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カミヲトコ

 申し訳なさそうに玄関を入ってきた津田君の半ズボンから生えている右足の太ももに、太めの輪ゴムを三連に束ね思いっきり引っ張り、躊躇なく弾く。津田君の表情は歪み、涙が見えた。そんなことじゃ僕の怒りはおさまらない。冷酷に言う。
「つぎ」
慎君は堂々と入ってきた。入ってきて悪びれる様子もなくいつもの声で言った。
「わるかった」
悪かったなんて感情は微塵も感じられなかった。その事は、更に僕の怒りを大きくした。僕は慎君のすぐ傍まで近付き、顔の前で輪ゴムを弾いた。左頬にあたり赤くなった。慎君はそのまま無言で玄関を出て行った。
「つぎ」
そう言ってもなかなか次の者は入ってこなかった。玄関前で光男が泣いていた。光男の泣き顔を見て光男の弟とあと二人の小さい子は大泣きして走って行った。買い物から帰って来た母さんが泣きながら走っていく子達を目で追った。玄関先で、束ねた輪ゴムを片手に立ち尽くす僕を見て、母さんは事態を把握できないでいた。
「なにやってんの?」
母さんは、普通の様子じゃない僕に驚いているみたいだった。僕は悔しい感情、悲しい想い、怒りが入り乱れて言葉にできないでいたけど、話をしようと声を出しかけた時に、涙が目の奥から湧き出て来るのを疎ましく思った。
「みんなでかくれんぼをしていて、ジャンケンで負けて僕は鬼になって、それで、いつまでたっても僕が鬼で、それは津田君とか慎君が仕組んでいたみたいで、みんなそれに従っていて、笑い声も聞こえてきて、僕は…」
鼻の奥がツンとして、痛いような辛いような悔しさの塊みたいなものに言葉が続かなくなった。
「そう、それからどうしたの?」
母さんは冷静に話を繋いだ。母さんのその落ち着いた声を聞いて、僕は何かとんでもなく酷い事をやってしまったかもしれないと、さっきまでの怒りの感情が急に冷め始め、臆病で情けない小さな自分へとなっていく気がした。
「それから、僕は悔しくて悔しくて大声を出して、なんかとても汚い言葉を叫びながらうちまで走って帰って来た」
そして、枕に顔を埋めて泣いていたんだけど、そこまでは言わなかった。
「で、なんで小さな子達が泣いて走って行ったの?」
そこだけしか見ていない母さんにどう話せばいいのか、話の道筋を辿るのが面倒くさいと思った。それでもわかって欲しかった。
「家に居たら玄関のとこにみんなの声がして、謝るって。だから、ひとりひとり玄関に入れて、このゴムで弾いた」
そこで顔をあげて母さんを見ると、母さんは異様な物を見ている様な表情をしていた。
「でもゴムで弾いたのは津田君と慎君だけだよ」
そう慌てて付け加えた。それから母さんは津田君、慎君、光男の家に謝りに行った。僕は心が不安定になっていった。小学二年生の夏だった。それでも、制したって感覚が残っていた。泣いてしまったけど。

 小学校も高学年になっていた。僕らは小高い丘と言えば聞こえは良いけど、ちょっと登ったところにある墓の手前の広場にいた。ちらほらと遊具があって、その中のスベリ台だけが場所に似つかわしくなくちょっと立派な感じのもので、僕たちはそのスベリ台の階段を上がった所の、滑る前のたまり場みたいな所に三人で体育座りをして、膝を抱えながら好きな女の子の事を互いに言い合っている時だった。
 複数の人の気配がした。その方向に顔だけを向けると、この広場に向かって六人の人が歩いてくるのが見えた。先頭を歩く人は首を垂れていて厭々歩いているようだった。その人の後ろには二人の男が先頭の人にかなり密着して歩いているように見えた。更にその後ろに横暴そうな体格の良い三人がふてぶてしく歩いていた。スベリ台の上で僕らは嫌な予感に覆われていた。夏の間に好き勝手に生い茂った雑草たちが緑色を失い晩秋の風に吹かれていた。
 先頭を歩かされていた人は、後ろの二人に腰を掴まれていた。六人ともジーンズにジャンパーという感じの服装で、たぶん高校生だと思う。その人はドンと突き飛ばされて、短い雑草が所々に生えている地面によろけて腰をついた。すぐさま体格の良い三人のうちの一人が駆け寄り勢い良くその人を蹴った。それを合図のように他の者達も寄って来て蹴ったり踏んだりし始めた。ひとりだけ腕組みをして後ろで見ているだけの奴が居た。口元が笑っているように見えた。
 リンチ、という言葉が頭に浮かんだ。それは最近僕たちの間で流行り始めている言葉で、あまり良い言葉じゃなかったけどテレビドラマの影響か、暴力描写を売りにしている漫画からの情報か、現実的ではないものの認識はしていた。
「あれ、リンチやないの?」
力斗が小さな声で呟き、僕らは小さく頷いた。その人はうずくまって息が荒かった。暫くは、その人を囲んで五人の動きも止まっていた。もう止めて欲しかった。力斗も修ちゃんも訴えるような目でそこを見ていた。五人のうちの一人が何かを言うと、うずくまりながらもその人は反抗的な言葉を叫んだ。それを聞いて逆上した一人がまた蹴った。
