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エンタメ異人伝Vol.5 堀井雄二

音楽、映画、ゲームなどを総称するエンタテインメントは、人類の歴史とともに生まれ、時代に愛され、変化と進化を遂げてきました。 そこには、それらを創り、育て、成熟へ導いた情熱に溢れた人々がいます。この偉人であり、異人たちにフォーカスしインタビュー形式で紹介するエンタメ異人伝。

 今回のゲストは、『ドラゴンクエスト』シリーズの生みの親であり、2017年7月29日にPlayStation 4・ニンテンドー3DSにて発売予定の『ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて』を手掛けるゲームデザイナー堀井雄二氏です。
(※当該記事は2017年エンタメステーションに掲載されたものを復刊させたものです)

 少年時代は毎日が冒険のようだった

黒川(以下略)――お久しぶりです。今日はお会いできることを楽しみにしていました。まず、幼少期のお話からお聞かせ下さい。淡路島(兵庫県洲本市)のご出身で、ご実家はガラス店を営まれていたということですが、当時の環境はいかがでしたか?

堀井 当時は商店街のガラス店で、そこに住んでいました。アーケードのある大きな商店街で、お向かいにはお菓子屋やおもちゃ屋があって、裏が貸本屋で…。淡路島の田舎で育ったっていう風に言われるんですけれども、僕的には都会で育った気がしていたんですよね。むしろ東京に来たときに住んでいたのが住宅街だったので、なんか何にもない所だなあと思ったりしました(笑)。

――かなり、賑わっている街だったのですね。

堀井 イメージ的には吉祥寺くらいです。……いや、吉祥寺は言いすぎかな(笑)武蔵小山に似てたかな? 商店街は本当に人通りが多くて、家の前のおもちゃ屋さんに行こうとして自転車に轢かれたこともありました(笑)。今はもう、さびれちゃって、半分くらいがシャッターを下ろした状態になっちゃいましたけど。

――刺激があって、すごくいい環境だったわけですね。

堀井 アーケードがあるのがうれしくてね。雨の日でも濡れないから、そこでローラースケートをして遊んでいました。しかも、アーケードって屋根の上の部分が歩けるようになっているので自分の家の屋根から飛び移って、アーケードを伝って近所の友達のウチに遊びに行ったりして。

――今だったら通報されますね(笑)。その頃の体験で堀井さんがのちに編集や執筆、創作を行っていく上で影響を受けた部分はありますか。

貸本が育んだ漫画家志望

堀井 家の裏が貸本屋さんだったんですよ。当時はまだマンガを借りて読むっていう文化がけっこうあって、『ぼくら』、『冒険王』、『少年ブック』、『少年画報』(注1)……出ているマンガは全部借りて読んでいましたね。

注1)当時発行されていた月刊少年マンガ誌。『ぼくら』は講談社、『冒険王』は秋田書店、『少年ブック』は集英社、『少年画報』は少年画報社より発行。

――全部、貸本屋さんから借りていたんですね。

堀井 そうですね。そのうちに週刊誌時代になって、そのときには『少年サンデー』とか『少年マガジン』とか買うようになっていましたけど、月刊誌は借りていましたね。当時の月刊誌には付録がついていたんですけど、その貸本屋では付録も30円くらいで売っていて、発売後に早く行くと買えるんです。当時の付録はいろんなものが作れたんですよ。一番感動したのは忍者屋敷の付録。立体の屋敷で壁の隠し扉が動いたりとか、いろいろ仕掛けがあるんですけど、そういうのを紙で工作的に作れたんですよね。

母親との記念写真

――貸本で出ているものを片っ端から読んだり、付録を買って作ったりしてイメージや想像力がかきたてられていった感じですか。

堀井 そうですね。そういったものが、いろいろ積み重なったみたいな。あとはホントに島なので商店街と言いつつ海まで歩いて10分だし、川や山も歩いて10分くらいっていう。

――さまざまな冒険ができた…いい環境だったんですね。中でもマンガの存在は大きかったわけですが、特に影響を受けた作家はいらっしゃいますか?

堀井 やっぱり、手塚治虫さんですかね。手塚さんの『ふしぎな少年』っていうのを読んだとき、主人公が「時間よとまれ!」って言って時間を止めちゃうのが子供心にすごい夢があるなあと思って。

――幼少期は弁護士志望だったというのをあるところで読んだのですが、それがマンガ家に変わったのは中学生くらいですか?

堀井 弁護士になるっていうと大人がほめるんですよ(笑)。だから、そう言っときゃいいやって子供心に思ったんですね。それが、中学になるといきなりマンガ家になるって言い出して、普通は逆だろっていう。

――普通は子供のときに夢みたいなことを言って、ある程度成長すると現実的な方に変わっていきますからね。

堀井 そう、それが逆だったんです。ちょうど『巨人の星』とか『あしたのジョー』とか出てきた時代で、完全にマンガにハマっていましたね。

永井豪先生の仕事場を直接訪問

お兄さんと一緒の記念写真

――中学時代は漫画研究会に所属されていたんですか?

堀井 中学には漫研はなかったですが、高校生のときにマンガ同好会で部長をやっていました。

――高校生のときに永井豪先生のところに原稿を持っていかれたという話を聞いたんですけど、おひとりで東京に行かれたんですか?

