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ひざ丈セーラー服に三つ折りソックスの少女が親になって考えてみた、今こそ基礎教育に求めたいもの


先日、仕事の合間に斜め読みしていた新聞で、ちょっと気になった記事。


私は教育分野の人間などではないですが、少し前にuni'que CEOの若宮和男さんが書かれていたこのnoteに、子育て中の親という視点からいろいろ感じていたところがあり。
そんな心のひっかかりでこの記事が目に留まったのだと思います。

若宮さんのこのnote、個人的に共感するとこがとても多いのですが。
「お受験でも就活でも、日本はとても「入口主義」」
「学びたいときに学べばいいのではないか」
これ、首がもげそうなほど頷きました。



で、冒頭の記事。

文系と理系の枠組みを超えた文理融合型学部の創設が国立大で広がっている。幅広い分野を学べる環境をつくり、社会での活躍に必要な「課題解決力」を育てる狙いがある。


時代に則した学びの質の変化と選択肢の広がりはごく自然なことですし、そうあってしかるべきものだと思います。

ただ、この記事をぐっと俯瞰して読むと、結果、日本の教育の根源、特に高等教育までの方針は、今も昔も変わっていないような感触を覚えます。

勿論、全ての学校、全ての学生がそうではないですが。
元をたどれば、入試や就職といった”ポイント”に対応することに主軸を置いた学習である、という点。
なので、当の本人がいざ将来を考えた時、「まだよくわからないけど、いま得意な(or興味のある)理系/文系に進んで、それから考えよう」となる人が相当に多いであろう点。


かくいう私も、数十年前まさにそうでした。
毎日詰め込み式に勉強をし、それはそれで偏差値という結果で喜びを得たのですが。
いざ自分の内面に目を向け、未来への判断をする場面になると、何をしたいのか、具体的にどう進んでいきたいのか、明確に言えない。よく分からない。
とりあえず、語学が得意だし、そっち系の学科に進学してからその先を考えよう、的な。

学習指導方針は時代で、「詰め込み式」とか「ゆとり」とか「脱ゆとり」… 変貌してます。
が、結局今でも。三つ折りソックスにひざ丈セーラー服でがんがん詰め込み式をしていたかつての私のような進路選択パターンは、おそらく多いのでしょう。
事実、記事の中にあるように、

文理融合型の学部新設の代表例は2018年4月、「共創学部」を設けた九州大だ。共創を「異なる観点や学問的な知見の融合を図り、ともに構想し、連携して新たなものを創造すること」と定義。課題構想力や国際コミュニケーション力などを育て、「共創的課題解決力」の獲得をめざすという。

鏑木政彦学部長は「社会の課題をベースに学問の切り口を考えるために、文系・理系の枠を超え自由に学んでいこうという考えが核心にある」と語る。初年度の志望倍率は4倍以上。19、20年度も3倍超で、予備校関係者は「新設学部としては異例の人気」と話す。

文理融合型学部が人気というのは、”まだ方向がはっきり決まってないから、幅広く学べる環境がいいな” ということの現れに感じます。



知識を得るというのは、知識自体が生きる術の一つになることなのでとても大切ですが、最終的に社会に出ることで必要となるのは、どんな時でも「自分で生きる力」という事に他なりません。

    自力で生きるための人間力を養う

  
生きるためのベースとして相当に大切であろうこれが、今も昔も日本の教育では不足しているように感じます。


じゃあ人間力って何だろう?となる訳ですが。

能動的な思考と行動力が根幹にあり、実際それで動いていること

と私は思っています。
これがあるなしで、生き方も、周りとの関わり方も随分変わってくるでしょう。


例えば、わが社に毎年入ってくる新入社員。
勿論、それぞれに個性豊かですが。
結構多いんですね、

”指示待ち体質”
”応用力が乏しい”
”他者の話を最初からはじきかえす” 

などという特性の子。


やがて入社時研修を終え、部門配属後しばらく経つと、いろいろな面で差が出てきます。

例えば。
組織の中で働くと、定期的に"評価"がされます。
能動的に判断し自ら動ける子は、物事の多角的なとらえ方と本質の理解力、高い吸収力などを根っこから備えているのでしょう。
結果、労働力となり成果を生み出す場になった時、早々に期待値を満たす(もしくは上回る)成果を上げれる、というだけでなく、伸びしろという面でも評価され期待を得ることが多く見受けられます。