 僕は、何故だかわからないけどスベリ台の階段を降りていた。最後の段から地面に足をつけ、歩き出した。スベリ台の上から力斗の声がした。
「どこ行きよん、危ねぇけ戻ってきい」
僕はちゃんとそれが聞こえたけど、歩みを続けた。なんか変なものが自分の中で光っていた。近くまで行くと五人は動きを止めて僕を見た。
「なんや、ガキが、向こういけ」
五人のうちの誰かが言った。うずくまっている人が顔を少し上げた。口の中が切れていて血が出ていた。僕と目が合うと微笑んだ。
「どっか行けて言うとるやろ」
違う奴が大きな声で言った。僕は何でそんな事をするのか自分でもよくわからなかったけど、目を閉じて深く息を吸った。そして両腕をピンと伸ばして斜め上に掲げた。いち、に、さん、よん、ご、と軽く数えたら自分の中で光っていた色が紫になるのがわかった。
目を開くと五人が上の空でへたり込んでいて、目の前にはあの人が跪いて涙を流していた。腕を組んでいた一人だけが見当たらなかった。

 中学生になると、ついこの間まで子どもだったのに急に何かを意識し始め、それは男とか女とか、出しゃばる奴やおとなしい奴、強い弱い、勉強ができる、スポーツに長けている、何にも興味を示さないとかがごちゃ混ぜになって、事あるごとに面倒くさかった。
 津田君と慎君も同じ中学校に居て彼らは三年生になっていた。津田君はだいぶ身体が大きくなっていて眼鏡をかけていたからはじめ見た時は誰だかわからなかった。この学校は上級生下級生の上下関係が厳しくて、下級生は上級生を見ると挨拶をするという昔ながらの風習がしっかりと残っていて煩わしかった。職員室の前の廊下で向こうから歩いてきた上級生に厭々挨拶をすると、それが津田君だった。
「久しぶりやね、元気やった?」
その声と話し方で津田君とわかった。僕はなんて言っていいのかわからずに目線を廊下に落として軽く頷いた。津田君はかなり真面目そうに見えた。
 慎君と再会したのもその頃だった。体育館への階段を上がろうとしていると階段の上の方に元気の良い声が聞こえた。矢鱈と長い丈の学生服とダブダブの学生ズボンを履いている四人組が大きな声を出しながら降りてくる。ヤンキーとか不良みたいな類の連中だ。丁度踊り場のところで鉢合わせになったから仕方なく挨拶をするとその中の一人が顔を近付けてきた。
「はあ?」
そう言って挑発してきた。僕の横には二人の一年生もいて怖がっている感じだった。僕は顔を上げて目を見開くと挑発してきた奴の目つきが攻撃的に変わるのがわかった。そいつの後ろから僕を見ていた不良の一人が、「おまえ」と言った。慎君だった。慎君の眉は細くなり、声は太くなっていた。生意気そうな目をしていて、このグループのリーダーみたいな感じだ。慎君は僕に近付いて来て言った。
「お前やったんか」
慎君は僕の肩を軽く手で触れて階段を降りて行った。挑発してきた奴も慎君のあとに付いて行ったけど納得がいかない様子で、階段を下りながら何度か振り返って睨みを効かせていた。
 生物の授業中に植物を見に行くためにクラス全員で教室から校庭へ移動していた。先生を先頭に下駄箱の所まで来た時に、ちょうど登校してきた生徒がいた。あの挑発してきた奴で、先生は呆れた様子だ。
「おい、榎田、授業始まってるぞ」
そう言いながら校庭に出て行った。榎田はダルそうに上履きを履き廊下に出たところで僕に気付いた。目が合い榎田が近付いて来るのがわかったら何かが光るのを感じた。榎田がすぐ前に来た時に、僕は相撲でいう突っ張りみたいな感じで右腕を出すと、榎田の左頬辺りにカウンター気味に触れた。ちょっと触れただけだと思ったけど、榎田は背中からコンクリートの廊下へ倒れて頭も打った。女子生徒の悲鳴に先生が気付いて引き返してきた。
「どうした、おい、榎田、大丈夫か」
その声は近くの職員室にも聞こえたみたいで、三、四人の先生が飛び出てきた。
 救急車が来て榎田は担架で運ばれた。近くで見ていたという何人かの生徒が救急隊員に何か訴えていた。僕は黙っていた。記憶も定かではなかった。そのあと僕は生徒指導室に居た。生徒指導室でそういう役割の女の先生が優しく質問をしている時に扉がノックされて、扉が開くと担任の先生と母さんが立っていた。僕は、先生、母さんと一緒に榎田が入院した病院へ行く事になった。

 何度か来たことのある市民病院だけど馴染みはなかった。入口の自動ドアが開くと僕たちが入る前に中年の男女が足早に中から出て行った。病院の中に入ると広いホールになっていて病院内の案内図があり、左側には売店や銀行のATM、右側の壁には大きな絵画が数点飾ってあって、ホール内の人達は動きが早く、まるでショッピングモールにいるような気がした。