堀井 そうです。『バイオレンスジャック』とか『あばしり一家』とか好きだったんですよ。当時は、雑誌にマンガ家さんの住所が書いてあったんですよね。マンガ家の先生にファンレターを出そうって。個人情報保護法なんてないですもんね。電話番号まで書いてありましたよ。

近所の海 小学校高学年

――今では考えられないですよね。直接、電車に乗って行かれたんですか。

堀井 電車に乗って永井先生の仕事場のある駅まで行って。駅前から電話して「アシスタントにして下さい、作品持って来ました!」って。そうしたら会ってくれたんですよ、永井先生が直接。

――すごいですね。今では絶対会えないですよ。

堀井 会えないですよねえ。そんな、突然電話してきてねえ。

――それで、その作品を見て永井先生はなんとおっしゃいましたか?

堀井 「う~ん」って(笑)。僕は見た瞬間に「いいねえ、来年からアシスタントに来てくれよ!」って言われるくらいのつもりだったんですよ。それがどうも、なんかもうひとつだなあっていう反応で。やんわり断られたみたいな感じでした。それでヘコんじゃって、最初は他のマンガ家先生のところもいろいろ回るつもりだったんですけど「もうヤメた」と。

――それで止めちゃったんですか? 何か残念ですね。

堀井 軟弱なんで(笑)。

――他も回ったら、もしかしたら違う道が開けたかもしれないですね。そこで気持ちがちょっと萎えたというか、また違う道を考えようと思われたんですか?

とりあえず大学に行こう!と受験勉強

堀井 いや、じゃあ、とりあえず大学に行くかと思ったんです。

――とりあえずで早稲田に受かる人も珍しいと思いますが、やはりかなり受験勉強されたんですか?

堀井 ええとね、僕は、数学はできたんです。

――早稲田大学の一文(第一文学部)ですよね?

堀井 ええ。マンガ家志望だから文学部だろうと。それで、早稲田の文学部は珍しく、社会の代わりに数学を受験科目に選ぶことができたんですよ。それで早稲田を受けたんです。

――そうだったんですね。どのような受験勉強をされたんでしょうか。

堀井 数学はできるから勉強しなくていいやと。国語もまあ日本語だから勉強しなくても大丈夫だろうと。だから、あとは英語だけ。英語は単語さえ覚えて、文法が分かっていればなんとかなるだろうと思って。それで英語の勉強だけしていたんです。そうしたら明治大学や法政大学も受けたんですけど、それも全部受かっちゃいまして。

――ホントですか、それ!? しかも浪人せずストレートですよね?

堀井 たまたま運が良かったんです。

――優秀ですね。大学の漫研では、のちのちいろいろ繋がりのあるお友達がたくさんできたようですが、その頃はどのような活動をされていたんですか?

堀井 当時の漫研っていうのは「ガロ」(注2)一色です。つげ義春さんとか林静一さんとか。僕もモロに影響を受けて、ちょっと不条理的なガロ系のマンガを描いたりしていました。

注2)青林堂が発行していたマンガ雑誌。1960年代に独自の作風を持つ個性的なマンガ家たちが活躍し、話題を呼んだ。

ユルい?学生生活の始まり

――当時は社会的に言えば学生運動が激しかった時期ですよね。

堀井 ありましたね。ちょうど1年生のときに革マル派の川口君事件というのがあったんですよ。それで、学校が1年間ロックアウト(大学を閉鎖すること)されちゃって、入学してすぐに学校に行かなくてもよくなっちゃったんですよね。でも、漫研の部室だけは行くんですよ。部室に集まってみんなで麻雀やろうよって。で、麻雀やって帰ってくるという、すごくユルい学生生活が始まったんですよね。

――でも、その頃の漫研のお付き合いがあったから、その後の活動に繋がっていったんですよね。早稲田の漫研にはどういった方がおられたんですか?

堀井 先輩だと『アサッテ君』の東海林さだおさんとか『ギャートルズ』の園山俊二さんとか、あとは『島耕作』シリーズの弘兼憲史さんとか。僕と近い世代では『ジャンク・ボーイ』の国友やすゆきさんとか。

――さくまあきらさん(注3)は同級生ですか?

堀井 そうですね。3年生くらいのときに各大学の漫画研究会の連合ができたんですよ。そこで、いろんな人と知り合ったんです。

注3)『桃太郎伝説』、『桃太郎電鉄』シリーズなどを手がけたゲームクリエイター。当時は立教大学の漫研に所属していた。

――では、その頃に知り合った仲間たちとお互いに影響を与え合ったという感じですか。

堀井 卒業後は、仕事を紹介してもらったりとかね。1コ下に柳沢健二という人がいたんですよ。ヤナケンって呼んでいたんですけど、その彼がみのり書房に入ったんです。その関係で「月刊OUT」(注4)で連載を始めたんです。それから、山本一平という人が集英社の「セブンティーン」などでイラストを描いていて、その紹介で「セブンティーン」のライターを始めて。週刊少年ジャンプで仕事をするようになったのも、さくま君の紹介でしたね。

注4)1977~1995年にみのり書房より発行されていたアニメ雑誌。サブカル色が強く、読者投稿によるアニパロが人気を呼んだ。

――いい繋がりですね。在学中もお仕事をされていたと聞いていますが。

堀井 在学中は先輩がやっていたサンケイスポーツの仕事を手伝ったりしていましたね。確か「キャンパスライフ」とかいうページがあったんですよ。大学生のアルバイトとか学食なんかについて取材して、文章を書いてイラストを付けてっていう。例えば、北海道の牧場のバイトがどれだけキツいかとか。

――いわゆる体験取材ですか?

