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12月の花の俳句(季節を味わう#0038)

「季節を味わう」では、毎月第4水曜日にその月の花を詠んだ俳句をご紹介します。あくまでも素人の好みで選んでおります。

【寒椿】

寒椿ものいいたげな亡妻(つま)の顔  池田摂陽

「椿」は春の季語。冬のうちから咲き出す椿は「寒椿」「冬椿」と呼ばれ、冬の季語です。
園芸品種の一つに、山茶花のように花びらが散る「寒椿」がありますが、これと季語の「寒椿」は別物です。

夏の季語「雨蛙」の時にも紹介しましたが、池田摂陽は私の祖父の俳号です。そして、この句は祖母が亡くなった時に詠まれたもの。

祖母が亡くなったのは昭和58年(1983年)12月17日。67歳でした。
運動神経抜群で、子どもの頃リレーの花形だったという祖母は、還暦を超えても前屈すると床にぺたんと手が付き、孫の私よりも体が柔らかでした。
普段から腹八分目、健康に気をつけていた祖母が、初夏の頃、背中が痛いといい出しました。マッサージや整体にかかると痛みは引きますが、数日するとまた痛みを訴えます。精神的なものかとも思われましたが、検査の結果、膵臓癌だと判明しました。今でこそもっと早く診断が下るかもしれませんが、当時は他の臓器に隠れる位置にある膵臓の病変はなかなか見つけることができず、病名が確定した時には、かなり進行していました。
祖母には8人の子どもがおり、孫も大勢いました。また決断が早く面倒見のいい祖母は、親戚以外の人にも頼られていました。いわば「ドン」のような存在だった祖母の重篤な病気に、家族は焦りました。みんなで当番を組んで祖母の看病にあたりましたし、最後は一縷の望みを抱いて、東京の専門医にも診ていただきましたが、祖母は半年足らずで他界してしまったのでした。祖母が実年齢よりも体年齢が若かったことも、がん細胞の侵蝕が早かった原因になったと聞き、日頃の食養生が裏目に出たのかと、なんとも言えない気持ちになったことを覚えています。
当時私は大学2回生でした。みんなのドンだった祖母の葬儀は、女性は皆、和装の正装で送ることになり、私も初めて着る喪服(着物)のしつけ糸を解いた記憶があります。きっと親族全員、慌てて喪の着物を用意したのでしょう。やれ、黒い草履がない、黒い帯揚げがない…と、小物が揃っていない人がたくさんいました。そこで、足りないものを数えて、母が大阪の問屋まで買いに行くことになりました。私はそのお供をしたのですが、母が運転しながら「病気を治してあげたかった。なんで私はお母ちゃんの葬式の用意なんかしてるんやろ。悔しい」と、現実を受け止められないといった様子。
母だけでなく、叔父叔母(祖母にとって子どもたち)は皆、あまりに早い祖母の死に、現実味を感じていなかったような気がします。
皆が地に足つかないような状態でいたお通夜、告別式の場で、ふとみると「寒椿ものいいたげな亡妻(つま)の顔」と書かれた短冊が飾られていたのでした。妻を亡くした祖父が書いたものです。
一体、どんな経緯でこの句が書かれたのかは、祖母にとって末っ子であるおじの記録から引用します。

それから二年後の冬、あっという間に母は逝った。手遅れの膵臓癌だった。三十三歳だった私は、何を考えているのか仕事にも集中できず、葬儀の準備も何からしたらよいのか見当も付かなかった。実家の一階と二階を行ったり来たり、屋上の洗濯干場にある物置をひっくりかえして、きっちり整理された正月用の遊戯用具から母と徹夜で遊んだ花札を出したりなおしたり、うろうろするばかりだった。そういうとき書斎の父は

寒椿ものいいたげな亡妻(つま)の顔  摂陽

庭にはない寒椿を季題とした母の俳句を次々と作っては短冊に書いていた。そしてそれを通夜の廊下に貼りだして、弔問客がお義理でほめてくれるたびに泣いた。
(叔父の記録より引用)

当時の叔父には、俳句を作り続ける祖父が落ち着き払っているように見えたそうですが、もしかしたら祖父も祖母の死を受け入れられず、俳句を作ることで気持ちを紛らわせていたのかもしれません。
何せ、祖父母は尋常小学校の頃からの知り合いで、恋愛結婚だったのです。
「おばあちゃんはなぁ、足が速かってんデ。リレーのアンカーで、前の選手と半周くらい遅れてバトンもらったのに、あれよあれよいう間に全員抜いて1等でゴールや」と小学生時代の祖母のことを私たちに自慢していた祖父でした。
しっかり者の嫁に先立たれるとは夢にも思っていなかったであろう祖父は、それから10年後に永眠。
また、祖母の死を悔しがっていた母は今年9月に他界しました。
40年前に若くして亡くなった祖母の周りは、生前の頃のように、徐々に賑やかになりつつあります。いつか私もその輪に加わるのでしょう。そんなことを思う今年の12月です。


(2023年12月27日)


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