 先生が受付で手続きをやり、受付奥のエレベーターで四階へと向かった。エレベーターの中には入院服を着た患者が売店のレジ袋を持って乗り込んでいたから、やっと病院らしく思えた。四〇二の病室の前に三人で立って、先生が母さんに軽く目配せをしてから扉をノックした。
「はい」という小さな声がして、それを聞いてから先生は静かに扉を開けた。先生の「失礼します」の声と共に病室へ入ると、ベッドの上で身体を起こしている榎田が目に入った。
 「この度は…」なんていうお決まりの台詞を口にした先生の横で母さんは深々と頭を下げた。つられて僕も下げた。榎田の母親はあからさまに表情を歪め不満を漏らしていた。全く納得できないという感じで、母さんの謝罪も宙に浮いていた。榎田へ目を向けるといつの間にかベッドで横になっていた。
 不満なのは僕なんだ。僕はゆっくりとベッドに近付いた。榎田は目をつむっていた。僕は榎田の顔のそばで大人達には聞こえないくらいのヴォリュームで言った。
「何しとんの?」
そう言っても榎田は狸寝入りをきめていた。僕は苛立ちを感じた。窓際へ目を向けると花瓶に黄色の花が三本刺さっていた。何という花かは知らないけど夕陽を浴びて綺麗だった。花瓶はお酒を入れる徳利を大きくした様な形をしていて、徳利のくびれたところは手で掴むのに丁度良さそうに思えた。花瓶を見つめ窓際へ歩き出そうとした時に母さんに呼ばれた。僕は母さんのところまで戻り榎田の母親に謝罪した。そして、「榎田君にも謝ってきました」そう言った。
 翌日、榎田が退院した事を先生が教えてくれた。二、三日自宅で静養してから登校するらしい。全く大袈裟で馬鹿げていると思った。

 僕が上級生に暴力を振るった事は学校内にそれなりに広まっていて、目線や気配から感じ取れるのは、明らかな敵対心だったり僕に対する恐怖心、好奇心、軽蔑の思いそんなものだった。なにかクラスで揉め事が起こると、他の者たちは争っている当人たちを見る前に先ず僕の事を確認してから当事者へ目線を移す感じがしたし、廊下で上級生に挨拶をしても嫌な感じを受けた。
 慎君から呼び出されたのは昼休みも終わろうとしている時だった。一人で机に片肘をついて、何も考えずに中庭を見ていたら、席の前に二人立っていた。慎君のグループの奴だとわかった。
「屋上に行くぞ、来い」
そう言って僕の腕を掴んだ。近くでおしゃべりをしていた数人の女子は会話が止まった。僕は苛々し始めた。二人の顔を下から見上げ勢い良く立つと、弾みで座っていた椅子が後ろの席に激しくぶつかって、派手な音が教室にこだました。掴まれていた手は離された。慎君は何で自分で来ないんだろう?二人の後ろを歩きながらそんな事を思っていると、チャイムが鳴り掃除の時間を告げた。屋上まではまだ距離があった。厭々モップを手にした男子生徒が歩く先に見えた。その男子生徒の横を通り過ぎようとした時、時間の流れが遅く感じられ周りがスローモーションになった。僕の手にはモップがあって、モップの柄の部分は前を歩いていた二人のうちのひとりの右耳あたりを捉えていた。そいつはゆっくりと廊下に転がり、同時にさっき教室で腕を掴んだ方の奴が、やはりゆっくりと振り返った。僕は体勢を立て直しもう一度モップを振りかざした。モップの柄は空を切り、壁の掲示板を強く叩いた。「カン」という音がして時間が正常に流れ始めた。モップを持つ僕の手には掲示板を叩いた衝撃が伝わった。
「うわあ、痛ぇぇぇ、痛ぇぇ」
そう言いながら廊下でバタバタやっている横で、モップをかわした体勢で座っている奴の中に怒りが満ちてくるのがわかった。向かってくる、そう思った時に廊下の向こうで声がした。
「なにしとるかぁ、そこお、」
血相を変えて速足でこっちに来る二年生の学級担任だ。「クソ、おい行くぞ」と声をかけても一人は耳のところを押さえて廊下で固まっていて動こうとはせず、仕方なく奴は一人で廊下を走って行った。僕もモップを手放し走って逃げた。廊下の奴は耳から血が出ているようだった。あれは誰がやったんだろう?走っている最中そんな考えが一瞬頭の中に浮かんだ。

 二日間は何も無かった。三日目の昼休みに入ってすぐ慎君が来た。耳のとこをガーゼで固定している奴と、あの時やらなかった奴と榎田も居た。慎君は耳ガーゼの奴の方を見て太く低い声で話した。
「自分で廊下のどこかの角に耳を打ちつけたんだと」
慎君がそう言うと何故か榎田が鼻息を荒くして顔を近付けてきた。病院の時とは大違いの態度がまた僕を苛立たせた。僕の周りにいたクラスメイトは教室から出て行った。僕が榎田の目を強く見た時、誰かが僕の髪を掴んだ。僕は髪の毛を引っ張られ立たされた。引っ張ったのは耳ガーゼだった。立った事で全員が視界に入った。それで色を確認できた。耳ガーゼとあの時の奴は赤く、慎君は黄色で、鼻息荒くしていた榎田はなんと薄い青だった。榎田はこんな場面でもビビっている。慎君だけは割と平常心に近かった。そういえば榎田は僕を直視していない。僕はちょっと笑いそうになったけど榎田だけを見て少し身体を突き出した。榎田はビクッとして後退りすると、丁度真後ろにあった椅子にストンと座った。直後に自分の中に光を感じた。
