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しょうもない大人

文章に残すことは良いことだ、と好きなアーティストが言っていたので、今の段階で考えてることを文字にしてみる。

小学生の頃は、カネが全てだと思っていた。お金持ちになれば、好きなものを買えるし、好きなことができる。アイスを無限に食べながら、レアカードが当たるまで永遠にポケモンカードパックを開けられる。卒業文集の将来の夢の欄には堂々と「お金持ち」と書いた。恥ずかし〜!

たしかにカネを貯めれば良いものが買えた。高校生の頃、ずっと貯めてきたお年玉やお小遣いをはたいてゲーミングパソコンを買った。プレイしてみたゲームのクオリティはまさに晴天の霹靂。リアルなグラフィックを前に、やはり大きなカネは生活を豊かにすると確信した。

それから大学生になり、知り合いや知人など、身の回りで大きなカネが動き始めた。自分で貯めたカネで高い服を買うこともあったが、自分のカネ以外にも、すげー金持ちに聞いたこともないような高い肉を食べさせてもらうなどした。

でも、いくら金持ちと高い肉を食べても、心の中でなんだか満たされないところがある。というか、なんだか他に嫌なところが目につくようになった。
金持ちとの話がつまらなすぎる。

そう、金持ちはだいたい、しょうもないのだ。

よく考えたら当たり前のことだ。カネが目当てで金持ちになったやつは、小学生の頃の俺よろしく、自分が欲しいものを買うために、したいことをするために、頑張ってカネを稼いできたわけだから。働く意味や、生き方が、小学生で止まってる人間だ。そりゃしょうもないか。

しかも大人には社会性が生まれる。他者との相対評価で得られる幸福感に慣れた生活を送ってしまうと、人より稼げてる、多くの契約を結べた、などといった成功体験のようななにかが糧となり、プライドとなる。こういう人種は、自分がいかに優れているかを相対評価で表現するしかない。
人間は人生に慣れてしまうもので、新鮮な刺激を得るためにカネが必要になる。そういう新鮮なことをしているやつが、人生が充実していると錯覚しやすい。
似たような人種は対抗して、負けじと数値を見せびらかす。比べて安心するなんてしょうもないのにね。

数字にとらわれた大人というのは、昔からよく聞く話だった。いくら稼いだとか、いくらの契約を結んだとか。たしかに数字がデカいとなんだか凄い気がする。アスリートは年俸という数値で自分の能力が示される。今はカネ以外にも、再生回数とか、フォロワー数だとか、いいねの数だとか、そういうのにもとらわれがちかもしれない。
でも俺は、ひたすらカネを稼ぐ映画、ウルフオブウォールストリートを観ても、しょうもないな〜と思うようになってしまった。夢物語として崇拝しているようなレビューを見て、それもまたしょうもないな〜と感じる。

ここでウルフオブウォールストリートのあるシーンの話を少しだけ。ディカプリオが立ち上げた証券会社が法外的なボロ儲けをするんで、FBI捜査官が調査に入る。そんな捜査官たちをディカプリオはクルーズ船で出迎える。FBI捜査官たちはカネを追い求めるだけのディカプリオに話すことは無いと、クルーズ船を後にする。するとディカプリオ、FBI捜査官たち目がけて船の上から高級ロブスターを投げつけ、カネをばら撒く。「お前らの年収以上の札束だぜ!!」それらに目もくれず去っていくFBI捜査官たち。ディカプリオは豪華クルーズシップの上で独り。どちらが有意義な人生を送っているかは明白だった。

俺は、猫が居ればいい。そこは6畳一間の築40年木造アパートでも、大理石でできた噴水がある大豪邸でも、どこでもいい。そしてちょっとした信念と、海があれば最高かな、なんて考えてる。それが今の俺の幸せ。
夕焼けが綺麗だとか、金木犀の香りがするとか、猫の毛並みが素敵だとか、そういうところに幸せを感じて生きていきたい。居心地の良い場で生活を送りたい。そこに余分なカネは不必要。余計な数字は要らない。

だがしかし、もっと歳をとり、オッサンになる頃には、俺はどんな感性で生きているのだろうか。数字に振り回される悲しき大人になっているだろうか。日常の中の幸せを理解できず、カネを費やすことでしか得られない刺激に飢えた、しょうもない動物に成り下がっているだろうか。
なるべくそうはなりたくない。数字にとらわれることが大人なら、大人にならなくたって良いとも思う。

そうして俺は今晩、バックトゥザフューチャーをネトフリで流しながら、今日を仕舞うことにした。俺の少年時代を作った最高の映画。
やっぱり、しょうもない大人には、どうしてもなりたくないのである。

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