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個性的である事を個人が許容できる境界線はルールで決まるのか、脳が決めるのか。

  先日も朝井リョウさんの著書「正欲」について書いたnoteの中で触れましたが、最近は多様性として認めて貰える個性の「境界線」について考え続けています。

 私が使う「多様性」の言葉の中でイメージしている個々人の「個性」には犯罪者や異常性癖者も含んでいて、私にとって有害なものも含まれています。唯、そうした「個性」を許容したり受容するにはどうしたら良いのか、この文脈でいう「個性的な人」はそもそも自分が他人に受容される事を前提にしていないのではないか、と言う疑問も生まれていました。

 それを踏まえて、そうした様々な個性を受容する、或いは個性的な人が需要に対して能動的になる為にはどういう思考法が適切なのかと言うことも以前書きました。

 「個性(多様性)」を理解していく上で必要なのは
①自分には知らない事がある、という前提に立つ事
②見返りを求めずに自己開示(贈与)する事
 だと言うのが私の結論です。

 ここで、少し視点を歴史に当ててみて、人類は今まで「個性(多様性)」をどこまで許容していたのかと言う事について簡単に考えてみます(細かい説明は省いて)。例えば、専制政治でいうところの支配者であったり、カルバン主義で言うところの聖書(キリスト教)のような絶対的な存在があった時代は「個性(多様性)」と言うのはその中でしか存在し得ないですよね。

 それで言うと、日本は八百万の神を許容している部分はなんだか良さそうな気がしますけど、村八分とか天皇主義的思想とか言うのも考えると、あまり良さそうにも思えません。
 私が知らない歴史、世界の中に多様性と言う言葉も生まれないくらいあらゆる個性が許容された社会があるとすれば、大分ルールの緩いお猿さんの時代にまで遡る必要があるようにも思います。

 唯、現代では専制政治も殆どありませんし、宗教でのルールと生活でのルールを混同する人も少なく、法的もしくは文化的に縛る必要のあるものがどんどん少なくなっているのは大体の人に同意頂けることかと思います。つまり「思想と言論の自由」について疑問を感じる人が少ない時代になっている事を踏まえると、「個性(多様性)」が出しやすい、許容される時代になってきているのかな、進歩しているのかな、とも考えられます。性別に関する理解などは最近も分かりやすく進んでいますしね。

 唯、同時に個人レベルで個性を許容できる範囲というのには大きな変化が無いようにも思います。人類は生物学的な脳の進化を然程していない事を踏まえると、自分が生存していく為にはコミュニティの中に異質な個性が入ってくる事を許容するのが難しいようにも考えられます。勿論、異質な個性が入ってくる事によってコミュニティが助かったりする側面もあるのですが。

 そこで表題の通り気になり始めるのが、脳が許容できる「異質さ」はどの程度なのかという問題です。例えば、TVタレントやYoutuberに明らかに自分の生活圏では許容出来ない「個性」を感じる事もあると思うのですが、その異質さを拒絶する境界線はどこなのか。もっと言うと自分の生活圏でなくても許容出来ない異質さとはどこからなのか。

 社会のルールやモラル(あくまで現代の)から外れた個性を許容出来ないのか、それとも生物的に脳が拒絶してしまう異質さなのか、この辺を自覚的に考えられると良いような気がしています。
 唯、考えれば考える程複雑化しやすい問題になっていくので、やはり他人の事をどうでも良い、と思える精神が一番有用にも思いつつ、どうでも良いと放っておいてくれない人達をどうしようかと考え始めると卵が先か鶏が先かというグルグルに突入するので、今日はこの辺で。

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