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小さな親切は彼らにとって大きなお世話なのかもしれない

時々雨交じりの風が吹いて、いや寒いのなんの。それでも気を取り直して出かけてはみたものの、普段はすいている美術館にわざわざ日曜日にはいりたくはない。

まあ、ちょっとだけ買い物をして帰るか、と駅の構内を抜けてショッピングアーケードに向かったら、3人ほどの若い日本人のグループが大きなバックパックをしょって、電車のチケット販売機の前で話し込んでいる。何やら困っているらしい。

近づいて「どうしたの?」と聞くと、やはり買い方がわからないということ。どこまで行くのか聞いてから、これこれこうやって買うんですよ、と教えてあげたら、もちろんぽんとチケットが現れ、つり銭も出てきた。

「やっだー、だから言ったじゃない。やっぱりこうすればよかったんだ」
「お前だって、こうこうしたからお金もどってきちゃったじゃんかよぅ」

で、これまたお決まりのようにわたしの存在を完全に忘れている。
「それじゃ、もう大丈夫ね」と言うと、「あ、どうもー」とひとりだけがわたしに向かってささっと答え、3人の大声でのおしゃべりに戻ってしまった。

だから、嫌なのだ。

わたしはオセッカイなので、どうも外国で困っている日本人を見かけると声をかけてしまう。そして、3人のうち2人までがきちんとお礼の言葉を言わない。

「どうもありがとう」という言葉は、一体どこへ行ってしまったのか。
「どうもー」はThank youではないし、言わないよりまし、という程度の価値しかない。「どうもすいません」のほうが、まだ可愛げがある。

毎度同じような経験を今まで住んだ国々でしてきたから、今度こそ絶対助けてあげないからねっ、と固くココロに誓うのだがまたしてもやってしまった。

オセッカイは遺伝である。
煙草はもうずいぶん前に絶てたけれど、これは直らないのかもしれない。


追記:このエッセイは「コロナ以前」に書いたもので、現在ではパースで日本人旅行者を見ることはない。ずいぶんと変わってしまったものだ。

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