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「わしら」と「わし」と「わたしたち」

かつて萱葺きが年中行事だった頃

昨秋、千葉県鴨川市で萱葺きを体験した。
古民家を持たない自分が萱葺きを体験できたのは、NPO法人小さな地球(代表:林良樹さん)が主催した萱葺きワークショップに参加したから。ワークショップでは、神戸市を拠点とする萱葺き職人集団「くさかんむり」の代表・相良育弥さんの指導の下、萱の葺き替えを体験させてもらった。小四の息子と参加したのだが、萱葺きの仕組みや葺き替えの大変さを身体で知ることができて、大変に貴重な体験となった。

相良育弥さん(左)と林良樹さん(筆者撮影)

が、体験以上に興味深かったのが、村の古老達や相良さんとの対話。

林さんの呼びかけに集まってくださった村の古老達からは以下のような話を伺った。

  • かつては25軒の集落の屋根を毎年一軒ずつ葺き替えていた。萱の寿命は20~25年。毎年一軒ずつ葺き替えると、ちょうど萱がダメになるころに新しく葺き替えられる仕組みになっていた。

  • 2ヘクタールほどある村の萱場で萱を刈っておき、晴天が続きそうな冬の日に皆で取りかかって、一週間で仕上げた(これ、実際に体験してみると、相当なスピードだということがわかる。よほど皆が熟練していないと一週間では葺き替えられない。村人だけでなく、屋根葺き職人も雇っての葺き替えだったそうだが、村の皆さんもセミプロ級の腕前を持っていたことが容易に想像できる)。

  • 葺き替えに必要な資材と現金、それに労力は、毎年、各家から持ち寄った(持ち回りで持ち寄ることを「無尽」と言う。かつて日本全国で見られた風習だった)。人足と共に縄や足場などの資材、それに現金を供出した。現金は職人を雇うために使われた(どの家が何をどれだけ出したかを記録する普請帳も翌日見せて頂くことができたが、内容を確認したところ、各家にとってはかなりの負担だったことがわかる)。

  • トタンで萱をすっぽりと覆うようになってから葺き替えはしなくなった。最後に萱葺きを行ったのは65年くらい前だった(ネットで調べてみたら、68年前の1953年8月に東京亜鉛渡金社(現 JEF鋼板社)がレジノ鉄板というカラー鋼板を発売したことが契機となりトタン屋根が急速に普及したというから、古老達の話と辻褄が合う)。

村の古老達にかつて萱葺きを毎年していた頃の話を聞いた(筆者撮影)

「わしら」が主語だった時代

で、ここからが本題。
古老達の話を受けて、翌朝、相良さんと二人で話していた時、相良さんが以下のような話をしてくれた。

萱葺きで色々な土地に行くので、その土地の古老達の話を聞く機会も多い。
全国の古老達の話を聞いていて気づいたことがある。
それは、80代以上は「わしらの時代はこうやった」というのに対し、
70代以下は「わしの時代はこうやった」ということ。

この話を聞いて、なるほどなーと思った。

80代以上の古老達が「わしら」と一人称を複数形で語るのは、村の暮らしにおいて、自他の切り分けがしにくい世界を生きてきたからだろう。
例えば、今回訪ねた集落では65年前まで萱葺きの協働作業を毎年していたというが、だとすると、今、80代以上の方々は、当時15歳以上。中心メンバーではなかったかもしれないが、若い労働力として萱葺きの手伝いをした記憶を持っている世代だ。萱葺きだけでない。道の整備(道普請という)や田植えや稲刈り、冠婚葬祭の儀式などもみんなで協力し、みんなで持ち寄った。協働と供出によって村の暮らしを成り立たせてきた記憶を濃厚に持つのが、今の80代以上である。

