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そんなには優しくない世界で

最近、鼻毛がよく抜ける。
抜けるのはいい、それが鼻の奥の方にいって口から出てくるのが大問題なんだ。
喉を大変に痛める。しかしなかなかの大物が流れ着いてきた時には、ちょっと達成感がある。

さて、最近考えることといえば、
「『多様性』ってそんなに多様じゃないような気がする」ということ。
いや、本来の意味ではすごく大らかな言葉であることは間違いないが。体温と匂いを持った本物の人間どもの群れの中に落ちた多様性は、食い荒らされて穴だらけの奇怪な価値観に変貌する、している、ような気がする。

「多様性で定められた少数者のカテゴリから、更にはみ出すような奴らは置いてくからね」という、いつもは優しい顔をしておきながら不測の事態に陥ると急にブチ切れて暴力を振るう父親のような雰囲気を纏っている。

そう感じるのは何故か。
あらかじめネットや街角、「有識者w」で議論され、まぁなんかそれっぽいじゃんという水準に達しているカテゴリの少数者が世間に紹介され、そういう「マイノリティの見本帳」が皆んなにコソコソ共有されているから?

なんでそんな事するの?(なんでそんな事してるってこんなに確信的に思えるの?)

僕らは誰もが、他人を傷つけたくないから。

まだ見ぬ何者かを「予習」せねば、いざ出会った時にそいつを傷つける。
そうしたら今度は自分が吊し上げられて火炙りにされる。「弱いものをいじめた」とかなんかそういう事を言われながら?
被害者は加害者になり、加害者は被害者になり。罪と罰のバランスのむつかしさがコタツ記事になってスワイプで彼方へ飛んでいく。

他人の事を一番よく知るには(本当の意味で他人を知るなんて事は無理ですが)、本人と対話をするのが最も手っ取り早い。重さをもった当事者の言葉が、新鮮なままで自分の心に保存される。
「予習」だけして分かったつもりになっているのは、無知より知らねぇし無理解より理解できねぇ。
「知る」「分かる」ために組み立てられた世界規模の公共的構造である多様性は、矮小な動物である僕らを威圧し、危機を回避する本能を働かせて、先回りの「理解w」を脳みその小手先に取って付けさせている。皮肉なパラドックスじゃんね。

どうしようかな。スマホを閉じれば、現実の世界はそんなに優しくないみたい。

だから「優しくなくてもいい世界」にすればいいんじゃないか?
そんなに優しくされなくても、別にどうでもいい世界、日常。
いっこ自分の中に、なんか揺るがない大事なものをおっ立てて、いつもはそれに布を被せといて。
そいつが倒されなきゃ、他は別にどうでもいいって、人生諦めてるってワケじゃなくて、なんていうかこう、野面で着流しって雰囲気で。

僕がこうあるように、あなたがそうあるように、人間ってそんなに脆くはないから。

飽きたのでおわり。

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