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アートとしての「現代の襤褸」/楽器修理の継ぎ接ぎと新しい美意識。

 襤褸の文化がとても好きです。「ボロ」の語源でもあり、「らんる」とも呼びます。日本の襤褸(らんる)文化は、資源が限られた時代ならではの持続可能な生活の一環として、布を再利用する習慣から発展しました。古布を層にして縫い合わせることで、暖かさを保つ方法だったそうです。

 襤褸と現代では稀な美意識について

 襤褸の中でも特に、「さし継ぎ」や「刺し子」といった美しさと機能性を併せ持った技術が発展していきました。

 襤褸にとても惹かれるのは、茶道を経て体感した侘び寂びの文化を強く感じる、独特の美意識がそこにあるからだと思います。不完全さや余計なものを削ぎ落とした風雅な深い美しさ、経年変化の中で生まれる風合いや趣を美しく感じる心のあり方を大切にできる人とは、茶道の外の場面で出会うことは稀です。それほど貴重な美意識です。

 特に、襤褸は農村の貧しさから自然と生まれた文化で、誰かが文化的に広めようとしたわけではなく、民藝ともまた違った文脈で、僅かに現代にも息づいている文化であり、それが現代哲学まで昇華した偶発的な例だと捉えています。サステナブルファッションの流れのお陰で、少しだけ注目されるようになってきましたが、その背景にある美意識とはまた異なります。

ヘラルボニーと襤褸(勝手な妄想)

 ヘラルボニーの2,500点以上のアートデータに基づいてそれぞれの生地や素材で「さし継ぎ」を施しながら、「障害の概念を拡張する」という思想を持つヘラルボニーの襤褸が、親から子へ「おさがり」として受け継がれるファッションスタイルを生むことができれば、非常に持続可能で素晴らしい世界が実現するとも思います。

現代の襤褸とは何か?

 本題は別で、「現代の襤褸」について考えたことを記しておきます。最近はエンジニアリングとテクノロジーが異様に発達してきたので、「直せるもの」と「直せないもの」の差が凄く大きくなってきたように思います。私が小学生の頃(Windows95〜2000)はPC本体も組み立ては容易でしたし、修理自体もハンダづけができれば可能でした。但し、iPhoneやMacbook以降のメカニックには全く手が出ません。(せいぜい画面修理が限界)

 壊れたものを自分で直すことができて、新しいものを買う必要がなければ、無駄なお金はかからないし、何かを作る時も材料費だけで済むと、大したお金をかけずに済みます。IKEAのプロダクトが好例です。かつマニュアルも無しになるともっと安くなります。

 先日、自転車の修理に3,000円程度かかると言われましたが、少し調べたら自分で修理ができました。その後自転車屋さんに診てもらいましたが、全く問題ない状態だということで、エンジニアリングへの意識ひとつで3,000円稼ぐ側にも回れるのだなと改めて感じました。

 唯、今時の考え方をすると、自転車の組み立てに3時間かかってしまったら時給1,000円なので最低賃金より安くなってしまいます。凄く苦手な考えですが所謂「タイパ」とでも言いましょうか。時間をお金で買う場面も確かに大事でありつつ、壊れたものを直したり、自分でつくったりすることでかかる時間には、継ぎ接ぎの過程で会得する技術やモノへの愛着、構造の理解、そこから発露するアート性やモノへのホスピタリティという意味で付加価値が高い消費の形を感じます。これを「現代の襤褸」だと感じました。

 24時間余すところなく無駄な時間のない人が、「タイパ」を意識してお金を使うのは違和感がありませんが、プロセスを楽しむことのできる余裕がある時は、敢えて時間をかけてモノづくりをしたり、モノを直したりすることに価値があると思います。金継ぎや手編み、敢えて時間をかけた移動手段なんかもそうですね。