「何しとんじゃ」
耳ガーゼの声がしたけど僕は目をつむっていたから、耳ガーゼが僕に言っているのか榎田に言っているのかわからなかった。
 右腕を斜め三十二度位に掲げ、三まで数えて目を開けると榎田は椅子で、耳ガーゼとあいつは床にへたり込んでいた。慎君は教室から出ていくところだった。教室にいた何人かのクラスメイトが一部始終を見ていた。僕の中で光っていた紫はもう消えていた。
 それから中学を卒業するまで特に何も無かった。何も無かったというか誰も近付いて来なくなった。鹿十されているとか、そんな感じではなくて避けられている様な、関わると面倒臭くなると思われている様な空気を感じていた。それは僕にとっても好都合だった。

 「あの時は、ありがとうございました」
そう声を掛けられたのは高校二年生の秋だった。此処へはよく来ていた。近所だし人もあまり居ない。墓の手前の広場だから彼岸やお盆の墓参りシーズン以外は静かだ。考え事をするには最適だし、子供の頃からよく遊んでいた馴染みの場所だ。あのスベリ台は、あの頃よりも少し小さく感じられたけどまだしっかりとある。
 その人は二十代前半くらいに見えた。昔ここで集団暴力を受けたらしい。僕はいつもの、石を加工して造られた長椅子に座って空を眺めている時だった。
「僕、何かしましたか?」
そう言うと、その人はちょっと声を詰まらせて柔らかい表情で、ゆっくりと話し始めた。
「神様だと思いました。あなたはまだ幼かったけど立派でした」
何の事なのかさっぱりわからなかった。この人はきっと誰かと間違っている。
「失礼ですけど、人違いだと思います」
正直に答えた。すると目の前のこの人は、涙を流し始めた。その涙顔を見て、子供の頃の記憶が少しだけ思い出された。あの時の、あのリンチを受けていた人だ。
「高校生に成られたんですね、丁度あの時の私と同じくらいですね。私はあの時に救われました。あの暴力からだけでなく、あなたに救われました。あなたをお見かけすることもありましたが今日までお声掛けは控えていました。私はあなたについていきます。どうか何でも申し付けください」
 気味が悪かった。質の悪いストーカーだと思った。どうしていいのか戸惑っていると、その人は一枚の名刺を差し出してた。
「何かの時には必ずお役に立ちますから」
そんな事を言って深々と頭を下げて立ち去って行った。名刺には携帯電話の番号とeメールアドレスが記載されていた。名前は川嶋十四朗となっていて、特に会社名や店名、役職などは無かった。

 広場は、あまり手入れが行き届いて無い為に、春から夏にかけて雑草たちが生い茂る。ただ、ショボい遊具周りやベンチ、石の長椅子、あのスベリ台のところにはあまり生えない。秋になり晩秋を迎える頃には枯れていくのだけど、背の高い外来種だけは色味を失ってもピンと立ったまま広場の一角にちょっとした茂みを築いていた。何故かこの時期になるとそのスカスカの茂みに足を踏み入れたくなる。雑草の丈は僕の身長よりも高く、分け入ってその中心部に立つと何だか不思議な気分を得られた。此方からは広場が見渡せるのだけど、広場からは雑草の茂みに居る僕のことは見えていないような錯覚に陥る。勿論そんな事はなく、スカスカの雑草の中に立ち尽くす僕は丸見えだ。此処から見る景色は特別どうって事無いのだけど、微かに揺れ動く色味を失った雑草の間からの世界は何となく懐かしいような、頼りないような、不安を駆り立てるようなそんな気持ちが芽生えてくる。静かな秋の風に吹かれて、心を何かにゆっくりと締めつけられていた。

 高校を卒業して就職した。大学や専門学校への進学は僕の選択肢には無かった。それまで住んでいた地元から離れて隣県のわりと大きな街へと移り住んだ。母さんとの暮らしに不満など無かったけど、早く家を出て自立したかった。
 そこは土建会社だった。所謂ところの就職試験があったわけでもなく、有限会社門脇土木へ行って事務所のソファで門脇社長と雑談みたいな感じで会話を交わしただけだった。社長は日に焼けた顔が凛々しく、歳は四十代だろうか五十代だろうかいずれにしても若々しくて堂々としていた。駅から少し歩いただけなのに門脇土木の周りには田んぼが少しあった。
