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夏の雲。原爆ドーム。黒い雨。絵。小学4年生。全てを刻む。忘れられないこと。

「げんしばくだんがおちると ひるがよるになって ひとはおばけになる」(小学3年、坂本はつみさん)

 8月9日。丁度20年と3日前に広島の原爆ドームを訪れた。10歳の頃。20年と3日経って、またこの場所で、自分を駆り立てる経験をするとは当時は思ってもいなかった。20年も後のことなんて想像すらしなかった10歳の頃も、60年近く前の戦争の時代に心を置くことはできた。

 20年後の自分がどういたいかなんて、10歳の頃の自分が「赤門をくぐってJAXAに入った後にNASAで研究をしたい」と言っていたこと以上にあてにならないことだ。東大は受験すらしていないし、今は20年前の愛読書Newtonすら読まなくなってしまった。唯、その夢を置いてきたのは原爆ドームを訪れた経験があったからこそだ。ずっとずっと、曖昧模糊としていた小学生の頃の記憶と、それでいてガラスの断片的に強く突き刺さっていた感情の理由を、思い出すことができた。夏の暑さと、土の香りと、祖母の声と、色々なものが重なったからかもしれない。

一生けんめいすると、何でも面白いと思った。
梅北トミ子さん

 20年と3日前から、「今ここで、死ぬかもしれない」という、えも言われぬ焦燥感と共に生きながら、必死に生きてきたと思う。理不尽な生と向き合いながらも10代で2回の自殺未遂を経験したのも、その後もここには記したくもない、酸いも甘いも噛み分ける日々を過ごしてきたことも、どこまでいっても孤独がついてくる自分の人生も、ようやく愛せる気がしている。それよりは、愛するしかない、という感覚が近いかもしれない。理不尽な死の前では全てが瑣末なことに思える。瑣末なことに追われて心を失くしていく自分はもはや滑稽でしかない。

 「父の子育てを正解にする」とか「障害のある方のQOLを上げるゲームをつくる」とか「誰もがありのままで居場所と感じられる場所をつくる」とか、あらゆるスティグマと戦い続ける使命感も、毎年、何かしらの原爆手記を読むと全て瑣末なことに思えた。戦争という言葉は、「フルメタルジャケット」で描かれるようなどうしようもなく救いのない世界観で、そこに感動とか希望とか愛とか語ってほしくない。戦争の共感性感動コンテンツも大嫌いだ。理不尽な生は現実として向き合うものでしかないし、理不尽な死は決して許されるものでも、救いがあるものでもない。今の私には言葉にできないことがまだあると、強く悔しく、思う。

 日本人、そして世界の数%は恐らく平和を意識するであろう「原爆の日」に、日々瑣末なことに文字通り必死になって向き合う自分を、俯瞰して、見返す日になっている。また来年もこの記事が書けるように、どんな理不尽な目に遭っていても、生きていたい。

今日は、お父さんに、おいしいスープをつくってあげる
澤田千代子さん

 過去の記事を読むことで時間の流れをしかと受け止めつつ、どこか違う人間が自分を叱咤激励するために書いてくれた手紙のような気もしていて、心が、命が引き締まる。(noteを書き始めた2019はまだずっと弱々しかった)

 今年は思いがけず自分の心の在り方を代弁してくれる言葉にまた出会ったので、しばらくはこの思いで生きていくと思う。

俺に必要な経験をください
もしまだあるとするのなら

by 沢北栄治

 小学生の頃に読んだ吉川英治の三国志で出てきた曹操の言葉と意味的には同じなんだけれど、神に祈る場面で改めて、こんな風にお祈りをしてきたことが少なかったので反省している。

天よ我に百難を与えよ
奸雄たらずとも
必ず天下の一雄になってみせる

by 曹操孟徳

 今年もただの「宣言」になっていた。これから何かに祈る時は、「自分に必要な経験をください」になっていくだろう。こうした言葉が自分から発露しないときは本当に悔しいなと思いつつ、これまで何百か何千か本を読んできて、そしてそれ以上に人と言葉を交わしながらも、一度も出会わなかった言葉に出会うと本当に嬉しいものだ。

