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顔を見て話す事、先入観を持たない事、届けたい層に届ける事、加害者の仮面も被害者の仮面も想像する事。発信する事の恐怖を取り払う事。

 社会課題に対しての活動をしていく中で、社会彫刻として上手くいく場合と、それが失敗に終わる(伝えたい層に伝わらずに終わる)場合があり、そこで重要になると考えている点を自分なりに整理しておきます。


 社会彫刻が上手くいく大前提として、例えばアーティストのバンクシーのように分かりやすく作品を通して社会に対するメッセージを発信することで、そもそもの活動自体を知ってもらう事も必要です。逆にダイバーシティフェスというような枠の中で発信する事は、そもそもそのフェスに関心がある層に殆ど限られる事は誰しも分かっていると思います。
 その際、その活動自体が活動者以外(特に関心が無い層)に波及していく為には、個々人が社会に対して発信する時に生じる恐怖(コンフォートゾーン:居心地の良いぬるま湯、からの脱出)をうまく払拭できるような仕組みづくりが往々にして求められると感じています。
 というのも、ダイバーシティについて対話する、という機会を経験してきている人が殆どいないからです。ここ数年で声高に叫ばれている事も、関心が無い層からするとちらほら耳にしてきた程度だと考えられます。(その事実をSNSのいいね、くらいでしか判断できないのも事実ですが)
 例えば小学校や中学校で「心と体の性別について考えよう」とか「なぜ女の人の政治家や社長は少ないんだろう」とかいった議論を経験した層が今はまだ大人になっていないと思うんですね。
 そうした中で、ダイバーシティについて急に身近な人と話すというのも心理的なハードルが中々に高いですし、それが赤の他人ともなれば尚の事難しくなります。(人によっては逆の場合も)

 その際にこの心理的なハードルを飛び越えられるだけの理由、もしくは場作りがかなり重要になってきます。自分にとって大切な人間が関与している、という事が理由になる事もあれば、その問題について発言する事が自然とされる場づくり、が上手くいく事もあります。
 そして、対個人ではなく対社会においては後者の方が影響の範囲から考えても、実現可能性を考えても大切になります。

 こうした場を作り、本質的な議論をする上で必要な事は、顔(映画E.T.でいうところの大人の顔が見えない=敵)
がとても大切で、逆に不必要になるのは外見からくる先入観があります。ここでいう顔、先入観というのは下記のようなイメージです。
顔:対面して対話すること、匿名性が無いこと、心理的安全性があること
先入観:肌の色、言語、容姿、声のトーンなども含む

 同時に、例えば性被害において、被害者の会の声が公になったり、意見を求められることはあれど、加害者(もしくは加害者になりうると自覚している)側の意見を求められること、そこに対してのアプローチはまだまだ弱い事も課題の一つとなります。
 そして、あらゆる問題に対して答えを出すことよりも、それを対話する仲間がいる事の方が大切だし尊いとも感じています。
 なぜなら答えは時代と場所によって変動するものであり、答えを信じ切っている時ほど人を傷つける事が往々にあると思うからです。

 仕事においては、どこの対象に向けて発信するのか、それは届く手法なのかといった当たり前なマーケティングの思考をする事が当然ですが、ここが意外と無視されてしまうケースが多いと捉えています。

 マーケティングでいうところのペルソナ、は実在する存在なのか疑念が抱かれますが、心理学でいうところのペルソナ、は実在すると考えています。この個々人が使い分けているペルソナに対象を絞りつつ、上手くそのペルソナを外してあげる場づくり、これをしていきたいと考えています。

 思考の整理として、この事についてはしばらく書き留めていきます。

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