 初出勤は月曜日で、会社のある街はまだ日曜日の雰囲気を名残惜しそうにしているような感じだった。駅から門脇土木までの道すがら居酒屋や定食屋、酒屋に牛丼チェーン店なんかはまだ夜の顔をしていた。事務所へ着くと、面接の時にお茶を出してくれた事務員のおばさんも来たばかりという雰囲気で、「おはよう。早いのね」と招き入れてくれた。おばさんと言うか綺麗な女の人で、長いストレートの髪には艶があり栗色がよく似合っている。タイムカードの押し方を教わり、そのあとは何処に居ればいいのかわからない事務所で、所々ほつれのある小汚い椅子に座っていた。七時半くらいを境に次々と事務所へ人が入ってきてはタイムカードを押し、滑らかな動きで各々の場所へ腰を下ろした。今僕が座っているこの椅子も誰かの場所かもしれないけどどうしようもないからそのままで居た。
 煙草を吸ったりスポーツ新聞を広げたり、昨日のパチンコの結果を話したり、この光景がこれからの日常になるのかとそんな事を思っているところへ社長が現れた。事務所の中には僕と三十代から六十代くらいの男が八人いて、口々に小さな声で社長へ挨拶をした。社長は僕を見つけると手招きした。
「武井と加藤はまだ来とらんのか」そう言いながら事務所内を見渡した。社長が僕の肩に軽く手を添えた時、事務所の引き戸が勢い良く開き、金髪の長い髪を後ろで束ねた若い男が入って来てタイムカードを押した。
「セーフ」
タイムカードをまじまじと見つめる。男が振り返ると、社長と目が合い慌てて「おはよっす」と言ったところでまた一人慌てて事務所へ入ってきた。タイムカードを押すと、「ギリセーフ」と呟いた。短髪だったけどやはり金髪だった。
「武井、加藤、セーフじゃないだろが」
社長がそう言うと二人共軽く頭を下げた。それから社長に紹介され、慣れない自己紹介をした。僕が何を言おうと、ここに居る人達はちゃんと向き合ってくれている感じではなかった。
「じゃ今日はキイさんのところに三人やるから、今日であの現場終わらせてな」
社長の指示にキイさんと思われる人は、「いや、俺とあと二人居れば終わりますよ」と即答した。
「三人つっても一人は新人だからよろしく」
それを聞いてキイさんはあからさまに嫌な表情を見せた。社長は続けた。
「キイさんとこ、あとの二人は石田と武井な、残りは全員先週のとこで。はい、じゃ安全コールは・・・一番遅く来た加藤君よろしく」
「えええ」と落胆した様な声を出しつつも最後に事務所へ入って来た短髪の金髪が、覇気の無い声で儀式みたいな事を始めた。
「じゃ構えてください」と右の拳を握りしめて肘を曲げ、その拳を肩の高さまでもっていった。すると事務所のみんなも同じ動きで拳をそこへ留めた。それから加藤という人は、「今日も一日安全作業でがんばろう」と力なく拳を斜め前に伸ばした。それを合図に他の者も低い声で、「おお」なんて言いながら肘を伸ばした。行き場の無い拳たちは直ぐにほどかれた。
「なんだよ今日ラスカルとかよ」
小さな声だったけど確かにそう聞こえた。言葉を発したのは長髪で金髪の武井とかいう人だった。
作業員達はゆっくりした動きだったけど確実に目的をもって事務所から移動し始めた。僕はどうしていいのかわからなかったけどそれについて行った。そこは事務所裏の駐車場で、トラックやダンプ、工事に使うであろう道具、材料なんかが乱雑にあった。とりあえずキイさんのところへ行き挨拶をして指示を仰いだ。
「何をすればいいですか」
「あそこんとこにねこあるから、ねこ二台そのダンプに積んでくれ」
キイさんは僕にそう言うと足早に違う現場へ行くトラックの所へ行き、運転手と話し始めた。僕は困った。ねこを二台ってどういう事なのかさっぱりわからなかった。仕方なくキイさんが指差した資材置き場へ来てみたけど猫は居なかった。オロオロしている僕に気付いたのか武井さんが寄ってきて声をかけてくれた。
「なに探してんの?」
「キイさんに猫を二台?二匹?ダンプに積んでくれって言われて、でも猫いないっすよね?」
それを聞いた武井さんは大笑いし始めた。
「ギャハハハ、猫は居ねえよ、やばっ、猫を現場に連れてってどうすんだよ?やべぇ腹痛えよ」
その声が聞こえたのか三人ほど寄ってきた。
「どうしたタケ」わりと年配の、だけど体つきはがっしりとした人が話しかけてきた。
「安達っつあん、やべぇっす。こいつ猫探してて、ハハハ」
「そう笑うなってタケ、知らねえもんなぁ」
安達っつあんは大きな手でその先にあった一輪車のグリップを掴んで僕の前に置いた。
「この手押し車の一輪車の事を猫車っつうんだよ。で通称がねこ」
僕はなんで一輪車が猫車って言うのかさっぱり理解できなかったけど、そうなんだぁと思うしかなかった。武井さんが一緒に一台運んでくれてなんとかダンプに二台ねこを積むことが出来た。
 現場へはダンプとトラックの二台に分乗して向かった。トラックにキイさんと武井さん、ダンプに僕と石田さんという組み合わせだった。ダンプの運転なんかやった事ないから石田さんが運転で、僕は助手席で座っているだけなのが何となく悪いようなそんな気持ちだった。石田さんへ何を話しかけて良いのかも分からず、石田さんもまた無口な人だった。結局現場に着くまで一言の会話も無かった。現場に到着しダンプから降りると武井さんがニコニコしながら近付いて小声で話しかけてきた。
