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人と向かい合って働けると言うこと



 人間の成長は坂道のようにイメージされるが、実際は階段だ。それも、一段の長さと高さがバラバラで、手すりが合ったりなかったり気まぐれな階段である。
 長い期間努力してもなかなか次のステップに行けず苦しむ時もあれば、友人と楽しみながら過ごして、知らぬ間に成長している時もある。そして、次のステップに進めば今までの苦労は忘れてしまったりもする。

 例えば、靴紐の結び方。

 初めて靴紐の蝶々結びが出来た瞬間を覚えているだろうか。


 4、5歳の頃に、指がうまく動かず何度も失敗し、あんなに出来ないと癇癪を起しながら毎日練習して苦労して、やっと習得した。しかし、大人になった現在「どうして出来るの?」と問われても今は簡単すぎて説明が難しかったりする。
 出来なかった頃の困難や感情をはっきりと思い出せない。初めて出来た時は喜んで、親の前で何度もやって見せて褒めて貰って、さらに幼稚園で友人に出来るか聞いて回り、自慢したり、自慢されたりもした。確かにその記憶はある。あるのだが、あの時なぜ出来なかったのかが実感として思い出せないのである。

 進むステップが小さいと、一歩一歩積み重ねても自分で自分の成長に気が付けない。大人になると褒められることも減る。いつも結果が目に見える試験があるわけではない。
 だが、そんな日常生活の中でも、急に自分は昔と比べて成長したなと気付く瞬間があるのだ。記憶にも残らない小さな成功体験を重ねた後で、一つ人生の段階が進み、大きな発見を得ることが出来る。

 私にとってのその気付きは、大学3回生、駅前の居酒屋でサーバーのアルバイトをしていた時のことだった

(3年生でなく回生と書くと地域が分かってしまうが、どうしても3年生はしっくりこないので堂々と3回生を使おう)。

 店長は別店舗と掛け持ちの為不在が多く、ほぼ学生バイトだけで切り盛りしていた。他店、本格日本料理店を2年間経てからここに来た私には、お世辞にも質が良いとは言えないこの店が嫌だった。しかし、リーマンショックの影響で飲食業界は大不況。バイト先を選べる状況でもなかった。

 その日は珍しく宴会の予約があり、いつもより多い人数のシフトで駆り出された。フロアは私と、先輩のギャル2人。彼女らはいつも一緒で、自分たちの好みに指示する為予測は出来ていたが、案の定、私に「宴会担当お願いしまーす」と軽い調子で配置を決められた。
 予約は一組、約30名。「はぁ……1人で回すのか」と気は重かったが、私は後輩だ。「お金の為に、背に腹は代えられない!」と気合を入れた。それに、実はまだ全てのメニューも覚えていなかった。その点で、ドリンクや片付けは大変だが、料理の内容があらかじめ決まっている宴会の方が楽ではあった。

 19時半。続々と予約のお客様がご来店し始めた。8割ほど予約席が埋まった所で、私は頬の筋肉に力を入れて笑顔を作り「いらっしゃいませ!こんばんは」と挨拶に行く。「残りの人は後から来るので初めて下さーい!」とのこと。
 注文を取ってはドリンクを運び、料理があがれば各テーブルへと配って、またドリンクの追加注文。私は、厨房と宴会席を行ったり来たりと何往復も、息付く間もなく忙しく過ごした。

 宴会客は大変活気があって、礼儀正しいグループだった。声が良く通る。幹事らしい女性は特に協力的で、全員の注文を取りまとめては伝えてくれた。とてもありがたい。私がドリンクや料理を運べば、いち早く受け取り、てきぱきと奥の席まで回してくれる。
 様々な年代の方が集まっていた。分け隔てなく会話が盛り上がっており、仲の良い会社だなと感じた。「○○先生!」と陽気に呼び合う声が耳に入る。なるほどどうやら学校の集まりらしい。全員の立ち居振る舞いにも納得だ。

 コース料理の終盤、揚げ物まで出し終わった所で「よ!待ってました!」「お疲れ様です!」と、宴会客から次々に声があがった。やっと残りの先生方が合流したようだ。

 私はその中のひとりに見知った男性を見つけた。


 中学1・2年生の時の担任、山口先生(仮名)だ。あの浅黒い肌、濃い眉に堀の深い目。卒業以来彼を見ていないが間違いない。
 私は声を掛ける勇気もなく、宴会卓を訪れる度に視線で存在をアピールし続けたが(ちゃんと仕事しろ!)、なかなかに気付いて貰えなかった。