堀井 さすがに北海道までは行けないので、体験者の取材をして記事にしました。他には「東大の地下の学食はすごい要塞だ!」みたいな。それは実際に食べに行って記事を書きましたね。それで、ライターの仕事がけっこうぼちぼち舞い込むようになって、これはライターで食っていけるなと。

――その頃はもう大学にはあまり行かなかったんでしょうか。

堀井 そうですね。大学は行っても授業はそんなに出ていなかったですね。だから、単位がなかなか取れなくて卒業するのに6年かかりました。

――でも、充実した6年でしたね。

堀井 どうなんですかね。なんか、麻雀ばっかりしていたような気がするんだけどね(笑)。

死ぬ気はなかった・・・(笑)

――76年にオートバイで事故を起こされて、内臓破裂の重傷ということでしたが……。

堀井 4年生のときですね。125ccのバイクに乗っていたんですけど、左折車に巻き込まれてガードレールに激突して。死にかけましたけど、なんとか命を取り留めました。

――そういう大きな事故に遭うと死生観が変わるとよくいいますけど、何かそれで気持ちに変化はありませんでしたか? 

堀井 いや、全然死ぬ気はなかったんで(笑)。

――アハハハ、全然大丈夫みたいな感じですか?

堀井 正直、九死に一生を得たっていう意識はまったくなかったですね。なんか転んじゃったなあ…くらいです。だから、死ぬ気が全然しなくて。実は危なかったっていうのは後から聞きましたけどね。で、結局2カ月くらい入院しまして、あとはちょっと休養で半年くらい淡路島に帰っていたんですよ。それもあって(卒業まで)6年かかったんですよね。

――――先ほど、在学中からフリーライターとしてやっていけるんじゃないかと思っていたとおっしゃられていましたが、すでにかなり仕事はあったんですか?

堀井 そうですね。療養が終わって東京に戻ってきて。5年生になっちゃったんですけど、いろいろまた仕事をやっていましたね。当時は放送作家みたいなこともしていました。

――テレビですか。どんな番組だったんですか?

堀井 ワニブックスで『いたずら魔』っていう本を書いたんですよ。それをテレビ局の人が見たらしくて、桂三枝(現・桂文枝)さんの『いたずらカメラだ!大成功』っていう番組のアイディア出しをしてくれないか、みたいな話が来まして。

――その『いたずら魔』はかなり売れたんですよね?

堀井 けっこう売れましたね。確か20万部くらいだったかな? 印税契約だったので報酬はみんなで分けました。

ゲーム作りのキッカケとPC-6001

――ゲームをするようになったきっかけというのはどのあたりになりますか?

堀井 大学生のときはやる側で『ブロックくずし』とか『スペース・インベーダー』とかをやっていました。そのあたりはやっていたので、コンピューター自体面白いなと思っていました。それで、27歳くらいのときに、お正月に新聞でマイコン特集をやっていたんですよ。「これからはマイコンだ」みたいな記事。その中にハーレクインロマンのプロットをマイコンで作っているとかいう記事があって。ちょうどマンガの原作とか、いろんな読書コーナーとかやっていたんで、じゃあマイコンを買ったらいろんなことができるなと思って買ったんですよ。それがPC-6001(注5)です。

注5)1981年にNECより発売されたパソコン。独特の形状をしたオレンジ色のポップなキーボードが特徴で「パピコン」の愛称で人気を呼んだ。

――それで、占いのゲームをお作りになったんですよね。超当たるけど、実はプログラムに友達の特性とか、あらかじめ調べて入力してあったという。

堀井 もともと得意だったので、すぐにプログラムを覚えちゃったんですよ。それで、イタズラ好きなんで、何をしたら驚くかなあと思って「占いがいいな」と。INPUT文とPRINT文(注6)だけでプログラムを組んで、こっちの知っていることを全部文章であらかじめ打っておいたわけです。で、生年月日とか名前とか入力させると、それが表示されるみたいな。ハハハ。

(注6)どちらもBASIC(当時、使用されていたプログラミング言語)のコマンド。

――それは占いの体験者もびっくりしますよ…。「コンピューターってすごい!」ってなりますよね。

堀井 こんなことまで分かるんだってね。だからイタズラですよ、ただの・・・(笑)。

――人を驚かせるというか、楽しませるというか。

堀井 そうですね。イタズラ好きでしたね。

――面白いですね。占いの次に、ゴルフゲームを作られたと聞いているんですけど、それもご自身で全部ですか?

堀井 そうですね。でも、遊びですよ。プログラムを覚えたんで、それが楽しくて。

――どのような方法でプログラムの勉強をされたんですか?

