祀りの夜
玉音放送はよく聴きとれた。
今考えると不思議な気もする。
総勢数十名の隊員が、かつて教員室だった広い部屋で聴いた。
そこは、かつて小学校だったものを軍が借り上げた兵舎だった。
ラジオの性能もよくなかったはずだし、兵舎の立地から言っても電波事情は悪かったはずだ。
だが、よく聴きとれた。よくわかった。
なぜか、格別な感動とか、衝撃とかはなかった。
放送の後で部隊長が説明をしたが、要は、戦争は終わったのだと言った。
部隊長の説明など要らないほど、ぼくらは戦争が終わったという事実ははっきりと理解できた。
要は、戦争は終わったのだ。そういうことか。
ぼくの気分もその程度だった。
実感、はっきりした現実味(リアリティ)がなかったからかもしれない。戦争という事態の中にあったという現実味も、終わったという現実味も。
終わったという言葉と、終わったのだという現実がうまく噛み合わなかったような気がする。
戦争自体が奇妙な実感の中にあった。
まぎれもない現実ではあった。
友人が順に戦地に赴き、幾人かは死んでいった。
空襲もあった。
厳しい食料事情のなかで社会は荒廃していた。
中学でも、いつのころからか授業はなくなり、食料生産に明け暮れていた。ぼくらは学校で大きなキャベツをつくっていたのだ。
まちがいなく戦争の実感はあったはずだ。だが、ゆきつく先がひどく曖昧だった。負けるという気持ちはしなかった。勝つのだという言葉が明確に頭の中で繰り返されていた。だが、勝てそうな気もしない。とにかく非常時が続いている。そんな戦争だった。
終わったらどうなるのかとか、どういう終わりかたをするのかなんて、誰にも見えなかったはずだ。
本当に終わったのだという思いと、これまでと、これからが重くのしかかってきたのはもっと後だ。その意味では、玉音放送自体はぼくに本当の終戦を告げ知らすものではなかった。
志願して陸軍に入隊してから二年、いや足掛け三年が経とうとしていた。入隊したのが十四歳。この日、玉音放送を聞いたぼくは十六歳だった。
志願の動機は単純だ。
此処ではない何処かへ。それが動機だ。
飯が食えるから。他人にやっかいになったり、いやな仕打ちを受けたり、惨めな気持ちになったりしなくても、何とか一人で生きて行けるところだから。
家が零落していたことと、食糧事情の酷さもあって、ぼくは口減らしを兼ねて親戚の家に預けられ、そこから中学に通った。疎開ということだったが、親戚からすればお荷物だったろう。
米は無いというので、ぼくは毎日、臼で麦を挽かされた。ぼくにまわってくるのは挽いたあとに残った麦殻を練ったすいとんだった。ぼくはいつも腹を空かしていた。時に他家の畑から芋や砂糖黍を盗んで空腹をしのいだことだってあった。ある日、学友がチョコレートをひとかけ持っていたので、どこから手に入れたのかと聞いた。配給だと云う。時折、菓子なども子どものいる家には配給されることがあるのだと云う。ぼくは疎開してきてから一度もそんなものにお目にかかったことはなかった。親戚の家にはぼくと同じ年頃の子供がいた。配給菓子は全て彼の方にまわされたのだ。
こんなこともあった。
学校で泊り込みの合宿をやるという。先生が各家にこれだけの米が配給されているはずだから、各自の分として米を二日分もって来いという。米は配給されてないと聞いていたので驚いた。帰宅してから先生の指示を伝え、配給されたぼくの分の米があるはずだと言ったら米が出てきた。しぶしぶ出してきたのだ。こんなに米があったのかと驚いた。合宿では腹いっぱい飯が食えた。情けなくて泣けた。
だから、ぼくは逃げ出したのだ。軍隊に。
逃げるために志願したのだ。
とにかく、此処ではない何処かへ行きたかった。ただ、それだけだった。
入隊の日のことはよく憶えている。
ぼくは小柄でひどく痩せていた上に、栄養失調でたびたび目眩に襲われるありさまだったが合格し、その日、ぼくは入隊のために停留所でバスを待っていた。通りがかりの老婆が、どこへ行くのかと訊いた。入隊するのだと答えると、老婆は、――こんな子供が――と涙を流しながら、見も知らないぼくに餞別をくれた。財布から手持ちの小金を出して恵んでくれたのだ。
入隊してほどなく、福岡の部隊に配属された。
ぼくは、軍が小学校の校舎を借り上げた兵舎に暮らし、そこで訓練をうけた。
特攻隊だった。
真珠湾攻撃から二年にして、入隊間もない若者を特攻隊に送り込むほど、戦局は早々と悪化していたのだ。
特攻隊というと航空隊のそれを思い浮かべるかもしれないが、ぼくが配属になったのは爆薬をつんだボートで敵艦船に近づき、船腹にこれを仕掛けて逃げるというやつだ。
特攻艇を見せられ、説明を受けた後で乗ってみて驚いた。ベニヤ板一枚で、踏むとたわんだ。乱暴に乗ったら穴があくだろう。これは艇ではない。筏(いかだ)だ。それも粗悪なベニヤ板に小さなエンジンを取り付けただけの筏だ。
それ以上に、こんな筏で接近できるほどの近海に敵船がいるのだという事実におどろいたことを憶えている。
勝てそうな気がしない戦争だった。でも、負けるという実感もなかった。勝つとか負けるとか、そんなこともどうでもいい、どこか余所の世界の……いや、今居る此処が、どこか余所の世界だった。
