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迎えた横顔(後編)



 隼斗は小2の頃に越して来た。普段は落ち着いているのに、人に合わせて盛り上がったりも出来る器用な奴だった。学校で、俺がずっと隼斗を目で追っていたので、社交的な澄美が隼斗に話し掛け始めた。そうして自然と、いつも3人で過ごすようになっていった。俺は父親の事もあって、絵が好きな事を隠していた。それを最初に見抜いたのが隼斗だ。美大を受験したいと父親に頭を下げた時も、家まで一緒に来てくれた。受験の準備を本格的に開始したあの日、俺は隼斗の部屋に寄った。
「もっと練習がいるんだろ? モデルするから俺を描きなよ」
「いやぁ。確かにたまに部活でデッサンし合ったりするけど隼斗を描くとか恥ずかしすぎるだろ」
「なんでだよ。一緒だろ? 俺は帰宅部だし、いつでも家来て良いよ」
 俺はぐずぐずと渋ったが、隼斗は俺のカバンからスケッチブックと鉛筆を取り出すと、俺の手を取ってそれらを持たせた。俺はあの時の力強さとあの熱をまだ覚えている。

 じっとしているだけのモデルの何が良かったのか俺には分からないが、隼斗は頻繁に「描いてくれ」と俺を誘った。なぜ部員同士と違って、隼斗だと羞恥で熱くなるのか。服は脱がせなかった。それなのにずっと、許されない事をしているという感覚が付き纏っていた。そんな気持ちの俺に、隼斗は、絵を描いている時の俺の顔が好きだと言った。
 全体の構成を決めて面を捉えた後、少しずつ細部を描き込む。細部を描き込んだら引きで見て、また全体のバランスを調整した。この工程を繰り返す度に、隼斗と目が合った。ずっと強い視線を感じていた。俺はその瞳が耐えられず、横を向くように指示した。

「あぁ……顔もうちょっとこっち向いて。うん。そう。目線はあっちで」

 そう声を掛ける度に隼斗はうっすらと、顔を大きく崩さない程度に笑って、俺に従った。隼斗は沖縄の血が混ざっているそうで、堀が深めでくっきり二重の瞼は、微笑むとほんの少し皺が出来て垂れ目になった。俺よりも濃い色の肌は、窓からの自然光を浴びて艶を出し、誰よりも描き易かった。毛深いのがコンプレックスで髭も伸びやすい。デッサンの前は毎回、わざわざ俺のために剃り直してくれた。俺が「別に良い」と言っても、この点だけは譲らなかった。隼斗はただ微笑むだけで、約30分もの間、何も話さなかった。たったの30分だが、デッサンモデルをした経験があれば知っている。動かないのは、身体も精神もかなりつらい。5分だってつらい。30分は永遠にも感じたはずだ。デッサンを終えて「疲れたろう」と聞いても「一瞬だったよ」と言って、隼斗はいつも満足そうな顔をしていた。
 
 
 12月31日、年が明けるまで残り約30分。おっちゃんの寺の横には朱色の神社がある。賽銭箱だけの小さなお社だ。その前の広場には、大勢の人が集まって百円玉を手に並んでいた。年明けの福引で、買ったくじに書かれた数字が当たれば、自治会で集めた景品を貰える。他は、甘酒と御神酒を配るくらいで屋台はない。新年を祝うささやかなイベントだ。
 俺の前を子ども達がはしゃいで走って行った。くじを手に入れた後、隣のおっちゃんの寺で除夜の鐘を撞かせて貰うのだ。子どもにとっては、夜更かししても怒られない最高の夜だった。友達の多かった澄美は、皆に会えるこの催しが大好きで、俺と隼斗を連れて毎年参加していた。
「俺らもあんな感じだったか。澄美は年越しが好きだったから、俺もやっと行く気になったんだ」
 福引も甘酒も除夜の鐘も通り過ぎて、独りで寺の裏にある墓地へと登った。俺は土屋家の墓の前で膝を着いて、かじかむ両手を合わせた。
 高3最後の年越し、俺の美大進学を信じていてくれた澄美は、この神社でぽつり「寂しい」と漏らした。澄美は唇を震わせながら強く咬み締めて下を向いた。隣にいる隼斗も顔を背けて、あの強い瞳を見せてはくれなかった。俺はその時やっと、2人が今までどんな気持ちで応援してくれていたのかを知った。
「毎年帰って来るから」
 卒業後の進路は澄美も、意外な事に隼斗も地元での就職を選んだ。俺は受験の事で頭がいっぱいで全く周りが見えていなかった。頭では理解していても、まだ現実に別れを受け止めていなかった。澄美は「大事な時期なのにごめんね」と泣いて俺の胸元に顔を埋めた。