堀井 PC-6001に『みんなで使おうBASIC』っていう本がついてきたんですよ。それでBASICを覚えて。でも、BASICは実行がけっこう遅いんです。だから今度は『Z80マシン語入門』っていう16進数のプログラムの本を買ってきて、それを覚えて。アセンブラ(プログラミング言語のひとつ)とかもやりましたね。

――普通は本職じゃないとなかなかそこまでやらないですよね。そのモチベーションはどこからきていたんですか?

堀井 遊びだからできたんだと思いますよ。仕事だとツラいです(爆笑)。遊びだから楽しいんです。プログラムにしても何にしても仕事でやると大変ですけど、道楽でやっているときって楽しいんですよ。

ゲーム・ホビープログラムコンテスト入賞

――その後、エニックス(現スクウェア・エニックス)の「ゲーム・ホビープログラムコンテスト」で『ラブマッチテニス』が入賞されたましたね。かなり作り込まないとそのレベルまではいかないと思うのですが、ご自身としてはいかがでしたか?

堀井 PC-6001で作ったんですけどメモリが32KBくらいしかないので、たいしたものは組めないんですよ。それで、対戦相手にフキダシでいろいろセリフを言わせることにしたんです。セリフはマンガで書いていて、そのあたりは、お手の物だったんで。そういったキャラクター性を持たせたところがウケたんだと思います。

――でも、それは画期的なことですよね。当時はそういうフキダシがあってキャラがセリフを言うゲームはほんどなかったですから。ほかにこだわったことはありますか。

堀井 コンピューターって実はミスをしないようにするのは簡単で、逆にどうミスさせるかのところでけっこう悩みましたね。そこで人間くささが出るんですよ。

――そこまで考えられていたとは驚きです。そのあとRPGよりも分かりやすいものを先に世に出していこうということで、いよいよ『ポートピア連続殺人事件』に。

堀井 アドベンチャーゲームというものがあるということは知っていたんですよ。ただ、アドベンチャーゲームって作っても自分では謎解きができない。ネタは全部知っているわけですから、やってもつまんない。でも、たまたま『ラブマッチテニス』が売れて、エニックスさんから次を作ってくれという話がきたんです。商品化できるということは、人にやってもらえるということじゃないですか。じゃあアドベンチャーゲームを作ろうと。

――なるほど、そうだったんですね。

堀井 当時はマンガの原作をしていて、コンピューター上でストーリーを作ってみようと思ったのが『ポートピア連続殺人事件』だったんですが、ゲームにするとなると容量がない。短い中でどうやったら人が一番驚くだろうって考えたのがあの犯人なんですよ。「犯人はヤス」っていう。アハハハ、これもイタズラですね。

――でも、ゲーム史に残る名言のひとつですよね。今でも語り継がれていることに関して何か思われていることはありますか?

堀井 いや、ありがたいですね、うれしいです。作った甲斐があったなって。

エニックス社の黎明期を知る男・・・?

――エニックスさんとのお付き合いはその頃からですよね? そのゲームコンテストを始めとして……。

堀井 当時のエニックスさんは雑居ビルの一室でホントすごく狭くてね。しかも、その半分が公団住宅の募集サービス(注7)の業務を展開していました。そんな狭いところにパソコンが13台もあって。

――13台もあったんですか?

堀井 入選作を見るためです。そこで福嶋さん(注8)とふたりの社員さん。計3人でやっていたんですよ。次に移ったところも新宿の小滝橋通りあたりの布団屋さんの2階です(笑)。それが今や社員何千人規模の会社ですからね(笑)。

注7)エニックスは公団住宅の情報誌を発行する営団社募集サービスセンターとして創業された。

注8)エニックスの創業者の福嶋康博氏。現スクウェア・エニックス・ホールディングス名誉会長

――スクウェア・エニックスは規模もソフトもすごいことになっていますよね。でも、そんな黎明期からのお付き合いですね。

堀井 当時のエニックスはいろいろなことをやっていましたよ。お寿司の自動握り機とかね。で、お店を展開するために役員を1年間お寿司のチェーン店に出向させたりとか(笑)。ちょっと早すぎたんですよ。今だったら時代に合ってるのにねえ。

――確かに。もしかしたら、そっちでも成功していたかもしれませんね。

草創期のエニックスはさまざまな事業に挑戦するベンチャー的な企業で、コンピューターゲームの企画や販売もそのひとつだった。同席されたスクウェア・エニックス・スタッフの証言によると、将来有望な事業を探すための会議を定期的に開催していたそうで、指紋センサーの研究などをターゲットにしたこともあったという。 

――ちなみに、『ポートピア』のリメイクというお考えはないですか?

