」と言えるのではないかと、私は思うのです。

言い換えれば、私たち人間の「目」自体は、私たちが「見ている世界」より「未来の世界」を捉えているということです。そう考えて見るとなんか面白くないですか、という話でした。

あと、この「目自体は未来を見ている」という考え方は、個人的には、「デジャブ」という現象の理由になっているような気がします。「デジャブ」とは、既視感、つまり本当は初めて来る場所、初めて観る景色なのに、前にも同じもの見た気がするという現象ですが、もし「目」と「脳」との間で「映像」の入出力のタイムラグがあるとしたら、何かの拍子に普段よりタイムラグが短くなり、ほぼ無意識のうちに「1度目」の映像を見て、意識して見た映像が「2度目」の映像となったときに「デジャブ」という現象になる、とも考えられる気がしています。まぁ何の根拠もない妄想ですが。

最後までお付き合い頂きありがとうございます。

次もまた「目」のことについて絡めながら、「映画」の話をしたいと思っています。

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