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『何者か』でなくても良い

 どんなに良いものを作っても、どんなに良いものを発信しても、『何者か』でないと届かない事って多分にあると思います。

 同時に、何者でなくても、良いものが誰かに届けば『何者か』になり得ると思います。

 まあどっちもありでケースバイケースですね。世の中の事で二者択一の事なんて殆どありません。ただ個人を発信できる事が容易なこの時代に、『何者か』になることが目的化している事が多くなってしまう危機感を覚えます。

 これはいつでも自分に起こり得る危険だと思っています。手段が目的化してくる事。何が危険かって、手段が目的化すると他人ありきなんですよね。楽しくないんですよね。時間の浪費。縛りが増えるだけ。無駄に考えちゃう。

 『絵を描いて発信する』事って手段ですよね。目的は『共感してもらう』事だったり『絵で稼いで生きていく』事かもしれない。手段が目的化してくると、絵を描く事だけが目的になって、共感ポイントを逃したり、逆に共感して貰うために大衆化していき、絵を描く楽しみを見失ったり...行ったり来たりしちゃって、世間の反応に疲れきっちゃうと思います。

 私がnoteで発信する理由は表現したいから、共感者に出会いたいから、何ですけど突き詰めると表現しないと死んじゃうからだと思います。笑
やりたいからやってる、それだけ。

最近『何者か』になれ!なろう!て風向きが強い気がするんですが、何者にもならなくて良いと思います。

 例えば芸能人のベッキーさん。世の中の『ベッキー』のイメージが綺麗だったもんだから、1つの失敗で『ベッキー』ではなくなっちゃいましたよね。

 でも彼女の失敗って、全然理解出来るし、人であれば可能性はあるし、倫理観や道徳に負ける事なんて誰にでもあります。何者かになるとそこにイメージだの立場だの余計なしがらみも生まれる。『ぼくのりりっくのぼうよみ』さんが人間辞職というパフォーマンスで芸能から退いたのも、ここにあると思います。

 逆に『何者でもない』事は自由で、その時々に好きな事が出来て、自分に正直な生き方が出来ると思います人に定義される必要がない。
『何者か』の肩書きが欲しいなら自分で思い込んでるだけで良いんじゃないかな。笑

というのも、世の中に『失敗してもいいじゃん』て空気をもっと蔓延させて、転ぶ事に慣れる人が増えて欲しい。楽しそうだから。

善悪は二者択一ではないし、誰しも判断を間違えたり、倫理観に負けたり、昨日と今日で考え方が変わったって良い。
私も今こんな事を言ってるけど、明日とある人にあったら考え方が変わっているかも。笑 でもそれで良くないでしょうか?

 『何者か』は自分でも世間からもどんどん縛りを増やしていくだけなので、何者でなくてもいい。やりたいことを素直にやって、転んでる人がいたら見かけた人が手を差し伸べましょう。

『自分もダメな所があるんだから、隣の人のダメな所も許しましょう』

人は成長する。自分探しでない、自分無くしをしていきましょう。あなたはそこに存在しているのだから。
1つに縛られずとも自由に生きても、あなたはあなた。探す必要はない。決め打ちしたら不自由になるだけ。

 因みに私の大好きなアーティストのMIYAVIさんの著書『何者かになるのは決してむずかしいことじゃない』ていうのがあります。
大好きな彼と意見が違う事もそれで良いんです。また久し振りに読んでみます。笑

#コラム #仕事


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