ライター、編集者、クリエイターの三位一体の啓蒙活動

堀井 いや~、ちょっとね…。32KBしかないし、いろいろ恥ずかしい(笑)。今風のアレンジをすれば大丈夫かもしれないですけど……まあ、時間があればやってもいいんですけどね。

――そのあと、『北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ』、『軽井沢誘拐案内』とミステリー作品が続くわけですけど、確か雑誌にご自身で紹介記事を書いて、お客様を呼び込むみたいなことをされていたんですよね。僕の黒川塾でも語っていただきましたが、そこが編集者でありライターでありクリエイターでもあるという堀井さんのひとつの特徴ですよね

堀井 そうですね。たまたま週刊少年ジャンプで『ファミコン神拳』っていうページをやっていましたから。『ドラゴンクエスト』のときも、ゲームが出来上がる前からロールプレイングというものが、いかに面白いか伝えていこうと。それで、『ドラゴンクエスト』を作りつつ、ロールプレイングはこういうゲームで、こうやって遊ぶんだよ、みたいな記事を出していったんですよ。それを読んで子供たちはコンピューターのゲーム機で物語を体験するっていうことにすごい夢を見たようで。早く出てほしいみたいなね。

――それは、すごくいい啓蒙活動になりましたね。

堀井 ええ。だから僕としては『ドラゴンクエスト』は発売した瞬間から話題になっていたと思っているんです。でも、世間的には何か売れるまでけっこう時間がかかったと思われているみたいで、その辺は齟齬があるんですよ。

――実際のところはどうだったんでしょう。

堀井 いや、僕的にはけっこうすぐ100万本いったと思ったんですよ。ただ生産の関係で売切れてなくなってから、次の出荷まで3カ月くらいかかっちゃったんです。その辺の印象があるのかもしれませんね。

――当時のお話をいろいろひも解くと、最初の出荷が50万本ぐらいということだそうですが。

堀井 最初はあまり本数を製造しなかったんですよね…福嶋さんが固くて(笑)。ただ、みんな最初からけっこう楽観的でしたよ。売れるだろうって。だから、『I』を作り終えて、発売を待つ間からもう『II』の制作に取りかかっていましたね。

ゆう帝の由来はあのマンガから…

――ちょっと、話がそれて、僕の個人的な質問なんですけど、『ファミコン神拳』(注9)での堀井さんのニックネーム「ゆう帝」の由来は何ですか?

注9)週刊少年ジャンプのグラビアページに掲載されていたテレビゲーム記事。ゆう帝こと堀井雄二氏のほか『メタルマックス』シリーズの宮岡寛氏(みや王)や『ジャングルウォーズ』シリーズなどを手がけた木村初氏(キム皇)らが記事の制作を担当していた。

堀井 『ファミコン神拳』なんで『北斗の拳』からきているんですよ。『北斗の拳』って拳王とか聖帝が登場したじゃないですか。そこから、ゆう「帝」とかキム「皇」とかみや「王」とかね。だから、ゲームに付ける評価は「あたたたた」っていう。

――なるほど!ちなみに、とみさわ昭仁さんの「カルロス」もそっち系なんですか?

堀井 いや、違います。彼は後から入ってきましたからね。北斗神拳から取ったのは最初の方の人だけ。

――最近またウェブなどで『ファミコン神拳』の活動をされていますよね。

堀井 『ファミコン神拳』の復刻本を出したんですよ。それで、座談会とかして、懐かしかったねえみたいな。ホントにあの頃のジャンプは勢いがありましたよね。650万部とか売れていたんですからね。当時、巻頭カラーページは映画の特集とか載っていましたが、あまり読者アンケート結果がよくなかったんです。でも、それがゲームの記事を載せるようにしてからはアンケートの順位もあがり、『ゼビウス』の無敵モードを紹介したときだったかな? 思い切りマンガを抜いて2位くらいまでいったことがあったんです。そのときはうれしかったですね。

鳥嶋和彦氏の出会いとレベルアップ活動

――実は先日お会いした坂口博信さんが、自分が『ウィザードリィ』を海賊版でプレイしていたとき、多分、堀井さんと当時ジャンプ編集者だった鳥嶋和彦さんは正規版を編集部で遊んで、「こういうのを僕たちも作ってみない?」ってなったのではないか、ということをおっしゃっていたんですけど。

堀井 ええ、鳥ちゃんも僕も『ウィザードリィ』にハマって、ひたすらやっていましたね。打ち合わせは5分で終わらせて、あとはゲームの話をしてました。でも、彼は編集者で忙しいですよね。逆に、僕はフリーライターで時間があるのでマップピングしながら延々やってまして。それで、鳥ちゃんがプレイするときに「はい、マップだよ」って言って渡したら、「え? ありがとう!」みたいな。

――そういうこともされていたんですね。

堀井 そうです。延々レベルアップしてとか。でも、レベルが上がってくると経験値をためるのって大変になるじゃないですか。それで、あのー……セーブデータをダイレクトに書き換えていました(笑)。セーブデータはディスクに書き込まれるので、最初にちょっとセーブしておくんですね。それで、次にレベルアップしたら、またセーブしてどこが変わったかセクターを調べるわけです。で、そこをダイレクトに書き換えてレベルアップとか(笑)。だから楽に進めました。

――うわ~すごい。そんなことまでやられていたんですか(爆笑)!