都会に生まれ育った人も懐かしさを感じる棚田や里山。この風景もまた協働の賜物。

「わし」と「わたし」の戦後

一方、70代以下になると、協働と供出の機会が上の世代に比べて減少する。まず、萱葺きのような大がかりな協働作業がトタン屋根の普及でなくなった。道の整備は公共事業として行政が行うものになり、田植えや稲刈りは機械化され、個人作業となった。冠婚葬祭も業者が提供するサービスを金で買うようになる。今も多くの村で協働作業として続けられているのは道の草刈りと用水路の掃除くらいだ。

つまり、「共(協働と供出)」によって成り立ってきたことが、「公(行政)」と「私(個人と企業)」に回収されていったのが、70代以下にとっての村の暮らしだったといえる。

教育の影響もあるだろう。2021年に80歳の人は、1945年の時点で6歳だから、80代以上は戦前の小学校を経験していることになる。とりわけ戦前に小学高学年以上を経験した80代後半以上の世代は、個人よりも国家や共同体に重きを置く軍国主義・全体主義的な教育の影響が色濃いはずだ。
それに対し、70代以下の人は、戦後、アメリカによってもたらされた民主主義教育によって育てられた世代だ。戦前の価値観を否定し、国家や共同体よりも個人に重きを置いた戦後教育が、個人主義的な価値観を育てたであろうことは想像に難くない。

便利なトタン屋根が広がることで、里から「共」の記憶は薄れていった

「共」によって担われてきたことが「公」や「私」に取って代わられたことと戦後教育による個人主義的な価値観の拡がりが、村人達の使う主語を「わしら」から「わし」へと変えた。その境は80歳前後にある。
というのが「わしら」と「わし」の使われ方を巡る現時点の仮説である。

ちなみに、今の70代以下は、村を出て都市を目指した世代でもある。村を出て、都市や郊外で暮らすようになった人々の主語は「わし」でなく「わたし」になった。以後は「わたし」の時代と総括できる。

「共」にとって代わった「公」と「私」はその後どうなったか。
「公」は縮小し、「私」が肥大化した。何故か。
「小さな政府」を目指す新自由主義的な国家運営の結果である。
新自由主義的な国家運営は、中曽根政権(1982年〜1987年)に端を発する。中曽根政権(中曽根元首相は1918年生まれ。世代としては「わしら」の世代に属する)は、国鉄や電電公社の民営化などを進め、新自由主義的な国家運営の先鞭をつけた。
その後、橋本政権(1996年〜1998年。橋本元首相は1937年生まれでギリギリ「わしら」の世代)も新自由主義へのシフトを柱に掲げたが、それが本格化したのは、小泉政権(2001年〜2006年)の時である。1942年生まれで「わしら」より「わし」の世代に属する小泉首相は、竹中平蔵(1951年生まれ。完全に「わし」の世代)と二人三脚で新自由主義的な国家運営を本格化させた。新自由主義的な国家運営の合言葉は「小さな政府」である。具体的には政府の市場介入を極力なくして資本の運動を自由化すると共に、行政組織や公営企業が手がけてきた公共的なサービスを民営化することが進められた。
この結果、「公」から「私」へのシフトが起こった。「公」は痩せ細り、「私」が肥大化したのである。

震災後の「わたしたち」

今、私達が経験しているのは、マクロで見れば、「公」も「共」も縮退し、「私」の領域ばかりが広がった世界だ。それは一見、殺伐とした世界に見える。だが、よく目を凝らしてみると、「私」の隙間を埋めるかのような「共」の動きがそこここで生まれていることに気づく。

これら新たな「共」が生まれる舞台となっているのは、多くの場合、空き家や空き店舗などを改修してできたカフェやコワーキングスペース、シェアハウス、ゲストハウスなどだ。それまで価値がないと思われていた建物が、新しい機能を付加されて蘇り(=リノベーション)、人と人のつながりを生み出すハブとなる。こういう動きが2000年代に入ってから目につくようになった。