この伸びしろ。割り当てられた業務だけでない、業務の余白部分などでの姿勢や取り組みに、顕著に見て取れるケースが多く。
仕事の余白って大して意味がないとか思われがちですが、真の人間性はそこにこそにじみ出てくるものに感じます。

これは何も、自己アピールがうまいとか、コミュニケーション能力が高いから、という事ではなく。
ましてや偏差値に準じるようなものでもありません。


組織の中での評価は結果、自身の処遇という形でも還元されてきます。
そう。5年もたつと、処遇でも大きな差が生まれてきます。
決して、良い処遇を得ることだけがゴールではないですが、一つの結果として現れてくるわけです。

でも一番大事なのは、伸びしろ部分だと思っています。
これは人間性の部分なので、どこで何をしようと、自力で生き抜くための力量の表れ。
伸びしろが大きい子は、社会に出て、新たに沢山の人々と交わったことで、業務以外のいろいろなものを吸収し、人として更に大きく成長していく姿が見て取れます。もうね、親の気分ですが。
そしてそういう子は目の奥の力が強い。どんな時でも、背中に見える人間力がやはり強いように感じます。


能動的な思考と行動力を養うには、机上以外での多様な経験と、自他に対する深い洞察が絶対的に必要となってきます。

学びや経験に年齢制限はないですが、ある意味人間形成に根付くものですから、幼少期の教育からその土壌はあってほしい。
かつてフューチャーされたこともあるフィンランドの教育。
もっとうまい加減でこういった土壌を日本にとりいれられたら、と思ったり。


教育は、その国に根付いている文化や思想、社会概念等、様々な背景のもとにあるものですから、そう簡単にガラッと変わることは難しいのだと思っています。
(教育だけでなく、最後に受け皿となる社会の学歴主義的考え方や構造も変わらないと、おそらく上手く機能しないのだとも思いますが‥)

その一方社会に出ると、今は何につけてもグローバル化ですから、諸外国と肩を並べて自力で生き抜かねばならない現実があり、学校で求められてきたものと全く違う性質のものを急に求められることにもなります。


それってなんだか生きにくいですよね。

大学が少しずつ変わっていくのなら、人間形成でおそらく一番大事な高等教育までの教育の中身こそ、本当の意味での人間力を養う教育に変わっていってほしいと、子を持つ親としては願うばかりです。
勿論、自分でできる限りの家庭教育はしていきたいと思っていますが、たくさんの人と交わる学校教育にはなお、それがあってほしいと思うのです。


このコロナ禍の時代。長引く休校による学習時間の確保が課題になっていたり、大学生に至っては、様々な理由で休学や退学を考えている子も多くいるという話題も日々沢山目にします。

経済的な問題は何とも言い難いですが、基礎的な学びの中身と量の問題については、
「新しい生活様式」ならぬ「新しい学びの様式」
今までに決められたカリキュラムを何が何でもやりきろうではなく、人間形成に重きを置く学習に、ほんの少しずつでも変調させていってもいいのではないかと思います。

確かに今は、制約や考慮すべき点が沢山あります。
例えば教育実習のように、必要だけど今まで通りにやることが難しい。それに成り代わるものをどう取り入れたらいいのか、判断が難しいこともたくさんあるでしょう。
でも、今だからこそ、この制約のある不自由な中でしか学べない人間的要素もいろいろとあるように感じます。


人と会うことがままならないなら、人とつながることの意味を深く考える。
自由について考えてみる。じゃあ不自由は?
考え抜いたら、みんなでディスカッションする。
そのうち議題が変わってもよし。何度も何度もやってみる。

修学旅行や遠足に行けないなら、VRで世界一周してみる。
一緒に、VRの技術ってどうなっているのかも身をもって学んでみる。
いつもならそうそう会えないような、例えばヒカキンとかおだっちとか大谷翔平とか佐藤オオキとかとか、そういった人たちにオンライン職場見学をしてみる。聞きたいことは何でも聞いてみる。


なんて、これらは勝手すぎる妄想ですが。
でも、単純に偏差値を上げるだけではない心の学び、今だからこそ尚更あってほしい。
心の琴線に触れる経験は必ず人間形成の糧になり、この先またリアルの世界が手元に戻ってきた時、さらに新しい発見と喜び、探求心の元になると思うのです。


そしていろいろな経験を糧に、例えばこんな風に、自分の未来を自分の経験値から自力で考え、そこに向かって未来を逆算して考えられるような子が増えてほしいなと、ちょっと自分の子への願いも込めつつ、私的には思っています。









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