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意思決定者が健常者だけの組織が、「障害の概念を変える」と謳うことに障害のある方が怒りを覚えること。ダブルバインドとアウフベーヘンの話。

 意思決定者に健常者しかいない組織が、事業を通じて「障害の概念を変える」と謳うことに障害のある方が怒りを覚えるということは往々にして分かる。

 伊藤亜沙さんの著書の中でも、障害のある方に「障害を持たずに生まれてきたかったか」と聞くとNoと答える人が殆どだったという話もあった。これもよく聞くこと。理解もできるし腑にも落ちる。「障害」それ自体がアイデンティティになっているケースもあるし、別に障害に限らず挫折や恵まれなかった家庭環境が今のアイデンティティを形成して自己肯定に繋がる心理状態は自然なことだ。父との辛い経験も、今の自分と周りの人間を愛せる糧になっているから、生まれ直したいとは思わない。

 そうしたマクロな視点や実際のリサーチと、平均値と中央値の行き来をしながら、大枠の概念を捉えていく必要がある中で、自分の家族の事例だけを見て、同じ障害について分かったような気になっていることは違和感しかない。分かろうとする努力をし続けながらも、永遠に分からないものだという前提に立てないケースもよく直面する。

 一見、想いが強い人間は自分の中の正義と物差しだけで人を推し量ろうとする。無意識に。障害をなくすとかなくさないとか、本人が選択できる世界線は見たいけれど、誰かに押し付けるつもりもない。ただ、他者の目線に立って対話し続けることで互いの視座が変わる経験はあると信じている。

 父が「引きこもり」というラベルをつけられた時の異常な断絶感とまではいかなくても、私も「本を読まない人」に対してバイアスがかかる時もある。勉強をしないで「障害福祉」を語っていることにも強い違和感を覚えることはよくあるし、「道に唾を吐く人」というだけで嫌な人だと直感的に思うこともあるけれど、その人の本質はそれだけでは見えなかったりすることも分かっている。

 学のない正義、実践のない正義、他者の目線に永遠に立つことのない正義。そうした正義を大小問わず無意識に振り翳しているのだとしたら、心一杯に懺悔をして、許されたという気持ちの中に再び生きて、改めて努力をしなければならないとつくづく思う。

 偶々、その人がその思考にいるだけで明日には変わっているかもしれない。そう考えていかなければ、自分の正義を当たり前のように振り翳す人間、永遠に相手の立場に立てない人間と対話することはできない。この違和感を払拭していく術を身につける時期に来ているように感じている。

 明日死んでも良いように日々生きようと思う心と、100年先に新しい景色を見るために明日も生き延びようというダブルバインドで考えられるようになったのが最近の進歩。ここ数週間の素敵な出会いに感謝している。

 アウフベーヘンだけでは足りないし、ダブルバインドだけでも足りないので、その両方を持って他者と関わること。永遠に分かりきったような口を聞かない謙虚さを持って、「道に唾を吐く人」も「本を読まずにその事象を語る人」も「ダサさを認識できていない人」も全て理解し、否定せず、時には協創しあいながら時には大きく距離を置いて、互いに好きなように生きていけばいいと思いつつ、協創する時にはやはり相手への想像力を最大限に働かせたい。

 本気で新しい景色を見るためには日進月歩の早さを超える心づもりで、自身の人間性を拡張していく必要がある。そして、1年前と何も変わっていない人間性も愛しながら、それを侮蔑し叱咤することも、目的によっては必要になってきている。

 

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