機動戦士ガンダムSEED FREEDOM 「去り際のロマンティクス」考察 石川智晶さんが込めたラストソングへの願い

この文章は機動戦士ガンダムSEED FREEDOM、そのエンディング曲である「去り際のロマンティクス」の一節についての考察です。私の個人的な解釈及び妄想であること、また劇場版映画の内容、ネタバレについても言及があるのでそれでも大丈夫という方のみ、お付き合いいただければと思います。


今回考察するのは次の一節です。

あなたへ告白します 夕映えのロマンティクス
蝋燭を真ん中 語りつくした熱と
あの世界に背中向けて願う 最後のラストソング
このもどかしさとこれから二人で生きる

See-Saw 「去り際のロマンティクス」より
作詞:石川智晶
作曲:梶浦由記

様々な考察が行われているこの曲ですが、私はこの一節にどことなく違和感を覚え、どんなメッセージが込められているのか歌詞を更に区切り、分析することで内容を深堀りしてみました。

まず考察したのは以下の3点です。

①なぜ世界に背中を向けているのか
②語りつくした、という本編ラストと相反する状態
③なぜラストソングを「歌う」ではなく「願う」なのか

まず①、この楽曲が使用された劇場版SEEDは概ねハッピーエンドの物語です。根本的な問題解決には至らずも、今般発生した事件は収束、映画の主軸であったキラとラクスは互いに愛を告白し結ばれることになりました。世界に背中を向けるという行動は、この曲と共に語られるラクスの独白「愛の反対は無関心」そのものであり、この場面の表現として不自然に感じます。

続いて②の「語りつくした」という表現です。映画のクライマックス、これから小さいことを話していきましょう、お互いを理解していきましょう、というラクスの独白があります。まさにこの独白と同時に流れている曲にて「語りつくした」「あの世界」という全く別の話をしています。

そして③、なぜ「願う」のか。今般の劇場版の結末は主人公達が戦い、行動の末に勝ち取ったものです。決して願いだけでは手に入れられるものでありません。歌姫であるラクスも歌い願うのではなく自ら戦場に赴きキラと共に戦います。そもそも歌は歌うものであり願うものではないですよね。

以上の通り、この節だけ奇妙な程に本編と合致していない。この楽曲が劇場版の為に作られた曲にも関わらずです。

そこで仮説を一つ。

・劇場版の為につくられた曲なのに本編に合致しない一節がある、ということは本編の内容とは別の意図が込められているのではないか?
・ではその意図を込めたは誰か?
・それはこの曲を作詞した人間、石川智晶さんではないか?

上記の仮設を踏まえ石川さんにどんな意図があったのか、と考え節を分析してみましょう。

④最後のラストソングという二重表現
⑤この節だけ「去り際の」ではなく「夕映えの」ロマンティクス
⑥もどかしさの先に浮かんできた人物

まず④の二重表現です。
SEEDのエンディング曲、そしてTVシリーズから続いたSEEDという作品を締めくくる曲を歌うことができる人物。個人的には一人しか思い浮かびません。石川智晶さんその人です。

また今回の劇場版の為にTVシリーズのエンディングを担当したSee-Sawという音楽ユニットが再結成した経緯もあり、See-Saw最後の楽曲(になるかも)という意味も込めて「最後」を重ねたのかもしれません。しかし、歌詞という文字の制約がある中わざわざ二重の表現をする根拠としては弱いですね。

そこに⑤の「夕映え」を結び付けます。ラストソングがあるということは当然ファーストソングがあるはずです。もしかして直接書かないだけで対になる曲が歌詞の中に隠れているのでは?ファーストソング、「夕映え」、そしてSee-Saw、となればあの曲が連想されます。夕暮れはもう違う色。

