留年バックパッカー04

初めての国境の町「ジョホールバル」。

足を踏み入れた瞬間、ピリピリと不穏な空気を感知した。国境独特のカオス感。国と国の間、合法と非合法の間で、絶え間なく行き来する人たち。その歩みが巻き起こす砂埃の中に、いくつかの悪意が紛れ込んでいる。

こんな町は早く離れてしまいたいところだが、まずは両替である。レートは前もって調べておいた。両替商の言い値が違っていないか確かめた上で、余ったシンガポール・ドルをマレーシア・リンギット(RM)に交換する。国境での両替は、為替に慣れていないぶん、最も騙されやすい場所だとも言える。両替所でお札を数えるのも「金持ちである」と付近一帯に知らせているようで、なんとも心地悪い。確認を終えると足早に両替所から離れ、バス停を目指す。

「クアラルンプール!バス!」と、やたらめったらに聞いて回って歩いていると、いつのまにかバス停が目の前にあった。まるで遺跡で足を踏み外して転げ落ちたらそこにお目当てのお宝があったみたいな感覚だった。

五時間ぐらい乗車していただろうか。退屈なバスだったが、そう思うのは10RMボラれたからだ。1RMは30円ぐらいなので10RMは300円にあたる。うちのバスに乗らないかと話しかけてきたオッサンに「クアラルンプール行きなら30RMだ」と言われて、相場も分からないまま頷いてしまった僕だったが、発車までの間、他の乗客の様子を見ていると20RMしか払っていなかった。オッサンに文句は言ってみたものの、英語で何かを捲し立てられ、泣き寝入りしてしまった。

「自分に近づいてくる人はあやしい。もう絶対信じないぞ」

そう自分を戒めても、悔しさが抑えきれない。「くやしいくやしいくやしいくやしい……」後悔の念にがんじがらめに囚われて、それしか考えられないまま五時間が経ってしまった。「クアラルンプールに着いたぞ」と言われて降り立ったのは、何車線もある環状道路のど真ん中。横断歩道も見当たらないので、どうやって脱出したものか。大きなバックパックを背負って降車口から降りたところで立ちすくんでしまった。その瞬間、どこにいたのか、赤シャツのおじさんが話しかけてきた。

「部屋は探してないか」

「ノー」

もちろん部屋探し中ing な僕であったが、騙されまいと自分を戒めたばかり。少しばかり冷たくあしらった。赤シャツもしぶとかったが、無視を決め込んだ勢いでズンズンとバス停から離れていく。そんな僕を見て、赤シャツもあきためた様子だった。

さて、と一息ついて宿探しをはじめる。クアラルンプールもかなり暑い。バックパックを背負って長時間歩くのは、体力どころか寿命も削っている気がする。しかし、シンガポールの整然たる碁盤の目とは対照的に、この街は迷路のような小道が複雑に入り組んでいる。またしても完全に迷ってしまい途方に暮れていると、どこからかさっきの赤シャツがやってきた。

「部屋がいるんだろ?」

「僕はバックパッカーズインで泊まるって決めてるんだ」

疲れによって増幅したイライラもぶつけてしまったかもしれない。吐き捨てるように言うと、赤シャツはこう言った。

「それは俺の宿だ、いいからついて来い」

いかにもあやしい。僕はシンガポールの紀伊国屋にあった「地球の歩き方」から、きょう泊まる安宿を選んだのだ。それがそう簡単に、赤シャツの宿であるわけがない。適当なことを言って、変な宿に連れて行くつもりだろう。こんなヤツ、道だけ教えてもらってバイバイだ。

「この道に行きたいんだけど、どっち?」

「こっちだ。いいからついて来い」

わかった、もう降参だ。こうなったら変な宿に連れて行かれても仕方ない。とにかく一刻も早くこの忌々しいバックパックを下ろしたい、その気持ちが勝ってしまったのかもしれない。心を読んだかのように「そのバックパック、俺が持ってやろうか?」と言ってくる赤シャツ。「そのまま盗んで逃げるつもりだろうが騙されないぞ」とは言わずに愛想笑い。黙ってついて行くと、そこに「バックパッカーズイン」が。僕が望んでいた宿だった。

赤シャツは「さぁ早く」ってな具合で得意顔。なんてことはない。赤シャツはものすごくいいヤツだったみたいだ。「サンキュー!サンキュー!」と態度を翻す自分をあさましく思いながらも、ベッドを確保する。窓がないせいで、昼間なのに薄暗い部屋の中。先客のバックパックが三つ転がっている。シンガポールのときも思ったが、部屋に案内されたときに他の人がいないとホッとしてしまう。他の旅人とのコミュニケーションを避けようとする自分がいた。

宿のまわりは雑多なノミ市が並んでいて、あちこちから声がかかる。G-shockを片手に「コレ、ホンモノミタイネ、カウ?」と日本語で声をかけてくる商人。学生風の男は「Nice hat!」と僕の麦わら帽子にツッコミを入れてくる。帽子をとって胸に当て、紳士気取りのお辞儀を返してみる。陽気な街が僕を陽気にしてくれた。

そんな街の中でも、ひときわ目立つツインタワー。正式名称は「ペトロナスツインタワー」。かつては世界一の高さを誇った452mの88階建て。マレーシアで最も近代的な建物ではないだろうか。タワー内は巨大なショッピングセンターになっていて、世界的有名ブランドがズラリ。伊勢丹や紀伊国屋も入っていた。ここでもまた「地球の歩き方」を立ち読みして、次にどこへ行くかを決めた。当時はiPhoneなんてなかったので、GPSはおろか地図を写メしたりもできなかった。だから僕はこうして情報収集するしか手段がなかったのだ。

結局、この小綺麗なショッピングモールに閉店時間までいてしまった。タワーを出て、来た道を戻ろうとしたが、地図もない僕は迷いに迷った。ネオン輝く大都会と言えども、小道に入ればお先真っ暗。人通りも少なく、スラム街のようなエリアがいたるところにあって、マレー人のギラギラした瞳だけが闇に浮いている。泣きそうになりながら僕は走った。首からぶら下げた50万円を握り締めながら。

三時間走りまわって、ようやく宿があるチャイナタウンへ戻ってきた。すでに深夜0時を回っていた。部屋に戻っても心臓の動悸が治まらず、一向に眠れない。しかたなくロビーに行くと、赤シャツがいた。「眠れないんだ」と話しかけると、「そういえば日本語の本が一冊あったな」と言ってカミュの「異邦人」を手渡してくれた。「異邦人、なんだよな。僕も」朝まで僕は読み続けた。

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