「車ん中でラスカルと何か話した?」
「ラスカルって石田さんすか?」
「そうそう」
「いや、ひと言も喋って無いっす」
それを聞くと武井さんは更に笑顔になってキイさんの方に行った。武井さんはキイさんへ嬉しそうに報告した。
「はい、俺の勝ちっすよ。昼飯ゴチになります」
キイさんは、渋い顔をしてそれを聞いた。
「んだよ、本当かよ?ひと言もだぞ?タケがそう言わせたんだろ?マジか」
どうやらあの二人は昼飯を賭けていたらしい。ということは石田さんは相当無口な人ということで間違いない。
 それは仕事が始まって直ぐの事だった。現場にキイさんの怒鳴り声が響いた。
「馬鹿、声出せ、ストーップ、タケ止まれ」
狭い箇所を武井さんがダンプでバックしていた。障害物も多く、ダンプの後ろで石田さんが誘導しているはずだった。キイさんが気付いた時にはダンプが縁石に乗り上げていた。ダンプの後ろでは石田さんがアタフタと手を振っていた。武井さんはキイさんの声でようやくブレーキを踏んだみたいだったけどダンプは、ゆっくりとゆっくりと縁石の外側へ傾いていた。僕は動くことが出来ずにそれを見ることが精一杯だった。ダンプの運転席で武井さんはシートベルトと格闘しているようだった。そして大きなクラクションが鳴り響きダンプは横転した。
「タケ、おいタケ」
キイさんが駆けつけてフロントガラスをバンバンと叩いた。現場と縁石の外側では約二メートル程の落差がある。ダンプの運転席からだと三メートル以上ということになる。運転席の中から武井さんの「痛ぇ、痛ぇ」という声が聞こえる。キイさんに言われて僕は携帯電話で救急車を呼んだのだけど、状況は、とか人数は、とか場所、住所と責めたてられるように聞かれ上手く話せずに手間取った。その間に視界に入った石田さんは横転したダンプの後ろで立ち尽くしていて、見間違いかもしれないけど笑みを浮かべていた。
 ようやく救急車が来て運転席から武井さんを出すことができた。ストレッチャーに乗せられ救急車に運ばれる時も武井さんは、「痛ぇ」と言っていた。目は閉じていて頭の所々から出血していた。キイさんはそのまま付添人として救急車へ乗り込んだ。警察が到着するまでの間、僕は石田さんと変な時間を過ごした。
 現場検証では色々な事を聞かれて、同じ事を何度も何度も繰り返し聞かれ、分かる範囲で答えていたけど新入社員で今日が仕事初日の僕が上手く喋れる訳は無かった。人とのコミュニケーション能力が無いのか石田さんは相変わらずで、こんなに大変な事になっても口を開こうとしない。僕はこの石田という人間に明らかに苛つき始めていた。現場は騒然としていた。事故車両の撤去なんかも始まって、同じ現場で仕事をしている他の会社の人達や近隣住民の野次馬も集まって来ていた。ローカルなテレビ局の取材まで始まった。社長も色々な対応で大変そうだった。そんなものから解放されて会社の事務所へ帰って来たのは夕方六時半を回っていた。
 事務所にはみんな居た。事務員の綺麗な女の人もまだ居た。とりあえず手を洗ってタイムカードを押し、空いている椅子に座った。石田さんはタイムカードを押したあとにまた何かを洗い始めた。社長が事務所に入って来てからも何か次のものを洗い始めた。みんな、石田さんが洗い終わるのを待っていたけどなかなかそれは終わらなかった。病院から帰って来ていたキイさんがしびれを切らして大声で言った。
「石田、いい加減にしろ。席につけ」
石田さんは聞こえていないのか蛇口を閉める感じではなかった。
「石田ぁ」
一際大きな声と共に安達っつあんが立ち上がると、ようやく石田さんは洗うのを止めた。そこで社長がゆっくりと話し始めた。
「お疲れ様です。今日、キイさんの現場で事故があった事は皆知っていると思うけど…」
社長の声が一旦途切れて、振り絞るように告げた。
「武井君が先ほど病院で亡くなりました」
「えっ」僕は不意を突かれた。みんなからも驚きの声があがった。
 社長は目を真っ赤にして様々な感情に耐えていた。そんな時、僕の近くで変な音がしていた。ヒュルとかヒュルルとか息を吸ったり吐いたりしているみたいだった。音のする方へ顔を向けると、さっきまで洗っていたゴム製の何かを膝の上に乗せて窓の外を見ている石田だった。
「武井君はまだ二十六歳だった。これからだった…」
社長が言葉を詰まらせた。「クソっ」キイさんが机を激しく叩いた。何とも言えない打撃音が事務所一杯に鳴った。打撃音の余韻が収まりかけた時、今度は部屋にいるほとんどの人がその音を聞いた。
「ヒュルルヒュル」
加藤さんが赤い色で包まれていた。が、その前に僕の手が石田の喉を掴んでいた。
 力の加減がわからない。僕は石田を床に押さえつけ、右手はグイグイと喉にめり込んでいく。「もっとだ、もっと」と頭の中で繰り返されていた。
「やめろ、ラスカルが死ぬぞ」
