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成熟を目指して:5月初週の所感

礼拝のメッセージを受けて

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け」という聖書の言葉を体得している者のみが、真の教師といえるのではないか。

『教師の資格』三浦綾子

 5月7日の聖日礼拝のメッセージでは、主の教育について語られた。
 人間はその細胞の最初のひとつが造られる前から知っていてくださる創造主によってかたち造られ、その命の日がまだ一日と始まっていないうちからその人のすべてが創造主の手元にある書物に書き記されたと聖書は語っている。母の胎の中にいる胎児は、最もその創造主に近くあり、創造主はその子どもを成す細胞の一つひとつを手造りしてくださっていて、その手の中から出てきたばかりの子どもほど、創造主に近くある人間はいないのである。
 そういうわけで、聖書はこう語っている。

幼子たち、乳飲み子たちの口を通してあなたは御力を打ち立てられました。あなたに敵対する者に応えるため、復讐する敵を鎮めるために。

詩篇8:2

 ややもすると幼い子どもの祈りなど、力なく意味のないものだと思われがちではないだろうか。しかし、主はそのようなまるで力なき者にこそ近くあられ、弱い者を通して力強い栄光を表してくださる方なのである。

 さて、そのように御言葉のメッセージが語られる中で、人間の成長過程を表した一つの図が示された。
 その表の中では、0歳から7歳の間は養育期、8歳から19歳の間は教育期、20歳からは成熟期とされていた。養育期はすべてのことを親や大人に身を委ねて、たっぷりと「与えられる」期間であり、教育期には自立へのステップを踏みつつも必要なことを「与えられ」て、それらを受けて良い成長を遂げる人間は、成熟期になると色々なことを「与える」ことができるようになっていく、というものである。
 私は今年24歳である。その表に照らし合わせると、立派な大人になっていなければならないトシなのだ。

 やや!私はそんなご立派な大人などには成れていようはずがない!と思ったし、実際今の暮らしは親のスネカジリも同然の有様なのである。
 しかし、ついその前日に会った友人と会話した時には「もう私たち二十代後半になってしまうね〜!」などと言われて私も必死で頷いていた。「もう」と言うからには随分と時間が経ってしまったものだね、という風に彼女も言いたかったわけであるが、「もう」と言えるほど私たちは成熟した大人になり、きちんと歳を重ねられているのかと言うと、それには首を傾げるしかない。

終わりから見通して

 しかし何も、20歳になったからといっていきなり「はい、あなたはもう大人です。なんでも一人でやっていきなさい」と言われて、一切助けの手を借りることなく生きていく人間が一体この日本に何人いるというのだろう。世界規模で見てさえ、成人を迎えて以降誰の手も借りずに生きていける人間というのはほとんどいないに違いない。誰しも皆、どんな立派な大人であっても何かしらの助けを得て生きている。
 そのように、私たちはいきなり大人になるのでも、一切の助けを拒まれるのでもなく、だんだんとできること、誰かに「与えられるもの」を増やしていくことができれば良いのではないだろうか。

 そうやってみると、20代と言うのは甚だ若いものである。私には到底到達し得ないと思っていた『大人』なるものの一部ではあるけれど、しかしその第一歩目でしかないのだ。私の人生がいつ幕を閉じられるのか、その時を知りはしないけれど、その続くかぎりの終わりから見れば、今この時はなおも若い。
 また、その終わりに向けて歩んでいく中で、さまざまなことを「与えられるもの」として増やしていく楽しみがあることも忘れてはならない。私は今手にしているもの以上に良いものを手にしていくことができる可能性を持っており、その希望を無闇に捨てなければならない謂れはないのである。

 そして「与えられるもの」を手に入れるためには、やはり主の教育、御言葉の教育を受ける必要がある。御言葉にこそ、人間にとって最上の知恵、最上の栄養が刻まれているからだ。日々御言葉に向かい、御言葉のご命令と自分自身のありのままを比較吟味して、天国の国籍を持つ者としてふさわしい大人の在り方に近づいていきたいと思う。

これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも、道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。

申命記6:4−7

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

詩篇119:105

チャールズ国王の戴冠式を見て

 この礼拝の前日、友人と会った日の夜であるが、私は家族と一緒にチャールズ3世の戴冠式の様子をYouTubeで見た。普段テレビをつけない家なのだが、その日はなぜだかついていて、流れていたニュースで「今夜は戴冠式がある」と言っているのを聞いて、なんとなく気になったのだ。

 途中、国王の側に立つカミラ王妃を見て母が言った。
「つい考えてしまう。もしこれがダイアナ妃だったらって。どれほど美しかったろう」
 お二人が馬車から降りる直前にも、「この歳になってこんな大きな行事に出ることになったって、大変なだけでしょうね。せめて若いときにしたかったでしょうに」とカミラ王妃の気持ちを想像していた。

 当人がどのように思っていたかなんて想像するしかなく知りようもないが、それにしてもあまりに悲観的すぎやしないかと私は思ったのだが、それはともかくとして。
「もっと若ければ・・・、もっと美しいあの人なら・・・」
 それらは人が人を羨むときに、よく使われる言葉だ。しかし、若いから、美しいからと言ってその人がまさに人間たる成熟した考え、聡明な知恵を身につけた立派な大人であるかどうかはあやしいものだ。人は時々、そういう観点を忘れるのではなかろうか。

 前女王エリザベス2世は、それこそ今の私とほぼ変わらぬ年頃で若く、それも美しさをも兼ね備えた女王として国々のトップに立つこととなった。そしてその70年にも及ぶその治世を立派に導き成した人として、人々に愛されつつ天の御国へ凱旋された。
 これほど壮大に一人の人間としての人生を豊かに歩む人というのは、あるいは稀であろう。

 国王チャールズ3世は、この戴冠式で新しい試みをしたという。それは、キリスト教以外の宗教人をも式に参加できるようにしたということだった。その試みによって、他宗教の方が御言葉の朗読をしたという。これほど堂々とした勇ましい福音、神から遠く離れてしまっている人々を神の招きに近づける素晴らしいお働きをなさることがおできになれたことには、やはり年の功というものも関係しているのではないかしらと私には思われたのである。
 力強くも、柔和で穏やかな聖霊様の霊をいただいているクリスチャンとして、人々を和解と福音に招く立派な式であったように感じ、感動した。

成熟を目指して

 人にはそれぞれに相応しい成長の期間と、力を発揮すべき場所と時があるに違いないと私は思うし、私には今このときが、グンと伸びていく急成長期であるという実感がある。私はこの実感を信じて、また主からいただいている希望を忘れずに、成熟した大人になること、なんでも「与えられるもの」を持つ者になることを目指していきたい。

 実のところ、最近目標に定めてしまおうかと考えていることのうちに、「主の教育を与えられる者」になることというのがある。その考えが目の裏を過ぎっていくことを時々感じていたからこそ、今週の礼拝にはドキリとさせられた。本当にこれを目標として良いのかはまだ分からない。私の主からいただいている賜物と召しの真髄がなんであるのか、もっともっと尋ね求めていこうと思う。


2023/05/29
9日にはほぼ書き終えていたのに、読み返して表紙を描く時間がなくて今日まで引っ張ってしまった(笑)

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