見出し画像

震災と確執 人とのつながり。大事な人とだけ繋がりたい。


東日本大威震災の際 私は自主避難か、残るかそんな自主選択を迫られる地点にいた。

そして自主避難しいないことにした。

見知らぬ誰かに責められていたり。自主避難した人を羨んだりした。自分で選択した道とはいえ。いつも頭の中で葛藤があった。

そして、この場所にいていいのか恐怖もあった。安全なんて誰もわからないから。そんな場所安全なはずじゃない。近くの地域の野菜・コメ・肉・魚は価格も下落した。みんな北海道や九州の野菜を奪うように買っていた。もちろん高かった。

なんなら、ここも安全とわかるまで強制避難地域にしてくださいと思っていたし、講演会やシンポジュウムが開催されたアンケートには、その思いを描いた。みんな帰りたがっているというが、帰ったあとの保証なんてない。でも、帰る人を否定もしない。でも、私のような考えの人もいるのだと。

そんな声は誰にも届いていなのかもしれない。

復興ガンバレ。って言われても。何しても叩かれる。心が荒んで 周りの人間が恐ろしかった。綺麗ごとじゃなく暴言も吐かれたし。困っていなくても支援物資をもらいに行く人も多かった。タダでもらえたよ!あんたもらってないの損したね。と言われても。私にはそれらが必要ではなかったから。必要な人に届けばいいなとぼんやり考えていた。

実際テレビでの美談では、語られないことも多くある。詐欺や泥棒なんて沢山あった。解決されない事件は多い。実際 食料不足の時にリヤカーを引いた老人が豆腐やパンを高額で売りに来たこともある。遠い市からやってきたというには、寒空の下にジャンパーは寒そうで。そして、とても怪しい風貌である。そんな行商屋さんが来た。


震災後何年かして、我が家に勧誘が来た。若い男の子でスーツにスニーカーを履いていた。断っても。帰ってくれなかった。よく話も聞かずに玄関を開けてしまった私が悪いのかと思った。あまりにも断った私にその青年は言った「僕、岩手県から来ているんですよ。陸前高田市から来ているんですよね。ここの地域まで遠いんですよ。次はここは周らないかもしれないだからね・・・」青年は、にこにこした顔で話を続けた。。衝撃を受けた。それが本当か噓かもわからないが。

それを勧誘の時に話してこの人は、私のなかで怒りと悲しみが襲った。静かな声で伝えた

「震災の時、被害が大きかった地域ですよね。勧誘の時にそういうのは、言わない方がいいです。」

青年は「へー。そうですか?」軽く流した。何事もないように同じテンポで話し続けた。

私の脳裏には、あの日の光景と。探した記憶。亡くなった方。恐怖と悲しみの波が襲ってきていたのに。軽く流したり 話したり出来ない。忘れようとも忘れられない。

悲しいなと思った。嘘や誠。真実がいつも正しいわけではない。騙した先に得られるものはなんだろう。

10年たって賠償金の金額での格差でのトラブルや離縁が確執があるのが今も続く内情である。

避難した場所で定住してる方と話した

10年たつ。あっちの生活は良かった。戻りたいな。そう言う。しかし、彼も私も知っている今の現場を知っている。ゴーストタウンになっている今は懐かしきあの場所は今は戻れない場所。鉄パイプとコンクリートで閉鎖されたあの場所を。

これを書いている時に震度5の地震が来た。今回はいまの所大丈夫だ。なんて偶然だろう。

 


#それぞれの10年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?