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導かれるとき


 私の場合、直接的に導かれる事があります。

 実際に声が聞こえたりするわけではありません。
 頭のなか、心の中に、唐突にぽんと言葉や概念が置かれる感じです。

 たとえば、息子がADHDだと判明するきっかけになったのもそうでした。

 小学生になった息子が、鉛筆や消しゴムを異常なまでになくすのは、これまで自分があまりにおおらかに育てすぎたせいなのではないかと思い、一時期、厳しく指導することにしたんです。

 そのうちに、ほかのことはなんでも上手にできるのに、ものをなくすのだけどう言ってもよくならないのは、おかしいのではないかと、違和感を感じるようになりました。

 ある朝、いつも通り息子の筆箱をチェックすると、いつも通りそこには何も入っていませんでした。

 なので、息子を叱ったんですが、その時の悲しそうな息子の顔を見た瞬間、私はギブアップしました。

 もう、怒るのは限界だとわかったのです。

 そして、ギブアップしたと同時に、

「もう一度、ADHDについて調べてみよう」

 という思考というか意志というか提案というか、そんなものが頭と心の中に、ぽんと置かれていたのです。

 息子が学校に行った後に即座に検索した結果、

「ADHD不注意優勢型」

 という言葉を見た瞬間に、すべてがわかりました。
 もともと、私の実母がおそらくADHDなので、息子のそそっかしさも遺伝だと思ってADHDについて調べたことはあったのですが、息子には多動がないので、これまではスルーしてしまっていたのです。

 その朝以来、息子のことを無駄に叱ることはなくなりました。

(実際、息子はADHDだと診断されましたが、それはまた別のお話なので、略しますね。)



 また別の時の話です。

 そのころ、私はとても落ち込んでいました。

 人間関係の話ですが、長年仲良くしていた友人と、疎遠になってしまったことが原因でした。

 自分のあれが悪かったんだろうな。
 こういうのも、相手は嫌だったんだろう。
 価値観が変われば、友達も変わるというものな…。

 とにかく自分が悪かったと、落ち込んでいたのです。

 その時も朝でした。

「どーせわたしはっ、おんきせがましくてっ、ひとりよがりでっ、おもいこみのはげしいっ、どーしよーもないダメなやつですよっ! もうどーーでもいいわっ」

 とかぶつぶつ独り言をいいながら、洗濯物を干していた時のことです。(実際には、そんなことを友人に言われたわけではありません。ただの自虐です。)

 とにかくそのとき、唐突に、

「自分を責める言葉ばかり出てくる」

 って言ったんです。私の心が。

 その瞬間、それまでいつも通り荒れてた心が、水を打ったように静まったのでした。

 叱るような口調ではありませんでした。いい加減にしなさい! というような呆れた感じでもありませんでした。

 とても静かに、

 自分を責める言葉ばかり出てくる。どうしてだろうね?
 よく考えなさい。

 という、先生が教え子に語りかけるような感じでした。

 そのとき、私はようやくわかったのです。

 自分が、想像以上に傷ついているんだということに。

 相手はとても素晴らしい友人だった。それが去っていったということは、自分が悪かったに違いない。
 私が悪かったんだから、傷つく資格なんてない。
 相手の方がもっと傷ついてる。

 そう思いこんで、自分の傷ついた心をずっと無視していたんですね。

 でもねぇ、じゃあどうして、私はぶつぶつ独り言で、怒っていたんでしょうか?
 どんなに反省しても、いっこうに心は晴れませんでした。
 たとえ本当に、私だけが悪かったのだとしてもですよ、私自身の胸が痛むのも真実なんです。

 私だって、悲しいんだよ。私だって悲しいし、私だって怒ったっていいんじゃないか?

「薄情なやつだ、友達がいがないって、私が相手に対して思ったって、いいんじゃん」

 と、生まれて初めて思って、泣きました。
 私は、相手に対する憤りに、ようやく気付いたわけです。

 泣いて怒って、怒って泣いて、泣きやんだときには、あれほど落ち込んでいた心が、晴れ晴れとしていました。
 必要以上に自分を責めることも、それ以来ありません。


 まあ、今思えば、めっちゃ不器用って感じですね笑
 そして、ピュアですね!
 さすがわたし!

 ふぅ。

 でも、この時の導きのおかげなのか、私にとってはとても大きな高い階段を、一つ昇れたように思います。


 というわけでですね。

 導かれるわけです。

 でもこれ、特筆することがあるとすれば、私の場合はかなり直接的に言われるというだけの話で、みなさんも当たり前に経験されているごく普通の、日常的な出来事の一つでしかないと思うんですよ。

「ふと思う」とかいうの、たいてい潜在意識からのお導きですよ、たぶん。

 じゃあどういう時に導かれるかというと、

 まず私は、息子の物をなくす癖と真正面から向き合うことにしましたね。
 友人関係の時は、友人と疎遠になってしまったという事実と向き合いました。

 これは、誰にでも当てはまる言葉で言い直すと、「現実と向き合うことにした」となります。

 次に、

 息子の物をなくす癖と向き合ううちに、違和感に気付きます。
 その原因は、本当に、息子のだらしなさ、努力不足なのだろうか? 何か見落としているのではないだろうか?

 友人関係の時は、徹底的に自分の事を責めまくるうちに、違和感に気付きます。
 どうして、私はこんなに腹立たしい気持ちになるんだろう? 自分に対して怒ってると思ってたけど、もしかして違うのだろうか?

 これも、誰にでも当てはまる言葉で言い直すと、「問題の本質を見極める」とでも言えばいいのでしょうか?

 そのためには、どんなにささいな違和感でも、自分の心の声に真剣に耳を傾けることが大切だと思います。


 さてさて
 ここまで来てはじめて、次のステップに進む準備ができたということになるのだと思います。

 つまり、導きというのは、十分に現実や自分と向き合い、次のステップに進む準備が整った時に得られるものだと、私は解釈しています。




 まあ、小難しい感じで書いてきましたが、そんなに心配することはありません。

 多くの人は、ごく普通に、当たり前のように日常の問題をクリアして、当たり前のように導きを得て進んでいます。
 導きだって改めて思うほどのこともなく、当たり前にそれを受け入れて生きているのです。

 人生、順調なときは、何も考えなくても当たり前にそれをやっているわけです。

 問題になるのは、少し、つまづいてしまった時ですね。
 それまで当たり前のようにこなしていたのに、突然、どうやってやればいいのかわからなくなってしまう…。

 よくあることです。

 そんなときは、色々な事に右往左往、惑わされてしまって、何が問題の本質なのか、どれが本当の導きの声なのか、わからなくなってしまうんですよね。

 そんな人たちの役に立てばいいなと思いながら、このnoteを書いています。


 なんでわたしがよく導きを得ているのかって?
 つまづいてばっかりだからですよ笑

 さ、そんなときは落ち着いて、自分の本当の心の声を探ることからはじめましょう。

 私もお手伝いしますよ。

 こんなときはどうすればいいんですか? なんて疑問がわいたら、コメントでもいいですし、私のTwitterにメールでもください。

 リクエストがあれば、それについて答える形でnoteを書いて行こうかな、とも思っています。

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