特攻というが、計算上は逃げ帰れるように設計されていると説明された。実験も見せられた。無人の実験艇を走らせながら、これが爆薬を仕掛けた地点を通過した瞬間に遠隔操作で点火する。数秒後に爆薬が爆発する。何とかギリギリで実験艇は爆発圏外に逃げたものの無人の筏は波にもまれてバラバラになってしまった。説明した教官は、訓練どおりにきちんとやれば帰還できると言った。本番では人が乗っているし、兵は泳げる。
しかし、この実験がまやかしであることは誰の目にも明らかだった。艇は全速力で走行しながら爆薬を仕掛けるのではない。敵船腹に近づき、停止した状態で爆薬を仕掛け、それからエンジンをかけて逃げるのだ。その間に敵の銃撃もあるだろう。それに兵と爆薬が乗れば実験のように速くは走れないのだ。二度目の実験ではベニヤの筏は爆発に巻き込まれて、文字どおり木っ端微塵になってしまった。この後、作戦は順次実行にうつされたが、帰還した者はひとりも居なかった。
当初は、この無謀な作戦も成果を挙げた。しかしすぐに効き目はなくなった。敵が停泊中の艦隊の周囲に材木を撒いたのだ。材木に阻まれるほどひ弱な特攻艇だったのだ。そして、出撃していった隊員たちは敵艦船に近づけないまま銃撃を受けて死んでいった。
それでも作戦は続行された。友人たちが順に出撃していった。いずれはぼくも行く。効き目がないとわかっている作戦でも、十代の少年たちは淡々と死に赴いていったのだ。頭の良いのもいた。いろいろと難しいことを教えてくれた。機械に詳しく、教官がてこずっていたエンジンをあっというまに修理してしまうようなやつもいた。夜、絵や音楽の話しをしてくれた者もある。ぼくの知らない異国の小説や詩について教えてくれた者、星や気象のことに詳しい者もいた。
玉音放送の日、ぼくは十六歳で、下士官――特別幹部候補生兵長なるものになっていた。残り数班。ぼくの番ももうすぐだったはずだ。
放送の後、ぼくらはそれぞれの部屋に戻って漫然と時を過ごした。どうすればよいか、命令も指示もなかった。待機するしかない。
戦争は終わった。でも、終わるとはどういうことなのか。ぼくら兵はどうなるのか。どうするのか。
何もわからなかった。除隊になって帰るのだろうか。何処へ。
誰が除隊させるのか。誰が軍を仕切るのか。
勝者である敵は、どこから来て何をするのか。
終わったというのはわかるが、負けたという実感がまだ不足していた。
負けるとどうなるのか。誰が何をするのか。誰がどうなるのか。
漠然とではあるが徐々に、何もわからないということがわかってきた。
やがて日が暮れた。
九州の夏の夜は蒸し暑かった。昨日までより蒸した。寝付かれなかった。
深夜、兵舎の外で奇妙な声がした。
誰かが何か怒鳴っているのか。
いや、泣いているのか。
笑っているようにも聞こえた。
気味が悪くなった。
正体を確かめたくて外へ出た。
兵舎の南、かつて学校の運動場だった広場の中央に、声の主は居た。
満点の夏の星空に向かって何かをおらんでいる。
夏の星座がはっきりとみえる。降るような星空。天の川も見える。
星々のことを教えてくれた友はつい数日前の出撃で散った。
誰だろう。何を言っているのか。大きな声で何かを滔々としゃべっているのだが。
まるで聴きとれなかった。
隣の班の班長だった。
衝かれたように星空に向かって何かしゃべっているのだ。
狂ったのか。戦争が終わったことが何か彼の心を乱したのか。
いつのまにか、ぼくの班の班長が隣に立っていた。
あれは朝鮮語だよ。彼は朝鮮人なんだ。
終わったから、隠す必要もなくなったから、誰はばかることなく、ああして母国語で叫んでいるのだ。
俺も朝鮮語は知らんから、何をしゃべっているのかは知らんが、何でもよいのだろう。
何でもかんでも、今まで使えなかった自分の言葉を、ああして発し続けているのだ。
終わったな。負けたんだ。おれたちは。
終わった、終わったのだといいながら班長は兵舎にもどっていった。
ぼくはなんだか戻れなかった。いつ果てるとも知れないことばの祀りを聴き続けた。
彼のことばはまったく聴きとれなかったが、ひどくリアルだった。
戦争は終わった。ぼくらは負けた。何かがはっきりと変る。新しい何かが始まる。そのことがひどく現実味(リアリティ)をもって迫ってきた。
怖い。
突然、怖いという感情が生じた。何が怖いのか。
明日、死ぬかもしれないという日々の中で、一度も感じたことがなかった、すっかり忘れていた感情。
怖い。
本当に戦争は終わったのだ。これまでの十数年と、何も見えてこないこれからがのしかかってきた。ひどく不安になった。
そして、これから何とかして生きてゆかねばならぬ。どうやって生きてゆくか。
生々しい欲求やひどくリアルな不安が身体に染みてくる気がした。
突然、現実というものが姿を顕し、それに立ち向かわざるをえない。
生々しい昂ぶりだった。
満点の星空に、聴きとれないけれど毅(つよ)いことばたちが吸い込まれてゆく。
祀りはまだまだ終わりそうにない。
ことばたちは大空にひろがり、煌々とかがやく月にぶつかり、星々になって天にはりつく。
ことばだった星々が見下ろす乾いた大地に立って、
ぼくはいつまでも祀りをながめていた。
(2017年8月15日、昨年の夏に他界した父に捧げる。)
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