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アートがアートとして伝わる瞬間の探求:「イメージ、それでもなお」

 毎年、「夏の雲は忘れない」「夜と霧」「失敗の本質」などを読み返すこの時期。その中の一つとして、「イメージ、それでもなお -アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真-」を取り上げておく。やたら高値になっているのはリヒターの影響かと思いつつ、よりアートを好きになったきっかけでもある良書。読む度に印象が変わるタイプの本では無いけれど、常に自分の中に記録し続けたい本ではある。

貸出中なので返ってきたらまた読み返す

 美術史家であり哲学、神学、精神医学などを研究するジョルジュ・ディディ=ユベルマンの著書。タイトル通り、アウシュビッツでの4枚の写真についての記録から考察されている。各写真は、ホロコーストの特定の瞬間を捉えており、それぞれが異なる視点と経験を提示している。

 写真1: 一群の囚人が列車から降りて、収容所に到着した瞬間を捉えている。背景には、既に収容所に到着している他の囚人たちが見える。
 写真2: 囚人たちが服を脱がされ、収容所の生活に向けての準備をしている様子が映し出されている。。
 写真3: この写真は、収容所の日常生活を描写している。囚人たちが行列を作り、食事を待っている様子が見られる。
 写真4: 最後の写真は、囚人たちが働かされている様子を捉えている。

 ディディ=ユベルマンが「イメージ、それでもなお」で行った分析では、彼はイメージの現実への影響と、特にホロコーストという極めて悲惨な歴史的瞬間におけるその力を強調している。

 それぞれの写真が強制収容所での生活の断片を捉えている一方で、ディディ=ユベルマンはこれらの写真が単なるドキュメンタリーではなく、その時代の悲惨な現実を物語る強力な表象であると主張しており、これらの写真が見る人々に与える強烈な影響を通じて、イメージが現実の理解と解釈をどのように形成するかを考察している。

 アウシュヴィッツからの4枚の写真を通じて、ディディ=ユベルマンは、写ながら、彼はこれらの写真が現実の再現でありながら、視覚的な表現としてのその価値を超えて、特定の歴史的文脈と関連づけられ、新たな意味を生成するための表現となることを認識している。彼の分析は、単なる視覚的証拠としてではなく、ホロコーストという極めて困難な歴史的瞬間を理解するための「道具」や「手段」としてのイメージの可能性を考えるきっかけになる。

 また「像(イメージ)の現実性」が、事象や場所、時間の過去や現在の理解を深めるための重要な要素であると強調されている背景として、像が表現する現実は、一方で具体的なもの(例えば写真に写っている物や場面)であり、一方でそれはより抽象的な概念(例えば戦争の恐怖や喪失感)を表現していると主張している。これらの要素は、像が視覚的な証拠として機能するだけでなく、我々が歴史を理解するための重要な媒体となっている理由でもあり、それこそビルケナウとしてゲルハルトリヒターが作品にした理由でもあると考える。

 像が如何にして現実を再現し、視覚的な証拠として機能し、それらがどのように我々の歴史の理解に影響を及ぼすかについて深く掘り下げていく。これにより、我々は像を通して歴史をどのように解釈し、理解するかを深く考える機会を得ることができる。
 
 「像と記憶」が密接に結びついていると認識することで、像(特に写真)は過去の瞬間を「永続化」するためのツールであり、それによって特定の瞬間や出来事を思い出すためのアンカーを提供する。この考え方によれば、写真や画像は単なる視覚的証拠だけでなく、個人や集団の記憶を形成し、維持するための重要な媒体となっている。その意味で、像は記憶の「外部化」であり、それらを通じて我々は自己や他者、そして世界を理解し、解釈することが可能となっているのだ。

映像的思考についての探求

 映像的思考とは、視覚的な情報を通じて理解を深め、新たな知識や洞察を得るための思考の方法の一つ。それは「見る」という行為が単なる受動的なものから、能動的なものへと変換される過程を指している。

