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迎えた横顔(前編)



 自転車で6分ほど登った山の麓に、小さな寺がある。古風な様式だが観光地ではない。そもそもこんな辺鄙で何もない田舎に観光客は来ない。しかし、この村では唯一の寺だ。檀家には困らないのだろう。本堂は定期的に改修されており、屋根瓦も漆喰も綺麗だ。最近は木戸をやり替えたらしい。真新しかった。
 戸に貼り紙がしてある。
(ただいま留守にしております。ご自由にお参り下さい。御用の方は寺務所まで→)
 寺務所何て書いてるがそんな大層なものではない。ただの住職家族が住んでる家だ。貼り紙は留守だろうと留守でなかろうと、昔からいつも貼ってあった。
 俺は貼り紙の→と反対の方をちらりと見た。溜息ひとつ。
「なぁ見ろよ。せっかく新しい扉に変えてるのにこの貼り紙は変わってねぇの。おっちゃんもずぼらだよなぁ。あぁずぼらって知ってる? 大学の奴らで、ずぼらが方言かどうかもめてさ。方言じゃなくて死語だよな。草生えた。あいつらずぼらズボラってめっちゃ使っててブーム来てて、この前調べたらずぼらって坊主が語源らしい。おっちゃん寺だけに〜〜! って笑えるよな」
 午後3時。周辺には他に誰もいない。風が杉林を揺らす音だけが聞こえた。
「あぁ……びっくりした? 俺変わっただろ? 東京でアホなノリ覚えてさ。昔はほんと俺、静かだったよなぁ。……なっ? ってやっぱ答えてくれねぇよな。隼斗はやと
 返事があるはずもなく、バカバカしく本当に笑えてきた。

 俺は子どもの頃から何度も訪れたこの寺の、新しい引き戸を開けた。車輪が付いたのか、戸は以前と違ってカラカラと軽く良く滑った。中はやはり誰もいなかった。
「おっちゃんも不用心だよなぁ」
 滞った空気が外気と混ざって、ヒュッと俺の前髪を揺らした。室内の方が冷たいと思った。今日から寒くなると聞いている。雪が降る前に帰って来れたのは良かった。今年は冬休み前に帰省した。今学期はバイトを詰めまくって、講義をサボりすぎて、11月の時点で早々に単位を落としてしまったのだ。それでも俺は更に掛け持ちを増やして働き続けた。大学とバイトの両立どころか大学の方がおまけになりつつあった。
「……いや。本当はバイトも言い訳なんだ。お前の絵。確か談話室にあるってさ。付いて来いよ」
 俺は、靴を脱いで畳に上がった。中央には立派な金色の仏壇がある。仏壇の扉は閉められており仏の顔は見えなかった。広い本堂は薄暗く、天井から吊り下げられた六角形の灯篭だけが朧なオレンジ色を放っていた。手も合わせず仏壇を通り過ぎて、右端、屏風の裏へ回って小部屋に入った。


 地元の人が集まる談話室は、木彫りの置物や日本人形やらが並べられ、ごちゃごちゃと物で溢れていた。壁には隙間なく写真が飾られている。天井近くには歴代住職の顔が並び、その下にはここで式を挙げた檀家達。白黒の着物姿で始まって、日焼けで色褪せたセピア色から段々とカラフルに、お堅い集合写真だけでなく、餅つきなど行事の記念写真も大切に取ってあった。その中の1枚、青と白の法被を着た子ども達の写真が目に留まった。
「あ。この写真。小4の盆踊りのだ。隼斗と澄美すみの太鼓。確かこの左上の後ろ向いてるのが俺だったな。お前らカメラ目線ですげぇ笑顔」
 俺はクスっと笑った。壁をなぞりながら左へと進む。段々と現在に近付いて来る。中学、高校……、写真の鮮やかさと比例して、俺の気持ちはどんどんと重くなっていった。昔の方が良かった何てじじ臭い事は言わないが、もしもあの時違う選択をしていればと人間なら皆一度は考えた事があるだろう。だが、たとえ過去に戻れたとして何も変わらない。全てが繋がっていて、いつからやり直せればと言う区切りはないのだ。そして、何が正しくて、何が間違いだったかも分からない。現状が良いのかも分からないのだから。

