上司の機嫌

先週、上司の機嫌が良かった。外回りで一緒になればすっごい話しかけてくるし、ずっと鼻歌歌ってた。パイレーツオブカリビアンのテーマソングとか歌ってた。
対して今週はとても機嫌が悪そうだ。まだ月曜日だからわからないけど、パソコンに向かってキレ散らかし、資料に向かってキレ散らかし、プリンターに向かってキレ散らかしていた。

俺はそんな上司の直属の部下なので会社での大半はその上司と一緒になる。しんどい。息が詰まる。散々ノンデリと言われ続けた俺にとって、上司の機嫌を損なうことはあっても良くすることは不可能なのだ。でも話しかけなければならない。せめてまだ機嫌がマシな時に話しかけなければと思うけど、今日はずっと機嫌が悪かったから全然話しかけられなかった。

気分というのは本当に曖昧なもので、些細なことで上下する。寝る前に嫌なことがあったとか、見下してたやつに一杯食わされた時とか、訴訟したら逆に負けた時とか。生きてたら良いことと同じくらい嫌なことがある。そして良いことはすぐ忘れるが嫌なことはなかなか忘れることはできない。と、思う。

なぜ「思う」と表現したのかというと、俺は悪いこともすぐに忘れちゃうからだ。
ふとした時に思い出すけど、それだけ。あまり記憶による気分の浮き沈みが無い。リアルタイムで怒ったりすることはめっちゃある。でもそれも1日経っちゃえば忘れちゃう。

怒り、荒れ狂う上司を見て、どうして自分は怒りが持続しないなだろうと考えてみると、1つ、しっくりくる概念があった。とあるブロガーが話していたものである。

「自分の人生が他人事である」

そのブロガーの細かい言い回しは忘れたが、要するに、自分が生きてるこの世界に現実味をあまり感じないということだ。
モンハンでハンターを動かしている感じと似ている。モンスターの攻撃はおっかないし、回復アイテムを使えば安心するけど、実際は攻撃は痛く無いし、アイテムでは癒されない。
そう言った具合に何か嫌なことがあっても、「お、なんか俺が嫌な目にあってる」と思うだけで、パラメーターとして心のダメージはあるものの、どこか他人事に感じるのだ。

ということは、あの森羅万象に憎悪する上司は自分の人生や行動に責任感があり、感じたもの全てを享受していて、本来の人間としての生き方を全うしていると言っても過言ではないのではないだろうか。
人間は社会的動物で、コミュニティを作り、それを維持しないと生きていけないとされているが、あの上司の生き方というのは動物というカテゴリで括る前に、生物として正直な生き方なのではないだろうか。
それに対して自分は何事にも責任感がないために、遂に自分の人生、自分だけが操縦できるおもちゃにさえオートモードをつけてしまった、精神的に未熟な存在なのではないだろうかと思った。

ただ怒っている上司に怖がるのではなく、少し違った視点から見て、なぜ怒るのか、怒ったらどうなるのかを考えてみると、一見、いっつもぷりぷりとしている嫌な人でも、素晴らしく見えてくるなと思った。

早く俺の考え方に「厨二病乙」と喝を入れてくれる人に出会い、俺も俺の人生を生きて行きたいと思うことはなく、ただただ不快でしかない、マイナスの感情をあたり一面に撒き散らすゴミみたいな上司の掃除を、誰かやってくれないかなあと思った。

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