―― ゴーン ゴーン ――

 あれから2年後の今日も、除夜の鐘は人々の思いを背負ってひとつまたひとつと打たれている。ここに2人はもういない。大学1年の秋、乾季が続いた後にざっと雨が降った。そして、隼斗と澄美は車ごと土砂に流され、そのまま帰らぬ人となった。2人がなぜ一緒にいたのか、誰も知らなかった。村の人は、隼斗と澄美が交際していたのだと結論付けた。俺が連絡を貰った時、俺は人も時間も全てが過密な東京で、大学の課題に追われていて、故郷の景色からすっかり遠く離れていた。想像していたよりもずっと早く時は進んでいた。驚きと絶望と、どうしても実感が持てない自分自身に恐怖を感じた。
「ごめん。ごめんな。本当に酷い奴だと思う。葬式も、年末年始も、一周忌も帰るのが怖くて。約束したのにごめん。澄美と隼斗以上に大事な奴なんかいないのに。本当にごめん。澄美。俺……最低でごめん」

 昔、未婚のまま亡くなった子の来世での幸福を祈り、架空の結婚を絵馬で描く風習があったと言う。村の皆は澄美と隼斗の両親に許可を取って、成人の記念に、誰よりも2人と近かった俺にその絵を依頼した。俺が葬式に参列していれば、こんな俺にとって最も残酷な終わらせ方を強制される事はなかっただろう。この後悔が俺を狂わせた。澄美にした俺の惨い行いは謝っても謝り切れない。

―― ゴーン ゴーン ――

 鐘の音が、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった俺の脳内を殴った。俺はふらつき立ち上がって、後ろを向いた。そこには変わらず、強い眼光を持った隼斗が立っていた。

 隼斗はあの絵を描き終わって直ぐ、俺の目の前に現れた。なぜ1年経ってから来たのか。何か伝えたいのか。何を話し掛けても隼斗は答えてはくれず、表情も変わらない。見えるのは隼斗だけで、澄美はいなかった。ずっと俺の後を憑いてきて、俺をじっと見つめ続けた。隼斗の、山口家の墓はここにはない。そこまで遠くないと聞いたが、場所は知らなかった。隼斗が現れてから以降、俺は独り言が急激に増えた。幽霊なのか幻覚なのか、俺には判断が付かなかった。人から心配される事が増えて、病院に助けを求めた。しかし、薬は全く効果がなかった。隼斗の強い視線は揺るがなかった。俺はここに帰れば、消えてくれるのではないかと思っていた。しかし帰省してからも、澄美に手を合わせた今も、ずっと傍に居続けている。原因は分かっている。これは、俺の罪だ。あの絵を消さなければならない。
 俺は走って墓地を下って、寺の本堂に飛び込んだ。村の人は神社か鐘の元に集まっていて、ここには誰もおらず静まり返っていた。靴を脱ぎ棄てて真っ直ぐ談話室に入り、絵を降ろした。震える手で額縁を外す。俺は目の前に立っている隼斗の顔を見た。あのデッサンで知り尽くした綺麗な顔を。
「これで良いんだよな?」
 俺は一度深呼吸してから絵を丸め、静かに寺を抜けて、また澄美の墓へと戻った。2人の絵を玉砂利の上に置いて、ライターで端を炙った。紙はじりじりと揺れた後、黒い境界線模様を描いた。その境界線は踊るように素早く進み始める。まるで地図のようだと思った。火が付いてからはあっと言う間だった。

 俺は、嘘を描いた。この絵は隼斗と澄美の絵ではない。隼斗の白い羽織紐部分にすり潰した隼斗の歯を、澄美の唇に俺の血液を顔彩に混ぜて描いた。
この絵は、俺と隼斗の絵だ。俺の醜い感情から生まれた罪だ。ムカサリ絵馬には禁忌がある。生者を描いてはいけない。

―― 10 9 8 7 ―― 

 皆のカウントダウンを叫ぶ声が響いた。煙が闇へと溶け上がる。黒い境界線は一点に集約し、燃え尽き、灰となって風に吹かれて飛んでいった。
 暗闇の中、俺は、隼斗のあの微笑む横顔を見た気がした。



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是酔芙蓉ぜすいふよう

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