誰かの声が聞こえて僕は後ろから羽交い締めにされた。石田は喉をおさえてえずいていた。誰も石田へは寄り付かず、僕に落ち着くようにと口々に促した。
 社長が石田に近寄り静かに話しかけた。
「石田君、今年で四十八だったよね?まだ大丈夫だから」
石田が顔を上げて社長を見ると、静かで優しい語り口とは相反する鬼の形相で見下ろされていた。
「明日から来なくて良いから」
社長は、先ほどと同じように柔らかい口調でそう告げて事務所の奥に入って行った。事務所の中に居たみんなも一人また一人と席を立って帰り始めた。石田はゆっくりと立ち上がりまた流し台に歩を進めた。蛇口をひねり、続きの洗い物を始めた。帰り間際に石田に近寄ったのはキイさんだった。
「ラスカル、もう洗わなくていいだろ?いつまでアライグマやってんだ?やめろ」
キイさんが強引に蛇口を閉めようとすると石田の身体が邪魔するような体勢になって蛇口の出口を変な感じで塞いでしまい水がキイさんの上半身に飛んだ。結構な勢いでキイさんの服は濡れて、白いシャツの下から全身に施された刺青が浮かび上がってきた。キイさんは無言で蛇口を閉め腕組みをした。石田は洗っていたものもそのままに事務所から逃げるように出て行った。

 次の日から週末まで門脇土木は業務を停止した。次に出社したのは翌週の月曜日だった。駅の改札を抜けて駅前の商店街を歩いていると後ろから声をかけられた。短髪の金髪でいかにもガラが悪い加藤さんだった。
「お前さ、大人しそうに見えるけど本当はアレだろ?」
「アレってなんすか?」
「またまたぁ、俺はそういうのは鼻が利くんだよ。で、どこのチームで暴れてたんだよ?」
「そんなんじゃないっす」
「ラスカル絞めるの秒だったじゃんか、俺が行く前にもう決まってて」
二人で歩きながら立ち食いそば屋の前を通り過ぎていると、向かいの牛丼チェーン店の通り側の硝子から強い視線を感じた。それは加藤さんも同じみたいで、ほぼ同時に牛丼屋の硝子に顔を向けた。
「あれって…」
「ラスカルじゃんか、あの野郎こっち見てやがる」
そう言うと加藤さんは牛丼屋へ近付いて行った。するとラスカルはそこからすうっと離れ、店の奥のカウンター席に腰を下ろした。
「んだ?あの野郎」
加藤さんがラスカルに何をしようとしたのかはわからないけど、ラスカルは、石田は、僕のことを見ていたような気がした。
 事務所へ入りタイムカードの前に立つと、武井さんのカードは所定の場所にまだ刺さっていた。石田のは無かった。仕事終わりに事務所で居合わせた数人に今朝の事を加藤さんが話していた。
「朝、駅んとこでこいつと歩いてたら、あそこの立ち食いの前の牛丼屋にラスカルがいて」
「なんであいつが?あいつんちはこの辺じゃないはず」そう言ったのは、安達っつあんとパチンコの話ばかりしている玄田さんだった。玄田さんはそろそろ定年を迎える年だけども元気で、そしてギャンブルが好きな人だ。
「牛丼屋の中からずっとこっち見てて、俺が近寄ったら奥に逃げやがって」
「たまたまだろ、そう気にすんな」後ろで聞いていた安達っつあんが張りのある声で言った。


 「お疲れ様でした」軽く頭を下げ僕は事務所を出た。
「待てって、俺も帰るわ」加藤さんが小走りで追ってきた。
「また居たりしてな」加藤さんの冗談は本当の事になった。
 駅前商店街に差し掛かる手前のコンビニに立ち寄り、僕は惣菜と飲み物を加藤さんはタバコとスポーツ新聞を買い、二人揃って店を出ようと出入口の自動ドアの前に来ると、開いたドアの正面にラスカルが立っていた。ラスカルはどこを見ているのかわからないような顔をして無言でコンビニへと吸い込まれて行った。僕と加藤さんは振り返り、加藤さんが何かを発しようとすると自動ドアは閉まった。とりあえず僕と加藤さんは駅へ歩き始めた。歩き始めてすぐ加藤さんが、らしくない口調で話しかけてきた。
「たまたまだと思うか?」
そう聞かれても、全然たまたまなんて思えなかった。

 奥のホームで加藤さんが軽く手をあげてる。それに気付いて会釈したところに電車がホームへ滑り込んで来た。電車に乗り込む。特に変わりはない。最寄りの駅名がコールされ電車を降りる。そのままアパートへ帰宅して、ようやく慣れてきた一人暮らしの夜をそつなく過ごした。
 翌朝、雨がアパートの部屋の安っぽいサッシをタカタカタカと言わせている音で目が覚めた。目覚まし時計を見ると、鳴るにはまだ早い四時頃を指していた。タカタカタカという音はベタベタと鳴りだし、勢い良くサーっという音へ変わった。
「雨か」
カーテン代わりに安全ピンでカーテンレールに吊るしたアジアン雑貨店で買った大きめの布をめくる。アパートの前の細い路地と電柱が水分を含み濃い色になっていた。電柱にもたれている何か黒っぽいものが見えた。其処はゴミ捨て場でもなんでもない。