蛇足で思い出した話…

 「つくるのが一番安い」「お金は価値が変わる」というと植松努さんの「思うは招く」を思い出します。(何度観ても感動してしまう…)
 私もお金が無い家庭でかつ家で孤独だった時期こそ、様々な工夫を学んだのだと思います。

楽器修理で感じた現代の襤褸

 最近で一番、愛着が湧いた例は楽器です。数年前にも、ジャンク品扱いされるようなエレキベースを修理して、新品を買うと数万円するところ数千円程度で良い音が鳴る自分だけのエレキベースにすることができました。その前に頑張って買った新品の少しお高いベースよりも、修理したジャンク品をお気に入りになったのが不思議でした。

大昔に直したジャンク品

 つい先月、ジャンク品(一部欠損、破損して音が出ない)の楽器を預かり、自分で修理をしてそのまま使うことになりました。蓋を開けてみたら何てことはない、素人の人でもChat GPTとAmazon(私は秋葉原の部品屋さん)を駆使すれば直せるレベルの破損具合でした。直せてしまったお陰で部屋は少し狭くなりましたが笑、直す過程で音質を調整したり、振動を抑えたり、色を塗り替えたり、エフェクターを内蔵させてみたり(これは失敗)、色々と遊ぶことができて楽しかったです。

 衣服を継ぎ接ぎしたり、最初から襤褸風に見せた数十万するファッションブランドに「侘び寂び」は感じませんが、楽器の修理やPCの修理には「現代の襤褸」とも言える侘び寂びを感じます。何故そう感じるかは、基盤や組み立ての工程でアートを感じるからではないかと思います。

超安価かつジャンク品でも直し方で良い太さの音が出るから愛着が湧く

襤褸から昇華する消費の形

 「機械を直す」というと、凄く技術的な感じがしてしまいますが、そこにはアートの要素もサイエンスの要素も、勿論マスマティックスの要素もあり、またモノに対するホスピタリティも問われます。根気強さがいる場面もあるし、失敗することも多々あります。モノと対話する感覚で向き合うと、所謂「買った時が一番嬉しい」という消費社会のドーパミン的モノ消費ではなく、それはコト消費に転化し、自分が直したものというイミ消費にまで昇華していくからかもしれません。

 これからiPhoneの新型が出ても、新品では買えない層が日本で増えると思います。ローンを組んでまで買う必要性もないのに、何故かiPhoneはローンで買う人が多いです。そうした影響の中で、自然とiPhoneを自分流に直して使い続けようとする現代の襤褸文化が生まれていくのか、もしくは永遠にゴミを生み出し続ける社会から脱皮できなくなるのかは分かりません。延長線上で考えると、「安いiPhone」がまた違うメーカーから出回るのが自然な流れでしょう。

 唯、そこに根気強さと知識、少しばかりの時間を見つけて修理をするという概念があれば、新しいイミ消費を感じることができると考えています。昔はデザインフェスタや小さなギャラリーでよくそれを感じていましたが、最近はエンジニアリングに寄ったアート、つまりメディアアートを超えるものを、日常の中で自分で作ることが豊かさのように感じています。

修理と襤褸のお陰で再開した夢

 兎に角、学生ぶりにドラムを叩く環境が生まれたので、数年前にノートに書き記した「ドラム演奏でジャズライブに出る」という夢もどこかで叶うと思います。ペット可の防音部屋にわざわざ引っ越しておきながら、同棲解消、ペットはまだ飼えない、という連鎖がこんな形で良い環境になるとは思いもよりませんでした。こんなところでも"connecting the dots"ですね…

 これから練習して、叩けるようになりたい曲は沢山ありますが、世代柄かいまだに「君の知らない物語」のドラムを叩くのが一番好きです。20代も終わってしまいましたが、「どうせ無理」と言われる声は無視して、またライブハウスでドラムを叩ける日を目指していこうと思います。

 幼少期に折られた様々な精神性を取り戻しながら、豊かな後悔を取り戻していく30代になっていけるよう努めます。

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