『その会場にいて、一所にそのコンサートを作ったという歓びが湧いてくる』ということについて

これも簡単なコメントを書くつもりで書いていたら、ちょっと字数が多くなったので、noteとして投稿することにします。

『能動的に』というか直接的に『コンサートに関わることはできない(咳払いはできる)』ということは、もちろんそのとおりでよく分かります。それでも、『その会場にいて、一所にそのコンサートを作ったという歓びが湧いてくる』と言うのは(僕の体験とは異なるけれど)、やっぱりあり得るような気がするのです。

たとえば、サッカーや野球の試合後のインタビューで、よく言われる『サポーターのおかげです』とか『お客さんの声援が力になりました』というようなことが(本当だとすれば)、これに似ているのかもしれません。

とすれば、僕が反応した言葉の前にあった『その会場にいて』ということこそが重要だったのだ、と思い直した。

小さなジャズクラブでのジャズの演奏では、聴衆の関わり方(ノリの具合)で演奏の質が変わるということがあるのではないか。耳の肥えたお客が喜べば、演奏者は自然と力が入り、演奏全体が変わることがあるのでは、と思うのです。とくに小さな編成のグループでの演奏においては。

クラシック音楽の演奏会では、こうしたことは比較的起こりにくいのかもしれない。演奏者の前には、楽譜が存在し指揮者いるから。それでも、観客が演奏者に対する影響がないわけではないだろうと思う(トリオやカルテットではとくに)。そして、ただそこで演奏を聴いたというのとは違う、また(どんなに真摯に聴いたとしても)CDやレコードを聴くのとは明らかに異なる、(指揮者を含めた)演奏者と聴き手の関係があり得るのではと思うのです。

それは「共有」という感覚ではないか。直接「恊働」することはもちろんできないけれど、その時の喜びや感動(演奏したり、喜んでもらえたり、喜んだり、感謝したり、讃えたりという双方向のもの)、あるいはその「時」と「空間」を共有するということを言いたいのですが。たぶん、これは受け身でいるだけではきっと得られないことのような気がするのです。これが欲しいと思って絵を観る時と自分の生活とは切り離してただ観た時が違うように。

なかなかうまく言い表すことができません(でも、言わないと始まらない)。(F)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?