堀井 最初はちゃんとプレイしていましたよ? でも、そのうちにレベルアップまで経験値が100万ポイント必要とかになって、これはできないなと。

――鳥嶋さんをきっかけに、例えば鳥山明さんたちのお付き合いが生まれていったということなんでしょうか。

ドラゴンクエスト誕生の軌跡(奇跡)

堀井 まあ、鳥ちゃんも僕もRPGが面白いとなっていたので、じゃあ、こういうゲームを作ってみたいねと。それで、中村光一君(注10)もやっていて、じゃあ、一緒に作ろうよっていう話になったんですが、鳥山さんもたまたま『ポートピア』にハマっていたらしいんですよ。ただ、そのとき鳥嶋さんから「鳥山さんがゲーム作りたがっている」って聞いたんですけど、あとで鳥山さんに聞いたら「いや、そんなこと言ってないよ」って(笑)。

注10)不思議のダンジョンシリーズやサウンドノベルシリーズなどを手がけたことで知られるゲームクリエイター。『ドラゴンクエスト』シリーズではプログラマーなどを務めた。

――それ、けっこう有名な話ですよね。

堀井 鳥嶋さんは、編集者として鳥山さんに新しい刺激を与えたかったみたいですね。

――でも、すごい組み合わせじゃないですか。鳥山さんって言ったら、もうその頃すでにすごい人でしたし。堀井さんだってミステリー3部作をおやりになって。

堀井 中村君も天才プログラマーって言われていたしね。あと、すぎやまこういち先生もグループサウンズとかいろいろなところで一世を風靡して。まあ、たまたま集まったんですけどね。

――すぎやまこういち先生はアンケートが来たから連絡してみたっていうお話を聞いたことありますが。

堀井 そうそう。『森田将棋』のアンケートを出したらしくて、それを千田さん(注11)たちが見つけて。一応、助走期間として『ドラクエ』の前に『ウイングマン2』(注12)をやってもらったみたいですね。 PCのグラフィックアドベンチャーゲームですね。

注11)『ドラゴンクエスト』シリーズのプロデューサーを務めた千田幸信氏のこと。

注12)桂正和氏が80年代に連載していた人気マンガ『ウイングマン』のゲーム版。正式なタイトルは『ウイングマン2 -キータクラーの復活-』。

――なるほど。『ドラゴンクエスト』の制作は140日間くらいかかったということですけど、すごく大変だったんじゃないですか?

堀井 いろんなことができたから楽しかったですよ。もちろん、メモリの容量が少なかったので、どんどん切ったりしましたけど。

驚異のコラボレーションとゲーム分業開発のルーツ作品 

――ゲームって今では開発体制は完全な分業ですけど、当時はひとりやふたりで作るというのが当たり前だったじゃないですか。そんな中で『ドラゴンクエスト』の分業体制はすごく珍しかったのではないですか? 

堀井 設計図は僕が書くけれども、プログラムは中村君で、絵は鳥山さんで、音楽はすぎやま先生ってことで、各パートひとりずつくらいだったので、そんなに分業っていう気はしなかったですね。分業というと『軽井沢』を作り始めたとき、アスキーからもう1本頼むよと言われて『オホーツク』も作ったんですが、同時に2本は作れないということで『オホーツク』のほうはプログラムを上野君っていう人に任せたんです。そちらは完全な分業でしたね。

――でも、驚異のコラボレーションですよね。しかも、30年も続いているわけですが、ここまで続くとは……。

堀井 思わないです、全然思わなかったですよ。

――当時はどう思われていましたか。言い方は悪いかもしれませんが、「1本RPG出したよ」くらいのお気持ちでしたか?

堀井 続編を作れかなるとは思っていました。『Ⅰ』は容量の都合などで、やりたかったことをいろいろ切りましたから。でも、「III」くらいまでしか考えていなかったです。5、6年くらいかな、みたいな(笑)。

――それが今や、ここまでと。

30年間続くとは思わなかった…

堀井 そうですね、30年です。あっとういう間にね。

――すごいことですね。

堀井 けっこう珍しいことだと思います。だいたいヒットって10年って言われているんですよね。それがゲームだけは『マリオ』も『FF』も、みんなずっと続いているんですよね。

――なぜ、ゲームはこんなに人気が続くのか、ご自身で思い当たることはありますか。

堀井 やっぱり、それだけみんなゲームに対して思い入れを持ってくれているんですかね。ゲーム単体だけではなくて、当時の思い出なども含めてこうだったとか、ああだったとか。それで、新作が出るとやりたくなるのかもしれませんね。

――ある種世代を超えましたよね。当時小学生だった人はもう40、50歳ですし、その人たちのお子さんも一緒に見て遊んだろうし。そういう意味では全年齢にまで行き渡るくらいのコンテンツになりましたよね。

堀井 娯楽として確立したってことですかね。音楽もサザンとか、かなり息が長いですが、ゲームも同じように人々の心の中に入り込めたのかなと思います。

マニュアルは読まない

――そういえば『ドラクエ』って遊びやすいというか、入りやすいですよね。

堀井 そうですね。直観的に分かるようにするというか、なるべくマニュアルを読まなくてもできるように…っていう工夫はしていますけど。

――堀井さんは常に遊ぶ人の立場でプレイとかゲーム内容を考えているような感じを僕自身は常にもっているんですが。

堀井 まあ、僕もマニュアルは読まないですからね。さわってみて、分からないところがあって初めて(マニュアルを)見るみたいな。体験でいうとマイコンがそうでしたね。当時、すごく分厚いマニュアルが付いてきたんですけれども読まなかったです。読まずに覚えちゃいました。

――よく覚えられましたね。

堀井 多分、読もうとしたら覚えられないです。だから、必要なところだけ。僕はBASICも4つしかコマンドを覚えなかったんです。「INPUT」と「PRINT」と「IF~THEN」と「GO~TO」。それでね、『ポートビア』はこの4つでほとんどできているんですよ(笑)。

――すごいですね! それは堀井さんだからできたんじゃないでしょうか。

堀井 いやまあ、時代がよかったんだと思いますね。

――『ドラゴンクエストII』はカートリッジの容量も増えて、いろんな可能性が増えたと思います。先ほど『I』が終わってすぐ『II』に取りかかったとおっしゃっていましたが、すごく大変だったことはありましたか?