 『イメージ、それでもなお』で取り上げられている4枚の写真は、この映像的思考のまさに具体的な例と言える。これらの写真を観ることで、我々は単にアウシュヴィッツの景観や出来事を知るだけでなく、その背後にある社会的、政治的、歴史的な脈絡を理解するアンカーを得られる。また、それは我々が自己の思考や理解をどのように構築するか、視覚的な情報がどのように我々の知識や理解に影響を与えるかを理解するのに役立つ。

 尚且つ特定の歴史的瞬間を、帝国主義と資本主義の視覚的表象として解釈することができる4枚の写真。視覚的表象は、しばしば文化、社会、政治、経済の状況を反映している。これらの表象は、観察者が特定の状況や事象を理解するのに役立ち、その意味で、ディディ=ユベルマンの4枚の写真は、戦争、帝国主義、資本主義、そしてそれらが引き起こした人間の苦しみという特定の歴史的瞬間を、たった4枚のイメージによっって反映している。

 これらの視覚的表象を通じて、ディディ=ユベルマンは観察者に対して、アウシュヴィッツの過去と現在、そしてその象徴するものを問い直すよう促す。これは、視覚表象が我々の歴史的理解と知識の形成に果たす役割の重さを再認識させてくれる。しかし、これらの表象がどのように解釈され、再構築されるかは、観察者や社会の文化的、政治的背景にも大きく影響されてしまう。これは、写真が単に過去を記録するだけでなく、現在と未来を形成する重要な役割を果たすことを示しながらも、ただ事実を伝えるだけでなく、観察者に対して感情的な反応を引き出し、思考を促すことで、その出来事の意味を深く掘り下げるための機会を提供することになるのだ。

見ることのエチカスについて

 エチカスは大きく分けて三つの分野から成り立つ

  1. ノルマティブ・エチックス: 何が正しく、何が間違っているのかを決める原則や規範を研究すること。個々の行動を評価し、それらがどのように行われるべきかを決定する。

  2. メタエチックス: 善悪、正邪、義務などの倫理的な概念自体の意味や性質を探求すること。これはエチカスの一部として、倫理的な声明が何を意味し、どのように真実性を持つことができるのかを問う。

  3. 応用倫理: 特定の実践的な問題や問題に対する倫理的な回答を見つけること。この分野は具体的な状況や問題(例えば、医療倫理、環境倫理など)について考察する。

 「イメージ、それでもなお」における「見ることのエチカス」は、この応用倫理の一部とも言える。彼は具体的な状況、つまり恐ろしい歴史的出来事を描いたイメージについて、どのように対応すべきかという問いを投げかけているからだ。

 その中で彼は、私たちが苦悩を描いたイメージに直面したとき、それをただ受け入れるだけでなく、そのイメージが生まれた文脈や、それが我々に与える影響を理解し、その上でそれにどう対処するべきかを考えるよう求めている。これは、一見すると非常に抽象的な問いだが、具体的なイメージを見つめることで、その写真がどのような状況で撮影されたのか、撮影者は何を意図していたのか、また見る側がどのような感情や反応を抱くべきなのかなど、さまざまな視点からそのイメージを考えることが求められる。

 これはイメージに対する倫理的なアプローチであり、イメージがもつ力や影響を理解し、それに対する適切な反応を模索することができる。この本は2006年の本だが、昨年あたりにゲルハルトリヒターが「ビルケナウ」を制作したことから、再注目されているかもしれない。

 イメージがイメージとして伝わる感覚、言語で世界を認識している殆どの人間からするとどうしてもここに記したような理屈や言語での想像力が働いてしまい、無駄なバイアスを除去するステップが必要になるが、ビルケナウのようなアート(イメージ)としての昇華により、人々がその背景も知らずにイメージを感じるシーンが見てとれて非常に興味深い。

 ゲルハルト・リヒターの展示ももう一度観たい。一年前なのに記憶がもう曖昧模糊としているので、メモに残しておいたものも整理しておく。

ビルケナウ鑑賞時のメモ
ビルケナウ鑑賞時のメモ
ビルケナウ鑑賞時のメモ

 偶に、1年以上経っても問いの答えが出ていないものもある。どこかの瞬間で偶発的に答えが出るものなのか、まだ経験と知識が足りていないのか。恐らく後者。


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