 一番左の見上げるほど上、最新に掲げられてるのは1枚の絵だ。幼馴染の山口 隼斗と土屋 澄美子の結婚式の似顔絵。よくあるデフォルメの強いイラストではなく、日本画寄りの真面目な画風だ。2人は和装で正座して並ぶ。隼斗は黒の着物に灰色の袴で、神妙な表情。澄美は白無垢で、目を伏せてモナリザのようなアルカイックスマイル。背景は橙色の屏風で淡くぼかしてある。全身の絵にしては控えめのA4サイズで、遠く離れれば2人の顔が良く見えない。隼斗の羽織紐の白いポンポンが、漆黒とのコントラストで目立った。澄美の方はインパクトに欠ける。白無垢は浅黄色が強く屏風の橙と同化しかけており、唇は赤が濁って茶色に近くなってしまっていた。誰が見ても分かる。これは祝いの絵としては失敗作だ。

「俺が描いた」

 この絵を依頼されて、迷いながらも半年掛けて完成させた。それまでは何とか普通に生活は出来てたんだ。最後は徹夜で追い込み一気に描き上げて、絵の具が乾くと共に見直しもせず梱包し、寝不足の頭と体で郵便局に駆け込んでこの寺へと送付した。以降、ふっと生気が抜け落ちて、俺は全てが無価値で下らないと感じるようになった。必死で取り組んでいた大学の講義も、作品作りも……。少しずつ少しずつ感情を失って、五感が鈍くなっていった。それを必死で否定しようとバイトに明け暮れたが、長くはもたなかった。
 俺は無言で絵をじっくり眺めた後、5歩下がって、またぼうっと眺めた。段々と焦点が合わなくなってくる。
「どう思う? ……って本当は誰にも見せたくなかったんだけどな。仕方ないよな。酷い絵だろ? もし過去に戻れたら、俺は帰ったかな。いや。そこじゃない気がする。俺は自分に『絵を描くな』って言いに行くだろうな。この絵だけじゃなくて全部な」
「龍平。なぁにを独り言すてんだ?」急に声が降ってきた。
「うおっ」
 俺はまさかと吃驚し心臓が高鳴った。後ろを振り返ると住職のおっちゃんがいた。
「……おっちゃんか」安堵したようながっかりしたような。
「んだぁ? 久すぶりんだのに、おらは喜んでるぞ。やぁっと帰ってぎだか。龍平。待ってだんだ。この絵飾って、おめぇが祝いすんど意味ねぇがらな。……ぐらぁなってぎた」
 おっちゃんは部屋の電気を付けに行った。戻って来ると手に黒い徳利を持っている。
「ほぉら酒だ。ぐいっといげ。三々九度。龍平が代わりにやってけ」と俺に徳利を強引に押し付けた。徳利だけ持たされてどうすれば良いと言うのか。
「おっちゃん……盃は?」
「ねぇ」
「せめておちょこを」
「細げぇごと気にするな! ぐいっといげ!」
 おっちゃんは世間がイメージするお坊さんとはかけ離れ過ぎている。この大雑把な、良く言えば寛容さが好きで、俺は父親よりもおっちゃんと過ごす方が多かったくらいだ。久しぶりに会ったおっちゃんの勢いに圧倒されまくり、徳利を口に運ぶと一気に飲み干した。ちょうど三口で空になった。日本酒はほとんど飲んだ事はなかったが、そこまで苦くも辛くもなく、優しいなと思った。
「いやぁめででぇめででぇ。隼斗、澄美子ちゃん。結婚おめでどう。龍平、成人おめでどう!」
 おっちゃんは満面の笑みで万歳した。今の時代に万歳かよと、俺は感謝しつつも達観してしまう。どうしても祝う気にならない。外はすっかり暗くなっていた。
 俺はふと思い出した。
「あ、自転車……」
「どうすた?」
「飲酒運転」
「最近は細けぇんだ。寒いし、おぐって行く!」
 そう言って、おっちゃんは嬉しそうに上着を取りに行った。


ご清覧賜りまして誠にありがとうございます。
是酔芙蓉ぜすいふよう


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