2011年の東日本大震災はこの動きを加速させた。被災地を見て、大都市での暮らしに疑問を持った人々が地方へと移住し、移住先で空き家・空き地・空き店舗等をリノベーションして、「共」の母胎となる新しい場をつくり始めたからだ。リノベーションの波は瞬く間に拡がり、都心や郊外でも珍しいことではなくなった。

それら「共」の場を実際に訪ね、身を置いてみて感じるのは、人の距離の程よさである。個人の領域に踏み込まず、かと言って無関心でなく、メンバーシップは緩やかで、出入り自由な開放性がある。昔ながらの共同体ほどの強固な絆はないが、何となしの仲間意識があって、居心地の良い場となっている。

その仲間意識がどこから来ているかと言えば、この居心地良い場を共に守り育てていこうという暗黙の了解の共有にあると思う。明確なルールや義務があるわけではない。ただ、気持ちの良い仲間と共に楽しく過ごせるこの場を壊したくない、大切にしたいという思いが共有されている。それが仲間意識となっている。ある種の共犯者感覚とでも言えば良いだろうか。そこにはうっすらとした「わたしたち」の感覚すらあるのを言葉の端々から感じる。

築50年のブティックを改修して2020年4月にオープンしたカフェMIAMIA(東京都豊島区)。地元の常連達は家のリビングのように一日に何度も出入リしている。常連が多いが閉鎖性はない。初対面の人間でも、気軽にその場に迎え入れてくれ、束の間の交流が楽しめる。それが鬱陶しくも煩わしくもない。また来たいなと思う、不思議に魅力的で居心地の良い場である(筆者撮影)

つくる我ら

「わしら」だったものが「わし」となり「わたし」となったその先で、うっすらとした「わたしたち」の感覚が芽生えている。一周回って元に戻ったというか、先祖返りのようで面白い。もっとも、ここで言う「わたしたち」の感覚は、「わしら」の感覚とは似て非なるものだろう。「わしら」が協働と供出なしに成り立たない村の暮らしを背景にした強固な共同体感覚から出てきたものであるのに対し、「わたしたち」はもっと軽やかで一時的な場の共有から生まれているものだからだ。今ある「共」の感覚は、それがなければ暮らしが成り立たない、というほどの強いものではない。

ただ、何か共通しているものがあるとすれば、「公」や「私」の世界では手に入らないもの、それを共につくる中で「共」の感覚が育っている、ということだろうか。空き家や空き店舗などをリノベーションしたスペースに「共」の感覚が宿りがちなのは、既成のものではない、自分たちのオリジナルのものをつくっている場だからだろう。ボロいかもしれないが、確かにそこにしかない存在感が空間そのものにある。また、その場をつくってきたオーナーや主宰者には、ないものは自分たちでつくろう、というDIY精神がある。手づくり感のある独自の空間とそれを実現してきたDIYの精神とスキルに溢れた人。その独自の空間と人に惹かれてやってくる人達も、そこに参加することで世界にただ一つだけの場をつくっている感覚を共有できる。そういう構造があるように思う。既成の社会のオルタナティブをつくることに参画している。そういう仲間意識があるように感じる。

「わしら」の時代は何でも自分達でやらないと成り立たなかった。「公」や「私」には頼れないからこその「共」であった。
それに対し、今、拡がりつつある「共」は、「公」や「私」に「頼れない」というより、「頼りたくない」という感覚から生まれているように思う。また、生活全部というより、生活の一部が「共」的になっているに過ぎない。
それらの違いはあるが、自らの手で自ら生きる世界をつくろうとしている点においては「わしら」の時代と「わたしたち」の時代に共通するものはあるようだ。

共通しているのはつくる感覚だ。つくらずに消費しているだけなら、「WE」の感覚は育たない。つくることを通じて仲間ができるのである。
別に萱葺きをする必要はないが、自分の暮らしを仲間と共につくること。これから大切なのは、そういうつくる側に回る覚悟を持つことなのではないか。本当の意味での仲間は、つくる側に回る覚悟を持つことからできるのはないか?


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