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さきたま古墳群と巨大古墳の謎

埼玉県行田市に日本最大級の古墳群がある。さきたま古墳群という。

さきたまマップ

2019年5月、私は家事や子育て、雑事の合間を縫って、埼玉県にある国内最大級のさきたま古墳群を訪れた。
単純に、私は古墳を見るのが好きだ。なぜ好きか?と問われれば、返答に窮する。敢えて答えるとすれば、日本人のDNAを呼び覚ますからだろう。

今日は、この古墳群の意義について書いてみたい。


【百舌鳥古墳群との関連】


関東平野の最大級古墳群がさきたま古墳群であるなら、関西平野の最大級古墳群は大阪府堺市に存在する百舌鳥(もず)古墳群である。

この両者の古墳群の関係は?といえば、並列の関係でない。いわば親子関係といえる。

「親」は百舌鳥古墳群である。
百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵をご存知だろうか?
全長525メートルの国内最大の前方後円墳。

2020年の12月に私は仁徳天皇陵を訪れた。その時の写真がこちら。

仁徳天皇陵

  正面の参拝所から ↑

仁徳天皇堀

外側の周濠 ↑


この写真を見ても、全く古墳の全貌が見えない‥‥。それが全長500メートル越えの古墳の恐ろしさといえる。

仁徳地図

観光用の地図でやっと形を確認できた(^^;) ↑

前方後円墳の始まりは、近畿地方で、その一大完成形が仁徳天皇陵である。仁徳天皇とは、近畿に興ったヤマト政権の首長で、第16代天皇と伝えられている。(ちなみにこの時代、天皇という称号はなく、大王と呼ばれた。)

そのヤマト政権の大王の傘下に組み込まれたという証が、全国に散らばる前方後円墳の形である。

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愛宕山古墳。典型的な前方後円墳 ↑ 

さきたま古墳群はそのヤマト政権傘下に組み込まれた関東勢力なのである。
そういう意味で、「親子関係」と評した。


【さきたま古墳群探検!】

さきたま古墳群は全国でも珍しい、古墳公園になっていて、散策が自由にできる。
それでは行ってみよう!

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少し歩けば、古墳にあたる。

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 古墳発見! ↑

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古墳に登ることも可能  ↑ 古墳に登り、下界を見渡すのも楽しい。

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古墳の頂上 ↑

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見晴らし最高! ↑

さきたま古墳群は5世紀後半~7世紀に及ぶ、古墳築造の遺跡と考えられている。5世紀という時代は、ヤマト王権が地方支配を目指し、ある程度の到達点まで及んだ時代である。
言い換えれば、「5世紀」は日本誕生の世紀なのだ。


【さきたま古墳群稲荷山古墳出土の金象嵌鉄剣銘】

教科書に載っているあの鉄剣ご存知だろうか?
実はこの古墳群の「稲荷山古墳」より出土している。

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この鉄剣が出土したことで、稲荷山古墳は超有名になった ↑

「稲荷山古墳出土鉄剣」より、銘文を引用する。
(表)
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
(裏)
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
この漢文だらけの銘文を読むと、
「ヲワケという人物が、代々、軍事を司る家の長であった。彼がワカタケル大王(雄略天皇)がしきの宮にいたときに、大王を助け、その時にこの刀を作らせて、大王の側に仕えていたことの証明とした。」         と解釈できる。

もっと易しく言い換えるならば、
「私、ヲワケはワカタケル大王に仕えて、軍事を行いました。すごいでしょ。」
という自慢めいた意味を含んでいる。

・・・・自分の権威を証明した剣なのだ。
そのうえで全長100メートルのこの前方後円墳に葬られているのがこのヲワケさんという可能性は高い。

ワカタケル大王だが、『古事記』にでてくる大長谷若建命(おおはつせわかたけるのみこと)がワカタケル大王に比定でき、21代雄略天皇の名前である。
ワカタケル大王の本拠地は奈良県の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)とされるが、この鉄剣の発見によって、ヤマト政権の勢力が遠く、関東平野にも及んでいた、という証拠になる。


【古墳から見えるもの】

古代の墓、古墳は首長級のものになればなるほど、巨大さが目をひく。

どうして大きな古墳を作りたかったのか?
それは明白である。

大王家そのものが、ヤマトの国に実質的な支配権を持っていなかった。
そのため、「われこそが大王」「われこそが支配者」ということを主張するために巨大墳墓は造営された。

そして、権力を象徴する、誰にも真似できないランドマークが必要な時代だったのだ。そして、そのランドマークは5世紀を境に全国に波及していった。

言い換えれば、仁徳天皇陵の造営された5世紀は、準統一国家、ヤマトの国が産声をあげた世紀なのである。
そんな目で、5世紀後半に成った、さきたま古墳群を訪れてみると、また楽しいかもしれない。

『万葉集』の伝雄略天皇歌

『万葉集』の巻一を紐解いてみる。
記念すべき、1番歌はワカタケル大王・雄略天皇の歌とされる。ただし、実際は本人が詠んだ歌というよりも、他人が雄略天皇の歌として詠んだのではないか、という見方があるが、それはここでは問題にするのはやめておく。


篭(こ)もよ み篭(こ)持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串(ふくし)持ち
この岡に 菜摘ます子 家聞かな 告らさね
そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ
しきなべて 我れこそ座せ 我れこそば 告らめ 家をも名をも

☆訳
美しい籠を持って、箆を持った 
この岡で菜摘をしている美しいお嬢さん
家はどちらか、名前をおしえてほしい

大和の国は私が統治しているのだ
わたしこそが王として存在している
私こそが君臨した主なのだ
私が明かそう 家も名も

※この時代女性に名前を尋ねるのは求婚を意味した。


さて、ワカタケル大王(雄略)は仁徳天皇陵の被葬者である大雀命(おほさざきのみこと・仁徳天皇の名前)の孫にあたる。
ちょうど、ヤマト政権の全国支配が始まった時代の人物である。
つまり、ヤマトの国(日本の原型)の象徴として彼の歌が選ばれて『万葉集』の巻一・1番歌に置かれたのだろう。


【歴史をふりかえる】

今日、私は自分の履歴書を書いていた。
高校卒業から、今日に至るまで決して短くない自分の歴史が凝縮されたのが履歴書である。
もしかしたら、人がみたら、無味乾燥な言葉の羅列かもしれない。けれども、私が振り返ると、○○卒業という簡単な言葉の裏には、自分の悩みや苦しみ、そして楽しいこと嬉しかったことが隠されている。


「古墳を観察する」「歴史を振り返る」ということは、実は日本という国の履歴書を眺めるようなものだ。                    大地に刻まれたランドマークの巨大古墳は人によって解釈が異なるけれども。

そのランドマークには古代を生きた人の悩み、苦しみ、そして嬉しいこと、幸せに感じること、全て内包している。
・・・・・問題は、それに気付けるかどうかだ。
そこに歴史を振り返る楽しさがある。


生きることは大変なことである。
時代の荒波にもまれることもある。
前を向くのが疲れることもあるだろう。

そんなとき、後ろを振り返ってもよい。
自分の生きた足跡でも良いし、古代の人が生きた痕跡を訪ねてもいいだろう。

古代の古墳の頂上に立ち、下界を眺めるとき、
古代の風を感じ、
古代人の苦労や喜び、                        そして、声を聴いてみてもいいだろう。

「私たちは生き抜いた。だからあなたも生き抜きなさい」
こんな言葉かもしれない。

感じ方はあなた次第だ。


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