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三度目の哲学



「哲学の道って近くに谷崎潤一郎のお墓があるし妖怪出そう」
 私のこんな軽口に、友人は笑ってくれた。後から考えると、妖怪と言えば柳田國男じゃないか?
 十月も終盤の土曜日昼過ぎ。私と大学の友人は、授業の一環で京都の疏水を散策していた。蹴上駅を出発し水路閣を経て、哲学の道に着いた。

 哲学の道は桜、蛍、紅葉に雪景色で有名だ。しかし、いったいなぜ哲学なのか、私はよく知らなかった。ネットで検索すると、京都大学教授で哲学者の西田幾多郎が毎朝この道を歩いて様々な思考を巡らせたらしい。ふむ。私の知らない人だが、ここで新たな哲学が生まれたかもしれないと。約1.8km。確かに歩くには丁度良い距離だった。
 京大が近いとは言え、他の小川じゃダメなのか、彼はどうしてこの小径を選んだのだろうか? 進んでみると、ここは外国人も多くて、すっかり観光地化されていた。カフェが並んで賑やかで、とても哲学の瞑想にふける雰囲気ではなかった。

「これは人がいない時に来ないとな」

 日が暮れた後、私は再び、独りで哲学の道を訪れた。ふんわり金木犀が香り、薄雲に月暈が浮かんでいた。マイナスイオンを感じる肌寒い夜。人は誰もおらず、暗闇と静寂に包まれていた。何か違和感があった。そうか、水のせせらぎ音すら殆ど聞こえないんだ。昼には気が付かなかった。気温が下がって蛙は冬眠、虫の音は少し離れた山中からかすかに届く程度で、小径からは聞こえなかった。あぁ。歩きながら思索するにはこの静寂が必要なのか? 蹴上の琵琶湖疏水や鴨川だと鉄道や船で騒がしい。水の流れも強くて音が大きかった。ここ、哲学の道周辺はEV車が多く、住民もこの静けさを守っているようだった。
 ここまで考えて、ふとまた別の疑問が浮かんだ。哲学の道の横は、アスファルトが少なく砂利道だ。私が一歩一歩踏みしめる度に、大地はジャッジャッと音を響かせた。あれ? 趣はあるけどうるさくないか? 明治時代は着物で歩幅が狭く、もっと足音がしただろう。それに街灯があったかも怪しい。そうか、それで彼は朝を選んだのか。

「朝歩かないと意味がない」

 次の日、私は早朝に出発して徒歩で向かった。空が白から青に染まる頃、やっと小径に到着した。時計を見ると七時。昔の人ならもっと早起きだったかもしれない。
 犬の散歩にランニング。朝の哲学の道は、思いの外、地元の人とすれ違った。目が合えば無言のまま会釈し合った。
 昨日の昼や夜と異なるのは、鳥の囀りだ。カラスにハト、ヒヨドリが時折聞こえて、ヤマガラとシジュウカラは特に達者に合唱し合っていた。踊るように飛ぶのはスズメとセキレイたち。それぞれの鳴き声は音階もリズムも違うが、全てが調和していた。
 私は静寂を求めて来たのに、人々の足音は軽快で、鳥たちは清々しくて静寂より心地よかった。
 道沿いの苔むした桜の木や橙の南天の実は、朝の光の中だと柔らかく色鮮やかに感じた。きっと季節折々また違った姿を見せてくれるのだろう。

 なるほど、朝が一番良い。「人は人、吾は吾なり」は彼の有名な言葉だそうだ。彼が自分に焦点を当てるなら、昼は他者が介入し過ぎるし、夜は世界から切り離されすぎている。うん。朝が良い。

 西田幾多郎もこうやって過ごしながら大学へ出勤したのかな、なんてことを考えながら、私は彼が歩いた大地を歩き、そのまま私の大学へと向かう。家に帰ったら彼の本を読んでみよう。


2023年秋、大学の科目で綴った文章。おそらく人生初の紀行文。

ご清覧賜りまして誠にありがとうございます。
是酔芙蓉ぜすいふよう

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