堀井 『II』はゲームバランスを取る時間がなくて。だから、前半部分とラストダンジョンだけバランスを合わせて、途中のバランスはユーザーのみんなに任せることにして、なんとか。僕的には上手くできたと思ったんですけど、中村君は違ったみたいです。(バランスが)キツすぎると。「これはもうダメだよ、大ひんしゅく食らう」と彼は思ったらしいです。

――中村さん的にはもっとバランスを取りたかったみたいな感じだったんですか。

堀井 確かにロンダルキアはつらかったと思いますが、壁づたいに進んで行けば落とし穴に落ちないように作ったりとか、いろんな工夫はしたんですよ。ロンダルキアの洞窟を出ると、すぐ近くにセーブのできる祠があるんですが、アレも最初はなかったんです。でも、すぐに死んじゃうんで、みんなからキツいキツいと言われて、せめて祠を置いてセーブできるようにしようとなったんです。

フリーライターからゲームデザイナーに

――そのあと『ドラゴンクエストIII』に続いてロト三部作が完結するわけですよね。このあたりで堀井さんが自分自身の肩書をそれまでのフリーライターからゲームデザイナーに改めたという話をお聞きしたんですけど。

堀井 そうですね。『III』で社会現象になっちゃったんで、もう本職にしちゃえと思って。ある意味、『II』まではけっこう道楽だったんですよ。ゲームを作ってはいるけど、いずれまたフリーライターに戻ろうかなあと思っていたんですよね。

――当時はまだゲームビジネスと、ゲームクリエイターって、ちょっと不安定なところもありましたからね。

堀井 そうですね。どうなるのか分からないので、ライターという職は残しておきたいと考えていたんですよ。でも、だんだんね。こんな社会現象になって売れているし、こっち本職でいいんじゃないのと思って。

――僕は『I』の頃は、アポロン音楽工業にいて、同僚が『ドラクエ』のサントラレコードやCDを出したりしていたんですけど、その頃からどんどんマルチメディア展開を始めましたよね。攻略本とかCDとか。そういったものを堀井さんはどう思っていましたか?

アポロン音楽工業より販売されたドラクエサントラ 貴重なサンプル盤 筆者私物

堀井 面白かったですよ。攻略本もそうですし、『アイテム物語』(※13)とか、たくさんのものが派生していってマンガも『4コママンガ劇場』とかね。あれもすごく売れたんですよね。いろんなアイディアが生まれたりとかして面白かったですよ。

注13)『ドラゴンクエスト』のアイテムにまつわるエピソードをまとめた短編集。1989年にエニックスより発売された。

――ちなみに、「遊び人」は堀井さんの遊び心ですか?

堀井 はい、そうです。何か1本ね、ちょっと抜きたいんですよね。それがイタズラ心か何か分からないですけど、余裕がないとつらいかなと思って。たとえばDQⅪでも、自分でしばりプレイを設定できるシステムが入っているのですが、このしばりプレイのひとつが、そんな感じです(笑)。情報が公開されたら見てみてくださいね。

[Wユ1] ――すでに30年間、『ドラクエ』に関わってきたわけですが、今はどのように感じられていますか。

堀井 作っているときはいろいろ大変で、長く感じていました。でも、振り返ってみるとけっこうあっという間でしたね。ずっと忙しかった気がしているので、なんでかなあと思ったら本編の合間、合間に出た『モンスターズ』などの作品も僕は全部見ているんですよね。だから忙しかったのかなあと思って。ついつい見るとやっぱ手を入れたくなって、ああだこうだって、やっちゃうんですよね。

――いまだに作品は全部チェックされているんですよね。オンラインでも遊ばれているし。やっぱりご自身がゲーム好きなんですね。

堀井 今回もね『XI』の忙しい合間をぬって『ゼルダ』にハマっちゃって、スイッチでえんえん遊んでいます(笑)。やっぱり楽しいですよね、ゲームは。

――ちなみに、ほかのゲームからインスパイアされることも多いんですか?

堀井 どれがどれってわけじゃないですけど、けっこう影響は受けているんじゃないですかね。いろんないいところ、悪いところ。こうやっちゃいけないんだっていうのもあるしね。

――それも堀井さんのアイディアの源泉のひとつですかね。

堀井 そこは便利さであったり、やりやすさであったりするんで、アイディアとはまた別ですね。人が何に喜ぶかとか、どこを楽しませるかっていうのは、いろんなものを見て。けっこう僕ね、テレビドラマを見ているんですよ。週に3、4本は見ていますね。

――いわゆる地上波の夜の9時台とか10時台にやっているものですか?