「あんなに一緒だったのに」

ガンダムSEED、最初のエンディング曲であり、See-Sawという音楽ユニットが世に出るきっかけとなった曲です。「夕映え」という単語に「あんなに一緒だったのに」が隠れていた、「夕映え」=「あんなに一緒だったのに」に変換して歌詞を並べてみましょう。

・私は告白します。あんなに一緒だったのに、という曲をロマンティクス(複数の愛情)と蠟燭(光と熱)と共に語りつくした「あの世界」がありました。
・そして今「あの世界」に背中を向けてラストソングを願います。(歌う、ではない)

語るということは当然相手がいます。何かを語りつくしたほど深い仲だったのでしょう。語りつくした、と過去形であることから「あの世界」は過去のものだと推測できます。つまり、ファーストソングの時には情熱をもって語りつくした相手がいたが、ラストソングを願っている現在、その相手はいない。

最後に⑥のもどかしさです。もどかしいということは思い通りにならないということ。上記の流れを受けて考えるとかつての仲の人物と、もう語ることができない、伝えることができないということです。どうして伝えることができないのでしょうか?「なら会って話せばいいじゃないか」劇中のアスランもそう言っています。

以上、④⑤⑥をまとめてみます。

ファーストソングの「あんなに一緒だったのに」の時には、熱く語っていた相手がいたけど「去り際のロマンティクス」の時にはその相手がいない、もどかしいと石川智晶さんは感じている。

ではそれは誰なのでしょうか?
そう考えると一人の人物が浮かび上がってくるのです。

ガンダムSEEDの生みの親の一人であり、「あんなに一緒だったのに」の作成に深く関わった人。

そして「去り際のロマンティクス」の作成に携わることはできなかった人。

ラストソングが紡がれる前に、遥か遠くに旅立ってしまった人。

         両澤千晶さん

ガンダムSEEDのシリーズ構成、劇場版の脚本を担当
この作品の根幹に大きく携わり、そして完結を見ることなく2016年にこの世を去った人物

そう

だから背中を向けるのです。これから生まれる物語、登場人物、そして楽曲について熱く語り合いラストソングを共に紡ぐ世界は、もうないのだから。

だから「歌う」ではなく「願う」のです。どんなに声高らかに歌っても、この世にいない人物に声が届くことは、もう決してないのだから。

石川智晶さんは本編の内容にそぐわないとも言えるこの一節に、今は亡き両澤千晶さんへの追悼を忍ばせていたのではないでしょうか。

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2014年1月24日、劇場公開に先駆けて 「去り際のロマンティクス」がシングルリリースされました。このシングルにはフライングドッグ設立10周年記念ライブでサプライズ出演した「あんなに一緒だったのに live in 2019@犬フェス」が収録されています。

サプライズ出演ということもあり、イントロが流れた瞬間の絶叫、演奏中には観客からの熱いコールが巻き起こり、演奏後の歓声と拍手は筆舌に尽くしがたいものです。(ご興味があれば是非聴いてみて下さい)

蝋燭の火と、語り合う熱。
小さな始まりは沢山の人に愛され、凄まじいまでの熱を帯びるに至りました。
その世界に背中を向け、石川さんは何を願ってラストソングを紡いだのでしょうか?

その背中は何も語りません。
作詞家であり歌手である石川さんは背中で何かを語ることはなく、私もその願いを理解することはないでしょう。

「それでも」

劇場版のクライマックス、
石川さんの作詞したエンディング曲「去り際のロマンティクス」と共に、ラクスの独白にて両澤さんが遺した言葉が紡がれます

私の中にあなたはいます。あなたの中に私はいますか?

かつて語りつくした相手からの「最後の」問いかけ

このもどかしさとこれから二人で生きる

かつて語りつくした相手への「最後の」返答
どうか届きますようにと願いを込めた「最後の」ラストソング

かつて共に作り上げた作品の上での邂逅、そして別れの歌

「去り際のロマンティクス」

最後に二人の偉大なクリエイターに敬意を込めて。
拙い文章、考察を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。



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