 そもそも声を掛けた所で、先生は私のことを覚えているのだろうか。

 担任だったとは言え、私が卒業してから既に5年近く経っている。毎年、1学年160人近い生徒を覚えては見送り続ける教員達。私はクラスメイト30人すら覚えているのは一握りだと言うのに、そんな数を覚え続けることなんで出来るのだろうか。

 そう悶々として働くうちに、締めの塩焼きそばを出し終わり、ラストオーダーも終えた。幹事の女性がお会計に向かって、宴会のお客様方は次々と解散して行く。
 私は下膳用のボックスに瓶ビールやらジョッキやらを集めていたのだが、山口先生はまだ数名と談話しながら残っていた。丁度話しかけやすい所へ座っている。私は緊張で心臓が飛び出そうになりながら、勇気を出して彼に話掛けた。

 「や……山口先生」私です。覚えていますかと。
 名前を告げると山口先生は少し考えてから「おぉ!」と目を輝かせて丸くした。そして、目尻に皺を寄せて笑顔を見せてくれた。

 覚えてくれていたのだ。私は教員の記憶力は本当に凄いなぁと感動したのだが、なんと思いがけず、山口先生も「こんな所(接客業)で働けるような子じゃなかったよなぁ」と言って、別の意味で驚いたようだった。嫌味でも何でもなく、お酒も入って血色の良い満面の笑みで、純粋に卒業生の成長を喜んでくれていた。
 私はその言葉を聞いてはっとした。月日の流れは早いもので、自分自身も忘れかけていた。

 そうだ。私は接客なんて出来るような人間ではなかったのだと。


 私は幼少の頃から引っ込み思案で、話すことが大の苦手だ。恥ずかしがって挨拶が出来ない子どもは良く見るが、私のそれは大学生になるまで続いた。
 大人数への発表などは緊張するが、台本も用意するのでぎりぎり問題なかった。マンツーマンで注目を浴びるとなぜが緊張とは異なる、緊張を超えた恐怖と羞恥心でいっぱいになった。

 中学の三者面談で、山口先生と向かい合っていざ視線を感じると、一瞬で冷や汗が溢れて手はびちょびちょになり、口内は乾燥して、声を出そうにもかすれて何も話せなくなった。身体が岩のように固まって、呼吸をするだけで精一杯だった。始終、首を振るだけで乗り切っていた。

 美容院や病院もダメだった。診察室に入って医師に質問されると、同じ現象で声が全く出なくなった。恥ずかしながら、なんと18歳を超えてもまだ、ただの風邪で受診する程度で母親が付き添い「ほら、自分で話なさい」と𠮟りつつ私の症状を全て説明していた。案の定、医師は私の精神を疑って、私はかなりショックを受けたものだ。消してしまいたい過去だ。

 大人になるのが恥ずかしい。大人になれないのも恥ずかしい。
 場面緘黙に近かったのかもしれない。それが大学でアルバイトを始めて、必死で恐怖を乗り越える内に、いつの間にか克服出来ていたのだ(場面緘黙は努力で治せるものではないと言うことを、誤解なきよう残しておく)。

 レストランのサーバーで初めて料理を運んだ時の、あの汗、震える手に、声が小さいと注意を受けた日々、どれほど情けない思いをして、どれほど頑張ったかを私はすっかり忘れていた。山口先生の一言で、走馬灯のように過去の出来事が脳内を駆け巡った。


 その日の退勤時間は遅くなり日付を跨いでいたが、私は天にも昇る気持ちだった。山口先生との運命の再会と、根気強くサポートし続けてくれている母に心から感謝した。
 疲労で足腰が痺れる暗闇の中、見上げた空は雲一つなくて、星が明るく輝いていた。私でもちゃんと大人になれると、これからの未来も大丈夫だと信じた。私はぴょんぴょんと(深夜で知らない人が見れば恐怖しただろうな)スキップしながら帰ったのであった。



ご清覧賜りまして誠にありがとうございます。
是酔芙蓉ぜすいふよう


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