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葬列#4【小説】

その日の新大久保はストラトキャスターの似合うご機嫌な春でした。女の子たちはみんなミニスカート軽やかに街を行きます。どこもかしこも甘くおいしそうなピンクで埋め尽くされていて、そんな世界の片隅で私は道端の花壇に腰かけてつつじの蜜を吸っていました。
 私は先ほど友人に撒かれました。友人はきらきらの憧れを持って常に生きていました。私は友人のきらきらの憧れを否定することも肯定することもなく、ただただそのきらきらの憧れの断片を油で揚げ、ハニーマスタードや甘辛い蜜に浸したものを、きらきらの憧れと同じくきらきらに光る鉄の箸を操り噛み砕いており、友人といえばきらきらの憧れのためにきらきらの憧れ揚げには手を付けず、きらきらの憧れの炭酸の泡を弄びながら、きらきらの憧れについて唱えていました。私はそんな友人に憧れて、未来を見据えるための薄い前髪や少しだけくすんだビーズのヘアゴムで髪を結び、それでもしかし、端末にはここへ来るまでに聴いていたエンドレスサマーヌードを忘れずにいました。友人はそんな私を糾弾し始めました。

たった4本のか細い鉄に、苦しげで美しくない声帯に、自分を委ねることは甘えである。人は汚い生物であるがそこに甘んじることなく努力をし、理想の追求を怠ること勿れ。

 私はその剣幕に、Kの姿を思い浮かべました。彼女の鮮血と墓標を思い描いて身震いをしたのです。
 そして友人は手元の揚げ鶏肉を掴み、私の口に強引に押し込みました。

 これは理想の肉体を成す上の理想の欲求を塊にして揚げたものである。理想の肉体が理想的に躍動しその理想を作り上げる、謂わば人間という歪と理想という直線の隙間を埋めるコンクリである、セメントである。

 私は抵抗できず、されるがままに塊を頬張り続けました。赤茶色の蜜が顎や首元を汚していきます。友人も手をぐちゃぐちゃに汚して、まるで返り血のようでした。

 さあ、之を喰え。健全な肉体と健全な精神を持て。

 そんな恐れおののく私の袖を強く引く者がいます。孤独です。孤独は先ほどまで私の隣で渋い顔をしてチキンについた蜜を箸でつついて遊んでいました。私はどこか頼もしい表情をした彼女に引かれるまま、店の奥、狭いトイレへしゃがみ込みました。そしてそのまま友人の唱えたきらきらの憧れを嘔吐しました。きらきらの憧れは白く光るビーズやベビーピンクのレース、空色の健康と深紅の恋心などで形成されていて、便器の中はさながら美術室にある水道のようでした。それでも一度取り込んだものを吐き出すのはとても苦しく、私は胃液とともに低い、野獣のようなうなり声をあげていました。肺がぶるぶると振動して、何も遮らない一本のパイプを伝い、汁を垂れ流している口元から、ディスクには収録されない重低音が漏れ出て、どぶに沈んでいきます。孤独は危うく便器に飲み込まれそうになる私を強く支え、全てを委ねさせてくれます。彼女の熱い手にさすられていると気分がよく、全てが馬鹿らしくなりました。
私がトイレから戻ると、友人はいなくなっていました。仕方がないので店を出て、そこいらの花壇に腰を下ろしました。ちょうどそこにピンクの愛らしい花が咲いていたので、それを摘み取って咥えます。生命という業の、それでも一縷の希望や意義が濃縮されて美しい小瓶に納まったものを拝借して飲んでいるような、そしてそれが許されるとわかっている悪戯のような味がします。足元の蟻の行列を人差し指で丁寧につぶしていた孤独も、そんな私を見つけると真似をしてつつじの蜜を吸い始めました。彼女は不幸にも花の中に潜んでいた蟻を口にしてしまい、それをわざとらしくぺっと吐き出してはお道化てみせました。私も彼女もその時間がとっても楽しく、幸福で、うっかり端末上でしか知らない、まだ見ぬ彼に会う約束をしてしまったほどでした。


