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生きづらさを抱えた子の"本当"の発達支援!?なかなかにチャレンジングなタイトルの付け方だ。その2

生きづらさを抱えた子の本当の発達支援 --コミュニケーションと自己コントロール編

塩出真央

前回の「その1」では、
今回ご紹介している本、『生きづらさを抱えた子の 本当の発達支援--コミュニケーションと自己コントロール編』の内容について書いてきた。

その続編である今回は、書籍タイトルの「本当の」というのにびっくりした...
というところからお話を再開したいと思う。


「本当の」って!?

そ、それにしても、    だ。
「本当の」発達支援...............って。
なかなかにチャレンジングなタイトルの付け方だ。

この本の細部からもわかるように、支援をする側が子どもについての正しい知識を持つことで適切な発達支援が可能となる。だから、正しい知識や対応の仕方を学ぶこと、同僚の先生たちとの“共通言語”をもつことの大切さも十分理解できる。

だけれども、
この本では、その専門的部分のどれかに「本当の」を見出すのではなく、支援を受ける側の子どもがそれをどう捉えるか、という部分を最も重視しています。「生きづらさを抱える」子が安心して日常を過ごすことができているか。教育的な側面はまずは脇に置いて、共感してもらっている、肯定してもらっていると感じることができているのか。大人から愛されている、優しくしてもらっていると実感できているのか。

そここそが、「本当」かどうかを見極める最も重要な部分だ、と、成沢先生は言い切っていたりする(と、私は捉えている)。

怖っ。意味わからん

生きづらさを抱えつつ育つということ

成長や発達に関して支援を受けてきた子どもの側から言わせてもらうと、成沢先生のこの感覚は当たっている。

私の場合は主に身体障がいですが、現代社会で「ふつう」ではないことは、生きづらさを感じながら生活をすることを意味します。

私は、控えめにいっても一人では何もできません。たとえば、さまざまなデバイスを装備し、自分のペースで取り組める自宅なら自分で靴を履けますが、学校や仕事場など、完璧に環境を制御できない場所では、まわりの人の手を借りなければならないことがほとんどです。

そう、一見して私と周囲の皆さんとの間にはわかりやすい大きな溝があり、いつも、助けてもらわなければならない存在です。だれもが自分自身の生活で疲れきっていて、自分のことは自分で解決するのが当然の社会。多様な生き方が認められるようになったとはいえ、多くのみんなが、失敗しないように空気を読んだりして頑張っています。大学や会社、持ち物だって、ハイブランドを羨ましく思う瞬間があるように、もたないよりは持っている方がいいし、できないよりはできた方がよいのが当然の社会。

だから、無条件に相手が自分のありのままを肯定してくれたり、失敗したときに心配してくれた時は、最初はびっくりしてしまうのですが、この肯定されたり心配されたりする体験は、失敗が多い子どもの気持ちを慰め、前を向く力になってくれました。

たとえば、

私は小学校の低学年の時に、みんなの前でお漏らしをしてしまったことが三度ほどありました。そんな時は保健の先生が着替えを手伝ってくれるのですが、失敗したらダメでしょ!と怒るようなことはなく、「いつでも手を挙げてお手洗いに行けばいいだけ。生理現象なんだから仕方ない、あまり落ち込まないのよ」と言ってくれました。

小学校低学年とはいえ、どう考えても同級生の前で失敗はしないほうがいいに決まっていますが、先生方はブレることなく、毎回同じように対応してくれました。うまく対応できない自分は情けなかったですが、先生のおかげで「普通」の人が身につけずにすむような異次元の価値観(?)を身につけ、自分は自分、ありのままでいいと考えられるようになったと思います。

さらに先生のそういった態度は、クラスメートたちの認識や行動にも大きく影響していたように思います。トイレの失敗をしたあと罰が悪いまま教室に戻ると、男子四人に呼び止められました。びっくりして振り返ると、

「なんで頼らないんだよ。」
「手伝ってもらうのは恥ずかしいことじゃないだろ、トイレでもどこでも一緒に行こう、なっ」て。

この時は家に帰って泣きました。できないことをネガティブに捉えているのは当の自分自身だったことに気づいたからです。コンプレックスの要因は自分自身。できないことをできるようにする教育や、ソーシャル・スキルトレーニングなどはとても有用なお勉強ですが、自分が思う壁や思い込みを取り除くのは自分自身。

安心できる人間関係を通して、生きづらさをのりこえていく時間をもらえた...。それが私にとっての「本当の」発達支援だったな...と、しみじみ思います。

このほかにも、小学3年生の時の国語の授業でも忘れられないエピソードがあります。この日の授業は物語を読み解くという授業で、私はそれまで自分から手を挙げるような子ではありませんでした。ですが、興味があったことなのでしょう、この日はなぜか前のめりに手をあげていました。いつもと違う様子を先生は見逃さず、僕をあてて発言させてくれました。

「テストじゃないんだから、感じたまま話していいんだよ!」と、促してくれたこともあり、私は機関銃のような勢いで話しはじめました。そして先生は、「真央くんの気持ちがわかりますか?」とみんなに問いかけ、私が手を上げて表現したことを褒めてくれました。

ほ、ほめてくれた!?

その先生は、その後も私が肺炎で入院した際などに文庫本を差し入れてくれ、身体が思うようにならなくても、文字の世界なら不自由はない。作家といったクリエイティブなことだって、「いっぱい本を読んで、漢字とかたくさん勉強すればいつかは道が拓ける」と諭してくれました。できないことばかりに打ちのめされた子ども時代でしたが、自分にも可能性があることを、この先生から教わりました。

道が拓けるってさ!

大人の問題が子どもに反映される

できないことを抱え「生きづらさ」を感じながら生活している子どもたちは、周りが考えている以上に自信が持てず、周りの顔色を伺ったりして、自分の可能性を閉ざしがちになります。

私はたくさんの先生や親に支えられ、ありのままの自分と向き合ってきたからこそ、「生きづらさ」を手放せたように思います。この本に出会うまでは、私自身が高い専門性と“想い”に支えられて大きくなったことがわからなかったけれど、価値観が多様化する現代だからこそ、「本当の」と強調されるような支援的な関係は、ますます大事になってきているんだろうと感じます。

ユニバーサルデザインが普通の人にも使いやすいデザインであるように、「生きづらさを抱えた子」の発達支援こそが多様性の時代の人育ての基盤なんじゃないか。

この本を読んで、自分がしてもらってきたことの凄さを再確認したけれども、それと同時に支援側の辛さや大変さが痛いほど伝わってきて、何か行動をおこさなければ...みたいな、使命感も湧きました。

どんな行動にも意味がある

子育ての苦労は社会全体で抱えていかなければならない困難でもあるはずです。今現在、子育てをしているみなさんのご苦労もそうですが、発達支援を職業としている方々の努力をたたえ厳しい現実を共有していかないと、「本当の」を目指す真摯な先生たちはどんどん疲弊してしまうんじゃないか...。

異次元の子育て支援が言われていますが、子育てや療育に接点がない皆さんにこそ読んでいただき、私たちがどんな社会をつくっていきたいのかを考える必要があるのかもしれません。暑さがなかなか終わらない、夏の終わりの一冊にいかがでしょうか。



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