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静謐なミルフィーユを苦楽園で|甘賞録

『あまおう苺タップリのミルフィーユ』

西宮市

何がすごいのか理解できなかった。

もったりとした濃厚なカスタードクリーム、バニラの甘い香り、甲高い音を立てて砕ける硬質なパイ、そしてみずみずしく溢れ出し、カスタードの上を流れ、パイに吸われていくイチゴの果汁、を、予期していた。
しかし、それらのどれもが、無かった。

ふたくち目に、ようやくその「無さ」が「調和」だと分かった。
自家製だというパイ生地は、精緻に組み上がったジグソーパズルが崩れ、ほどけるような食感。折れたり砕けたりするような堅固なタイプではなく、舌で押し込むだけで小さなかけらへと瓦解し、待ち受けるカスタードクリームにうずまっていく。私の予期とそれに基づくひとくち目の賞味は、このほどけていくプロセスを捉えられず、ただ結果として舌の上にある渾然を、為す術もなく飲み込むことしかできなかった。

ひとくち目で衝撃的なSensationに打たれるミルフィーユではなかった。おそらくそれは、このミルフィーユの構成が私の賞味能力の限界を超えていたからだと思うし、そうしたイニシャルインパクトを意図したデザートではないようにも思えた。インパクトは、出てきた瞬間の皿を埋め尽くすいちごの映像だけで十分に得られている。
だが食べ進めるうちに、初めにはぼんやりとしか見えていなかった渾然の正体に少しずつ理解が及びはじめた。

ミルフィーユの定義を覆すように横に横にと並べられたクリームとパイ、その一組をフォークですくうと、オートマティックにいちごが載り、ひとくち分が完成する。
クチポールのなめらかなフォークで口に運び、唇を結び、舌と歯でパイ生地をカスタードクリームに押し当てる。自分が何をしているかの意識が及ぶのはそこまでだ。僕はパイを噛んでいない。何かに導かれるようにパイを縛っていた糸がほどけ、屑くずに拡がり、その拍子に、舌はクリームの滑らかさに包まれている。
いちごは何をしている? 果汁がクリームの脂肪分と分離して上っ面を流れるような、あの冷たい感覚がない。
だが、いちごはその存在を確かに訴えている。繊維質の食感と、爽やかな酸味を確かに舌先にもたらしてはいるが、しかし綿密にコントロールされた果汁は分離するのではなく「いちごのカスタードクリーム」といった趣きでパイやクリームと融けあっている。


おそらくこのミルフィーユは、左から順に食べることが想定されている。
その証拠に、端にあるクリームが、右端には存在しない。

大皿とミルフィーユの上には、いちごが無作為に散りばめられている。
しかしそれは無作為などではない。トップにはミルフィーユとクリームの層と同じ数のいちごが載せられている。フォークを持つ者は自動的に――認知科学的にいうとアフォーダンスに沿って――パイとクリーム、ひと欠片のいちごという意図された姿を作りだし、口の中に運んでしまう。全てはパティシエの計算と作為の手の内だ。いちごのカッティングのサイズが口の中でパイの崩れる速度に完全に調和していることなど、指摘するのも野暮である。このいちごは、脱力された、究極の作為だ。


『あまおう苺タップリのミルフィーユ』は、ひとすくい、ひとすくいの反復で時間が流れる。一貫の握り寿司のように、ひとすくいに凝縮した充実がある。後半に飽きるほど分かりやすい味ではない。おしゃべりしながら味わえるほど、はっきりした姿をしていない。その分、謎を解くように、君は誰なんだと話しかけるようにして食べれば、右端にたどり着く頃にその秘密を打ち明けてくれる。とても静かで、思索的なデザートだと思った。


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