今ハマっているのは、『あなたのことはそれほど』

堀井 そうですね、月9とかそういう。今ハマっているのは、『あなたのことはそれほど』。けっこうホラーなんですよね。ダンナがすごいことになっちゃっていて(爆笑)。

――意外な感じがしますよね。堀井さんは書籍や映画の方が中心なのかと思っていました。

堀井 映画も好きですけど、テレビは気楽に見られるからけっこうハマっちゃうんですよね。海外ドラマも好きで録りだめて見だすと止まらなくなっちゃうっていう。

――それが高じて舞台劇とかもやられているとか、そういうことはないですか?

大好きなダイビングを楽しむ

堀井 あれはたまたま、付き合いで出してもらっているだけです。ただ、舞台も好きですよ。学生時代は『状況劇場(注14)』とかよく見に行ったんですよ。あと、『大人計画(注15)』も売れる前はけっこうよく見ていました。劇も劇で面白いですね。

注14)唐十郎が主宰していたアングラ劇団。麿赤児、不破万作、根津甚八、佐野史郎などを輩出した。

注15)松尾スズキが主宰する劇団。主なメンバーは宮藤官九郎、阿部サダヲ、宮崎吐夢など。

――だんだん堀井さん世代の現役クリエイターは少なくなってきていますけど堀井さんは生涯現役ですか。

生涯現役でありたい

勇者ヨシヒコの出演者の皆様と記念写真

堀井 今はスタッフがけっこう育ってくれて任せている部分もすごく増えてきて、ある意味けっこう仕事をしやすい環境になったので、できればやっていきたいと思いますね

――ちなみに、今は1日にどれくらい仕事をされているのでしょうか? テレビドラマがけっこうボリュームを占めているというお話があったし、『ゼルダ』にもハマっているということでしたが…。

堀井 今はマスター出しも近いので、ただひたすら『XI』のロムをえんえんテストプレイしてますね。あとはいろいろ考えたりするのも仕事なので。まわりから見ると、ぼんやりしてるようにしか見えないかも知れませんね(笑)。

――その『ドラゴンクエストXI』が2017年7月29日に発売になります。スタンドアローンタイプで原点に戻られたという感じもあるのですが、何か特別な思いがあったのでしょうか?

堀井 30年間のいろんなことを詰めた、『ドラゴンクエスト』の集大成であると同時に新たなる原点にしたいなと思って。ハードもPS4と3DS、そして3DSでは3Dと2Dで画面が進化しているのを同時に見られるとか。

――なるほど、そういう比較は面白いですね。

堀井 2Dは2Dでいいなあと思うんですよ。だから好きなモードでやってもらったらと思います。「ふっかつのじゅもん」も入れたし。

「マニュアルが不要なゲームを作ってください」

大阪 戎橋にて

――ある種、クラシックなところと最新のものを融合という、うまい組み合わせですね。ちなみに、堀井さん自身がすごくお好きなゲームというのはなんでしょうか。

堀井 ちょっと前まで『ファミコンウォーズ』をまたやっていたんですよ。『スーパーファミコンウォーズ』とか。3DSでスーパーファミコン版のバーチャルコンソールが遊べるようになったので、久しぶりにまた遊んでしまいました。あれね、いいストレス解消になるんですよ。頭の中が空っぽになるんで、寝る前や仕事をした後に頭をクールダウンするのにちょっとやったりして。

――『ファミコンウォーズ』が好きというクリエイターの方はけっこういますね。でも、そこまでやり込めるのはやっぱりゲームが好きだからでしょうね。

堀井 最近の人もやる人はすごいやり込みますよね。『モンスターハンター』とかすごく難しいゲームですけど、あれが200万、300万本売れるってすごいなと思って。

――スマホのゲームとかは遊ばれたりするんですか?

堀井 『キャンディクラッシュ』。ちょうどいいヒマつぶしになるんですよ。

――クラシカルなゲームを遊ばれているんですね。では、最後に若い作り手、もしくはこれから堀井さんのようなクリエティブを目指す人にアドバイスをいただけますでしょうか。

堀井 多分、いろんな面白いものを作ってもらえると思うんですよ。ただ、僕はマニュアルを読まないんで、マニュアルを読まなくても遊べるゲームを作ってください、ハハハハハ。

――でも、やっぱりそれは大事ですよね。

堀井 感覚的に「ああ、なるほどね」っていう感じで遊べれば。それで楽しめるゲームがいいですね。入口の敷居が低くて、でも奥の深いゲームを期待しています。

写真 北岡一弘

(取材後記)

堀井さんはいつも人を楽しませてくれる。このようなメディア・インタビューであっても、トークセッションでも、参加した人や、一緒にいる人を和ませ楽しませようとしてくれる。もちろん堀井さんが生み出したゲームソフトにもその気持ちが強く反映している。それらは無理してそうしているというものではなく、自然にそうなっているのだと思う。

今回の取材は『ドラゴンクエストXI』のマスター段階という一番忙しい時間を縫って対応していただいた、堀井さんに感謝するとともに、対応ならびに調整をしていただいたスクウェア・エニックス社の担当者の皆様にも深く感謝を申し上げたい。

今回も御高覧いただきありがとうございました。以下は有料になっていますが、お礼のテキストのみです。このゲーム考古学の活動に賛同いただける方はご購入いただけると幸いです。
出展:エンタメステーション エンタメ異人伝
写真:北岡一弘
取材協力:仁志陸 (久保等)


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