江戸のような富士山景は近いのだろうかと考えつつ、それを伝える術を知らない
中国のスモッグが激減したり、NY原油価格が初のマイナスになったように(1セントの数字を見た時は爆笑した)、地球の環境は良くなっている。
とはいえ、あまりにも経済的な自粛が続きすぎると、出来るはずの環境対策が後回しになりそうなので、結果マイナスに働く気もしている(体感の域をでないので無視)
祖母が医療崩壊に近い煽りを受けていて、本来すべき治療が後回しになっている上、医療現場での感染や今後の不安からかなり心配な状態になっている。自分も在宅のお陰で、電話は割と頻繁にしているんだが、明らかに様子がおかしくて日々自分も落ち着かずに過ごしている。
そんな中で、山登りが大好きな彼女が、富士山をもう一度見たい(し登りたい)という話を良くするので、どうにか出来ないかと考えて、取り合えず描いてみる事にした。
キャンパスは四角いのが嫌なので形は変形させる事が多い
逆さ富士を見たことないんだこれが
富士山といえば松とペアかなという謹賀新年的な
蛇足とはこういうことだ...
よく勘違いする人が滅茶苦茶多いんだけど、アートに対しての胆識と、アートを作る技術は比例しない。絵を描けなくてもアートの深い理解は出来るし、逆に絵が上手でもアートを全くわかっていない人もいる(後者はとても多い) けれどこのスキルだと、言い訳にしか聞こえない...笑
上手く描けた作品を祖母に贈ろうと思ったのだけれど、これなら近くに行って一眼で撮ったものの域は超えられないので、もう少し練習してみる。
文脈としてのアートや現代アートを作る機会ばかりで、写実してこなかったのを反省している。
分かろうとしてもらっていないスタンスで富士を描いても、きっと祖母には伝わらない。。。
富士山の景色を綺麗!!と思ったとしても、それを写真以上にマスに伝える技術を知らないのだなと思いつつ、ほかの事を何も考えられない作業は、モンハンで只管モンスターを刈る行為のようで、楽な一日だった。
因みに文脈込みで、頭の中だけを描くといつも通り誰にも愛されない作品になる。(そしてやはり技術も必要だ....)
最初に描いた富士。
頭の中の富士。
過渡期の作品も気にせず遺しておこうと思っている。
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