 そんな思いで8月6日を迎えた広島に向かう道中で、今年は「黒い蝶」という手記を読んだ。父親の目線で書かれた、割と最近復刻されたもの。

 父親という目線で描かれたものには何故か心が苦しくなる。親にもなっていないのに共感性が高まってしまったり、つまり経験していないものへの共感性が高いのは、私としては危ういと考えている。この手記は中々に辛かった。と同時に、まさにStorgeと言えるような家族愛の尊さを感じずにはいられなかった。これは自分にとって厳しい体験。

 自分は子どもが大好きなのに、ずっと「親になる」ことの恐怖心が強い。小さい頃から抑圧し続け、「大人だね」と言われ続けてきた20年分、幼児性が欠如していることを重々承知しているからだ。他人の距離感であればまだしも、四六時中一緒にいる人間の幼児性を、果たしてどこまで許容できるのかは冷静に考えたい。

 親になるということがどういうことなのか、鉄塔に登って飛び降りようとしない小学生を育てることができるのか、子どもがしたいと思う機会をつくる以上に、これはしたくなかったと思う機会をつくらない親でいられるのか。今の自分ではまだ駄目だと思い続けて10年くらい経つ。

 同時に、毎年この日に思いを新たにする「障害というスティグマのない社会をつくる」こと以上に、自分の子どもが何よりも大切になる未来にも恐怖がある。もし子どもに恵まれること、もしくは養子に縁があれば、特に幼少期は仕事もせずに、子育てに専念したいと思うからこそ、道半ばで生き絶えることへの焦燥感もまた乗り越えていかなければならない。0か1かの話でもないし、ダブルバインドでもアウフベーヘンでもなんでも良いが、感情としての恐怖感があることは非常に珍しいので大切にしたい感覚だ。

 その上、「自分の子ども」と形容するような所有感も持っていたくはない。あくまでその人自身が選択する連続でありながらも、その選択を支える義務と使命と共に、伴走する相手でもありたい。

 家族というものについて考える時、時折涙が出るほどに辛くなってしまう。それと同時に、家族がいなければ繋ぎ止められなかった時代の自分もいるからこそ、実存的自分を認められる唯一の存在でもあるから、感謝や安心感もある。複雑な愛情という感情の中でも、特に複雑なものだ。

 「黒い蝶」の手記を読みながら、「家族として」の自分ならどうするかということを考えて、そして対話を繰り返して。ひとつ、昨年の8月と変わったことは恐らく、感情そのままに「ひとりでも生きていこう」と思えるようになったことだ。理屈ではなく、感情でそう思えるのは強い。広島を訪れて、「生きるしかない」という思いに駆られる。

 つらつらと、起きてもいないことに対しての悲観と感情を書き残しておくが、今年の原爆の日は平和への祈りと共に「スティグマのない社会をつくるために、私に必要な経験を、百難を、もっと、全部、ください。」と祈る。

 それが訪れるのであれば、どんな形であれ、百難を超え続けるための経験と、それそのものの経験とを積み重ねていきたい。時に立ち止まることもあれば、それ自体が遠くへ行くための最適な道になることもある。果たして、後から意味づけをすることなど幾らでもできるのだから、本質を見失わないようにしていこう。

 凡庸であることを忘れて、感情のまま、自分の心のままに動いてみたら広島に来ていたので、それで良いと思う。どう生きようが人様には迷惑をかけるし、目障りになってしまうし、好意すら悪意と受け取られる程理解し合えない世界に生きている。であれば、自分の心のままに動くことが誰かのためになる世界線に生きれるようになるまで、「必要な経験」を繰り返し乗り越えていく人生そのものを楽しもう。

 夏の雲は忘れない。夏。雲。原爆ドーム。祖母。小学4年生。絵。戦争。幾つかのキーワードが私の大事な記憶をかすかに繋ぎ止めてくれていた。私は小学4年生の頃の自分を忘れない。一番大切にしたい相手がそこにいたからだ。小学4年生の自分が、何故あの時絵を描いたのか。何故その絵だけは覚えているのか。生きる理由などない、生きるしかないのだ。

「一生けんめいすると、何でも面白いと思った。」

平和記念資料館


被曝者の記録


この言葉は忘れたくない


平和は祈念するもので、維持するものだ

 一生懸命、心に刻むこの日。一人でも、生きていくしかない、瑣末なことに心を奪われることなく。自らの心が、動く方へ。必要な経験がまだあるなら。まだきっとあるから、全部私にください。

 

 

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