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“あそんでくれてありがとう” - 2

(Part1の続き)

かくして、僕は志賀直哉を文壇のスターに押し上げた傑作、『小僧の神様』に再び手を伸ばした。


あらすじはこんな感じ。

ある日、秤屋の見習い小僧・仙吉は番頭達が話している寿司というものを口にしてみたくなり、帰りの電車賃を浮かせて屋台の寿司屋に立ち寄った。

一貫の鮪に手を伸ばすと、屋台の店主はこう言った。
「1つ6銭だよ。」

ポケットには4銭しか入っておらず、仙吉は気落ちして店を後にする。

この一部始終を見ていた貴族院議員のAは、仙吉を哀れみ、腹一杯の寿司を食べさせてやりたいと思ったが、その場で奢ろうと声を掛ける勇気がなかった。

後日、Aが妻子のために秤を買いにでかけると、店には仙吉がいた。

今度こそはと考えたAは、口実をつけて仙吉を寿司屋に連れ出し、身分も素性も隠したまま店主と女将に話をつけ、仙吉に「好きなだけ食べなさい」と言い残して帰ってしまう。

仙吉は、腹一杯になるまで寿司を食べた。
帰り際「まだあの人から預かった代金は沢山残っているから、必ずまた食べにおいで」と言われるが、Aを神様のようだと敬い畏れた仙吉は二度と寿司屋に行くことはなかった。

仙吉は、それから辛く、心細い時にはAのことを思い出すようになった。

一方のAはというと、人を喜ばせるという善行を施したはずなのに、まるで悪事を働いたかのような後味の悪さを覚え、“変に淋しい気持ち”を抱く。

、、

この後、小説の末文に作者・志賀直哉自身が登場し、奇妙な一文を記して物語は突如終わりを迎える。
(十数ページの短編なので、もし関心を抱けば調べてみてほしい。恐らくネットに文章が落ちている気もする。)


小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫) https://www.amazon.co.jp/dp/4101030057/ref=cm_sw_r_cp_api_glt_i_NJPM262ZANSZF1EYMCGG


、、、

話を戻そう。
前回綴ったとおり、僕はこの小説を読んで、「ありがとう」という言葉がもたらす負の効果や、純粋に人を喜ばせるという行為の難しさについて考えた。


しかし、何故Aはこのような気持ちになったのか。

Aのとった行動自体には、
見たところ非の打ち所がないように思える。
・心痛める出来事に登場した少年の姿を覚えていた
・施しを受ける仙吉の尊厳を守り、自身は店を後にした
・素性を隠し、政治家としての看板を売ることも避けた

ただの超素敵なおじさまだ。
祇園や木屋町を歩いていると、これとは全く逆のジッジやニキの多いこと多いこと。

とすれば、Aの抱いた、悪事を働いたかのような妙な違和感は、行動ではなく動機や心情の機微の方に原因がある気がする。

、、、

思い出してほしい。

Aは屋台で気落ちする仙吉を哀れんだものの、その場では勇気がなく、何もすることができなかった。
そして、後になってから仙吉に寿司をご馳走した。

つまり、Aは初め仙吉を見て可哀想だなと思いはしたものの、自然に体が動くほど純粋な慈愛精神の支配を受けたわけではない。そして、後日自分の中で勝手に膨張した哀れみの感情が、仙吉に施しを与えさせたのだ。

この部分こそ、“変に淋しい気持ち”の根源なのではないだろうか。


、、、

一般的に、人から何か恵んでもらう時には3つのパターンがある。

1:少なくとも本人にすぐ直接的には恵みを返せないとき
2:割とすぐ本人にほぼ同等の恵みを返せるとき
3:ただ奪うだけのとき

「恩送り」という言葉に触れてみたり、微笑ましい親子の姿から想像してみたりすると、お返しを求めない1のパターンこそ一見最も美しい利他の形であるように思える。

しかし、この1のパターンこそ、真の意味で利他を成立させることがとても難しい領域にある。

こうした一方的な恵み(そしてその根源にある哀れみ)の形は、「あの方には恩があるからな...」とか「色々してもらってるし思ったこと素直に言えないな...」といった権力関係の萌芽になりうるからだ。

、、

作中において、Aはまさしく仙吉からのお返しを一切期待していない。一方、仙吉はAの行動を神様のお恵みだとさえ考えるようになる。

さらに、Aはこの一連の施しを、純粋に衝動的に感情に突き動かされて行ったわけではない。ただ、哀れみの気持ちが膨らみ、自分の中でモヤモヤしたから恵んでやったという方が近いだろう。

つまり、Aは「そうするのが自然だ!」という純粋な衝動に駆られたわけでもなく、1人でに育った哀れみから仙吉に権力関係を押し付けてしまった。

これこそ、Aがまるで悪事を働いたかのような“変に淋しい気持ち”を抱いた理由であろう。

、、、

翻って、「ありがとう」という言葉には、常にこの権力関係を生むリスクが内在しているように思える。

幼少期、友人の言っていた“あそんでくれてありがとう”に抱いた違和感もこのリスクから生まれたのだろう。

僕はただ純粋に彼と遊びたかったから、一緒に時間を過ごしていただけで、彼のために無理に遊び相手になってやっていたわけではない。
(例のモンテネグロのブラザーもそう思ってたんだろうな。デゾレ、ムッシュー。)


時折僕は「いやそんなお礼なんていらないよ。」と口にすることもある。その時の僕は、きまって相手に何かを与えることが、自分にとって自然な現象だと捉えている。

だからこそ、当然のことをさせてもらったまでだし、そんな謙って感謝しないでよ!と思うのだろう。

余談になるが、『動物記』を著したシートンは、成人後お金にがめつい父親に対し、これまで自分にかかった養育費を全額支払い、親子の縁を切ったらしい。

今回の仙吉の物語や、シートンのエピソードはやや極端な例ではある。

そして素直に「ありがとう」と言えること、それ自体は素敵なことだ。

しかし、過剰な感謝や身勝手な哀れみからくる一方的な利他心は、かえって人間関係に権力差を生み出したり、なんとなく申し訳なくて関わり辛いという感情を芽生えさせたりすることもある。

人によってこの現象に対する意識の強弱は違う。

「ありがとう」は人と人をつなぐ魔法のコトバである一方、人間同士に緊張感や差を生み出す劇薬なのかもしれない。


だからこそ、僕は「ありがとう」の用法と容量を上手く扱えるようになりたい。

そして、“あそんでくれてありがとう”と連呼していた当時の彼に、加えて今後現れる新たな“彼”にも、「僕は君と遊びたいから遊んでるだけ!毎日お礼してくれなくても明日も遊びたい!」と言えるようになりたい。


Fin.

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