その日の中野もやはりご機嫌な陽気でした。
ロータリーの鳩は平和の象徴としての自覚を持ち、行き交う労働者は何かに従事することを生の喜びとし、選挙カーは本当に美しい社会を願っているような春でした。
 そんなプラスチックな幸福を真っ二つにする蟻の行列が私の足元を過ぎていきます。彼ら各々のDNAの梯子の一段一段に裏付けられた使命を、また彼ら自身がDNAの一端となって、長く続く行列を、果ては種そのものを形作っています。彼らの汗と涙のプロレタリアートを思うと、私は恐ろしくなりました。恒久でいつまでも近付くことのできない熱い太陽が彼らをじりじりと焼き、しかし細胞に組み込まれたシステムによって抗えない残酷な苦しみです。私は美談的にそれを眺め、やはりどこか愚かしく、同時に羨ましいとも思いました。
 私が自分自身のどこか遠くの太陽を想っているうちに、爪先のほうに大きな飴玉が運ばれて来ました。琥珀色にとろんと輝くそれを、蟻達が押しつぶされそうになりながらゆらゆらと担いでいます。私はそこに太陽の一片を見ました。あまりの高温に溶けだした一滴を、自分を犠牲にしながら大事に大事に運んでいます。
彼らはどこからそれを運んできたのでしょう。列は商店街を通り過ぎ、中学校脇の坂道を下っていきます。私は押し黙ったまま地面を睨みつけている孤独の手を取って蟻の行列を辿っていきました。私も遺伝子の一部になったように、夢中で追いかけました。
坂を下り、精神科の角を曲がって、柔らかい腹をした眠るトラ猫を100メートル追い越し、ポピーの花咲く鉢植えを飛び越えたところで、私は彼に会いました。
初めて会った彼は今しがた起きたような出で立ちでしたが、しなやかで静謐ななりをしており、咲く寸前の白百合を思わせました。

 ずっと待ってました

 彼がそう言って、私は我に返りました。そこは待ち合わせ場所である『客引きは犯罪です』の看板前で、ロータリーのすぐ近くでした。どうやら駅の周りをぐるりと廻っていたようです。しかも辺りは薄暗く、蟻の姿を隠す黒い夜がやってきていました。
私は彼から放たれる香気に言葉を発せずにいました。鼻腔からつんと吸い寄せられるような、甘美な匂いがして、自分の存在がただの虫粒ようで頼りなく、情けなく思います。まさに昼の太陽を存分に受けて、月明かりに白く浮かぶ夜の白百合のようです。
彼はそんな私を緊張していると勘違いして、空腹かどうかを尋ね、中華料理屋へ行きました。私は油まみれの床に安心して、蟻の行列についてや昼間起きたことや遺伝子や脳髄の皺などについてとめどなく話し、彼が、どれだけ待ったのかや天気や趣味や性癖について話している間、唐揚げを頬張り噛み砕いて私は幸せでした。彼が話すときに捲れる薄い唇と、唐揚げを咀嚼し柔らかく膨らむ頬と、それをゆっくり取り込む喉元の産毛のざわめき、その全てが素晴らしく、私はいつまでもそれを眺めていたい気分になりました。
私の服は初対面の男女の片割れにしては酷く汚れていたので、風呂へ入ろうと彼の家へ行きました。
そこで先程詳らかに眺めた唇に、頬に、首元に触れました。やはりどれも柔らかく日向ぼっこをする猫の腹のように穏やかでした。そして秘密事のように隠されていた肉体は若い男のそれで、平たい腹は欲望の熱を持ち、腕や足を蔦のように這う血管は青白い反対色で浮き上がり、本能に打ち震えていました。私はその赤い波に飲み込まれながら、彼の細胞の一つ一つまでをも確かめようと必死でもがき、二人とも疲れ果て、夏の恋人のように空っぽで寝ころびました。
夜風の色をした濃紺のシーツに寝そべっていると、天井から龍が下りてきました。幼い頃に見た、日光東照宮の鳴き龍が天井一面に鎮座しこちらを見下ろしています。
私は自分が祝福されているような気がして、静かに涙を流しました。
そして、常に連れ添っていたあの幼い子のことなど全く忘れていました。