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バボのキママな日 #100 『100年後にも変わらぬ自分で。』

ついに此の『バボのキママな日』も第100回を迎えた。ほぼまいにち更新だったので相方よりも少し時間がかかってしまったけれど無事に此処にたどり着けて嬉しく思う。でも別に100回で終わる訳ではない。区切りをつけて終わらせるのは『フツウキライ』でもうやったから。おんなじことはしたくない。僕は変わらないように変わって生きたい。ずっとそう思って生きてきている。

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僕は自分の中の変わらないモノを大切にしている。それが何かと一言で云うとすれば自分の""だ。僕は自分の魂をずっと磨いて輝かせて生きてそして死にたい。産まれた瞬間に決まっていることは死ぬことだけで、人生とはその生と死の間をどのような道を選んで行くかと云うモノだと僕は信じている。始まりは終わりで終わりは始まりで、此の世にある全ての物事、起こる事象、出逢う人々、味わう経験には全て意味がある、そう信じているのだ。自分はどう足掻いても踠いても自分にしかなれないから。だったらありのままの自分をまっすぐ見つめて嘘偽りのない自分になりたい。見栄やプライドなんて要らない。ありのままの自分を愛したいし愛されたい。

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肉体的な死は精神的な死ではない。僕が死んでも僕の音楽、言葉、思想、形のないモノたちは死なないで此処に残って居られる。そうも信じている。SeattleViretta Parkに行った時、Centarl ParkStrawberry Fieldsに行った時、僕は心の底から此のことを感じた。そして自分もそう在りたいと思った。だから僕は音楽がもっと好きになれたし、もっとずっと音楽がしたいと思えた。音は形がない振動で、その震えが正に琴線に触れられると感じられたからだ。形のあるモノはいつか無くなるから信じられないけれど、形のないモノは変わらずに其処に在り続けるから信じられる。そしてそれは僕を本当の意味で自由にさせてくれる気がした。僕は自由がスキだ。自由とは自分のうちから出てくるものでそれは代えのきかないモノである。だから僕は人の見てくれや肩書きだと云った嘘っぱちのモノではなく其の人の魂をスキになりたい。自由な人が同じようにスキだから。自由を知っている人は自分を知っている人だから。

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100年前にあって100年後にもあるモノはきっと多くはないかもしれない。でも無い訳がないのだ。僕はそんなモノを産み出したいし自分の中から見つけたい。自分の魂の痕跡を、自分が生きていたと云う証を、例えそれが"シミ"程度のモノだとしても此処に残したいのだ。自分の世界が閉じる前に自分の世界を開けたいから。僕は暗闇を照らしたい。誰が何の為にしているのかはわからないけれど、此の世の中には僕にとって不都合な事実が多すぎて色々なことを信じられない。宇宙が出来た時から、もしかしたらその前からずっと変わらずに此処に在るモノを知りたい。そしてそんなことを考えてる僕をわかってくれるともだちにもっと出逢いたい。好きでも嫌いでもいいから僕の頭の中身を少しでもわかってもらいたい。僕は孤独がキライだ。人混みの中にいるのに"独り"で過ごす日々は気が狂いそうになってしまう。繰り返している自問自答の中で自分を見失ってしまいそうになる。でもそんな時に自分をわかってくれる人がいると自分を照らされたような気持ちになってとても嬉しくなる。だからどんなに人に裏切られても人を信じることを止められないし止めたくない。

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僕は4年前に自分のアルバムを創った。相方にアートワークもお願いして全部で17曲入りのモノを創った。でも結局世には出さなかった。相方と、あとほんの数人にしか聴かせなかった。きっとそれは自分が納得できなかったからだ。そのアルバムを久しぶりに聴き直した。粗い処が多々あるけれど、そんな次元とは関係なく僕の魂は変わらずに其処に在った。それが堪らなく嬉しかったし、同時に申し訳なくなった。僕は僕の魂をきちんと本来の在るべき姿でまだ此処に持ち出すことが出来ていないからだ。それが悔しくて堪らなかった。僕が"自分の曲"をあまり公にしたく無い理由はきっと其処なのだ。自分の曲は自分の魂の片割れで、それは軽い生半可な気持ちで外に出せるモノではないから。でも僕の言葉は僕の音は確かに其処にある。だからもっと磨いていく。そしてもっと見つけていく。自分だけの音を、自分だけの言葉を、自分だけの生き方を、自分だけの死に方を。

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自由になることはきっと孤独になることだ。でも僕は自由がスキで孤独がキライだ。その相反する矛盾の中を悩みながらでもずっと進んでいきたいのだ。例え一寸先が暗闇だとしても自分が居るから世界が在る。そうやっと思えるようになった。自分のことをもっと知りたい、そしてその為に自分の取り巻く世界をもっと知りたい。自分と云う点と他人と云う点を繋いだ線を、また別の点や線と繋いで、そして複雑に絡み合って出来ていく"セカイ"ってヤツをもっともっと楽しみたいし知りたいし味わい尽くしたいのだ。無駄に出来る瞬間なんて一刹那だって無い。命は有限で可能性は無限だから。出来ないことなんて何1つない。知れないことなんて何1つない。諦めることを諦めてから僕は少しだけ強くなれた。何処で誰と何をしていても変わらない魂をちゃんと持っていられるから。

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四半世紀ほど生きてようやく自分のことが少しずつわかってきた気がする。僕は結局どうしたってこんな生き方しか出来ないのだ。そしてそれでいいのだ。そしてこんな自分を知ろうとしてくれる人、わかってくれる人、支えてくれる人、愛してくれる人、そんな人たちにもっと出逢っていって、一緒にもっと楽しいことをして生きていって、最期にはそんな人たちに囲まれて死にたいのだ。そして死んだ後にも僕が残した僕の片割れたちをまた知ってもらって、わかってもらって、楽しんでもらって、愛してもらいたいのだ。僕は狂おしい程に此のセカイがスキだから。だから此のセカイをどうしたって終わらせたくないのだ。もっと楽しんで、ずっと残るように。もっと知って、ずっと残せるように。

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今と云う瞬間は始まりで在って終わりでもある。そのことをもう一度忘れないように魂に刻む。鋭く尖った自分だけのを魂にぶっ刺していく。此の瞬間に存在している自分の現在地をきちんと見定めて、迷っても、悩んでも、苦しんでも、楽しんで生きていく。もっと楽しくなるから。もっとおもしろくなるから。もっと嘘みたいな現実が僕にやってくる。得体の知れぬモノから目を背けずに。想像を超えた現実に追い越されないように。何時の時代の何処の誰も未だに僕と云う存在を知ってはいないから。こんなにおもしろいことはない。産まれた時点で特別な自分が死ぬ瞬間までありのままの自分でいられるように。やりたいことがまだまだ在る。知りたいことがまだまだ在る。もっと生きたい。死んでも死にたくない。生に対して恐ろしいくらいに貪欲に。死と云う概念を恐れずに。自分を知って生きていく。

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今日もフツウキママに訪れてくれてありがとうございます。
次回からはまたフツウキママな日に戻ると思います。
ちゃんと読んでくれた人に感謝と尊敬とその他諸々を込めて。

<バボ>


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