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リアリティのパラドックス(漫画の話その他)

最近、友達の漫画家の人と電話でよく喋る。
同業者と喋るのは楽しい。ルサンチマンが刺激されて敵対心が湧くのであまり漫画家とは喋らないようにしていたけど。その人とはごく自然で話せる。
向こうもそういう気持ちで僕と喋ってくれてるといいな。

いくらかの気付き

の作品タイプには大きく2つがある。「水」とか「しはさん」とかみたいな、設定やネタの面白さで引っ張るタイプと、「失踪 再走」とか「beautiful 10」みたいな感情だけが置いてあるみたいなタイプ。
全ての自創作は、その2タイプの両極の間に伸びる直線のどこかに必ず位置付けられ、どちらに近いかでどちらかのタイプを与えられる。
どっちを描くかで脳みその使い方が変わってくる。制作の仕方もかなり変わってくる。
情報を組み込み忘れないよう留意しながら描いていく、まるで寸分狂いのないビルを作るような気持ちと。ぼんやりとしたことをぼんやりしたまま形にしていく、例えるなら今日から砂浜に住むとして、雨風を凌げるだけの小屋を建ててあとは暮らすまま、大波が来たらそれでおしまい、みたいな気持ちの違い。
どっちも楽しい。読者にウケるのは前者、自分が好きなのは後者。

代漫画は映像的表現なしでは語れない。
石ノ森章太郎の「ジュン」が最初だったのかな、ああいう漫画の先駆けは。
僕がすごく現代的だと思ったのは、高野文子先生の「棒がいっぽん」とか「黄色い本」とか。「ラッキー嬢ちゃん」もすごく映像映像してたな。
絵だけの連続で話を進めていく。それだけでは全てを伝えきれないので、文字ももちろん入れていくけど、絵の動きでの説明はあまり頭を使わずに読めるので、物語の最初とか、文字パートが続いた時に休憩用に入れたりするといいかも(当社比)。

いものを食べて口が辛くてしょうがない時は、ラーメンのスープみたいな脂っ気の強いもので口を濯ぐといいぜ。
カプサイシンは油によく溶けるからな。

説を読むというのは、暗く細い廊下を懐中電灯で足元だけ照らしながら進んでいくようなものだと思った。
漫画はもっと明るい。小さなライトでは見えなかった壁や天井の様子も照らす。映画ともなれば声と音と詳細な動きがつき、廊下の奥の奥まで太陽が暴き尽くす。
暗闇の妙が台無しである。
写真と絵画の違いにも似てるなと思った。安部公房がそんなようなことをエッセイに書いていた。
「どんなにリアルに描いたものでも、人間が描いた絵には必ず作者の『取捨選択』が反映される。写真は全てを平等に写す。」
ドライビングマップと航空写真との違いでもあるね。全てが見え尽くすということが、必ずしもいいとは限らねぇ。

最近興味があること。

ヤンガードリアス…氷河期が終わり温暖化が始まって少ししてから、また急に氷期に戻った現象のこと。大昔の地球で実際に起こっていて、原因はいまだにはっきりしていない。
名前が面白いのでいつか漫画にしたい。

宇宙輸送…SF作家の人とか、荒唐無稽の通じる宇宙工学の先生とかとお知り合いになってちょっと話してみたい。
ロケットはどのくらい揺れるの?とか、放射線の影響はどうか、軌道エレベーターは…とか。けっこう急務、新作漫画のネタにしたいから。

などなど。

リアリティのパラドックス

登場人物が情報を一人でベラベラ喋るのは不自然である。
思考しているのを覗くタイプの吹き出し(雲みたいなやつ)ならまだいいけど…一番自然な形は誰かと喋るダイアログの形。何も知らないやつに説明すれば、至って自然に読者にも説明ができる。
リアリティがないとダメだ、ちょっとでも作り物っぽくするとダメだ…という事に取り憑かれていくと、次のようなことが起こる。
「怒った」というのを表現するのに、「怒ったぞ!」と言わせるのはダサい、何か他の表現手法を…→怒っている人の後で燃えている焚き火の炎が風に吹かれて大きくなるという、自然現象を感情描写に重ねてはどうか。
ただ…それは「自然」なんだろうか?
絶望感の雨とか、不穏さの逆光とか、安寧の斜陽とか。創作の不自然さを回避するために追求した結果、却ってより不自然な演出に行き着いてはいないか…というのが、「リアリティのパラドックス」である。
まぁ、とどのつまり全て創作物なのだから、「塩梅」が大事なのだろうと思う。「今作はここまでのヤラセはOK、これ以上はダメ」といった風なケレン味のガイドラインを先に引いとけば良いわけだね。SF作品を作る時の、どこまで描くかというバランスと同じ。(ファンタジーを全部科学的に説明できるとなれば、それは現実に起こることになっちゃうから。)

以上。散文でした。

勝見 2024 0403

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