 人だ。雨に濡れ、それでも眼差しは僕の部屋を向いているような。なんだあれ?ちょっと気味が悪いなぁと思った時、ラスカルだとわかった。何をしているのか、いつから其処に居たのか、なぜ居るのか、そんな疑問が次々と湧いてきて気持ち悪かった。そして、その気持ち悪さは徐々に怒りへと変わっていった。クソが、そう思いながら部屋を飛び出た。二階から一階への外階段を勢い良く駆け下りた。電柱のところへ来た時にはもうラスカルは消えていた。居た気配も無い。見間違いだったか、寝ぼけてたのか辺りを見渡したけど矢張何も居なかった。雨だけが僕にかまっていた。
 通勤にもだいぶ慣れてきた。いつものように駅を出て商店街を進むと、立ち食いそば屋の辺りにちょっとした人だかりがあった。金髪の若者が小太りの中年男性をアスファルトへ押し付け大声で叫んでいた。人だかりは何をするわけでもなく怪訝そうな顔で集っていた。そこは、その場を大袈裟によけて駅へ向かう人達にとっては迷惑な感じになっていた。僕は直感で加藤さんとラスカルだと思ったけど直後に、「おい、なんだよアレ」という言葉に振り向くと加藤さんが居た。押さえつけられている男はラスカルだった。
「あいつ何したんだかな?」そう言う加藤さんの表情は朗らかだった。僕は懐かしい感覚と、光るものと、何で自分が進んでいるのかわからない感覚を持ちつつそこへ入って行った。若者の拳がラスカルの頬を何度か叩き、奇声をあげていた。
「おい」という加藤さんの僕を呼ぶ声は聞こえたけど身体はもう二人の傍らに居た。金髪が振り向き僕の顔を覗き込む、ラスカルの視線も確かに感じた。目を瞑った。自分の動きは把握できないけど掌に何か暖かいものを宿していた。目を開ける直前に感じたものは確かに紫色をしていた。
 金髪は立ち上がりフラフラと歩き出した。ラスカルは泣いているように思えた。集っていた人達はポカンとした表情をしていた。僕はそのまま門脇土木へ向かって歩き出した。加藤さんが追いつき、訳の分からないものでも見たかのような表情で話しかけてきた。
「今の、アレなに?」
僕は答えようがなかった。今までもそんな事を聞いて来る者は居なかったし、説明の仕様もなかった。
「催眠術かなんかか?なんだアレ、テレビとかでやっているヤツじゃねぇのかよ」
こんな時に話しかけないで欲しい。段々と加藤さんが疎ましく思えてきた。それは加藤さんも同じみたいで、喋らない僕に苛立ちのようなものを感じているようだ。
「なんか言えって、わかんねえだろが」
加藤さんの声が一際大きくなったところで僕は、「うるさいな」と呟いた。加藤さんは表情を険しくして無言で先に歩いて行った。
 さっきまであがっていた雨が、事務所までもう少しってところでポツリポツリと降り始め、近くの田んぼで鳴いていた蛙の声に勢いがついた。蛙の鳴き声は僕の頭の中で増幅され目まいがするほどになった。
視界が虚ろになり、なんでこんなところを歩いているのかが理解出来なくなった。門脇土木の看板を通り越して道なりにズンズン歩いた。雨は容赦なく僕に降り注いだ。水田だけが雨も蛙の声も快く受け入れていた。
 
 「すみません、ちょっと寒気がして」
事務所へ電話すると、あの事務員さんが心配そうに言ってくれた。
「大丈夫?熱もあるんじゃないの?社長へ伝えておくから暖かくして休んで」
「すみません、はい、失礼します」
 僕は具合が悪いわけではなかった。それでも噓をついてしまった事を少し後悔した。それから三日間、部屋から外へは出なかった。仕事を休み始めて四日目、もうお昼近くになっていた。食べるものが無くなったのでコンビニに行こうと着替えをしている時に着信があった。門脇土木からだった。着信が終わるのを待った。十回目くらいで一旦切れて、また直ぐにかかってきた。それをまたやり過ごし、次にかかってきたら電源を落とすつもりでいたけど、五分経っても次の着信は無かった。なんで着信を待っていたのか馬鹿みたいに思え、携帯電話を枕の横に投げて部屋を出た。階段を降り、狭い敷地から路地へ出たところにラスカルが立っていた。ラスカルは僕を見ると上擦った声で言った。
「病気だった」
抑揚の無いその言い方に、誰が病気だったのかわからなかった。それよりも何でラスカルがここに居るのかが謎だ。きつくラスカルを目で殺しにかかったけど、そのまま無言でコンビニへと向かった。二日分程の食べ物を買い込みアパートへ引き返すとラスカルの姿はもう無かった。
 夕方五時過ぎにもう一度門脇土木から着信があったけどあっさりと無視出来た。なんでこうなのか、こうなってしまうのか、あの行動はなんなのか、そんな事を漠然と考えながら部屋の壁や天井を見ていた。白い壁紙のちょっとした染みが変な形に次々と変化していき、黒い渦が目の前に迫ってくるような錯覚を感じた。天井からも同じような事が起こった。そういう事を無意識に繰り返している時にインターフォンが鳴った。急に現実に引き戻された感覚で、頭を振った。インターフォンがまた鳴らされ、そのしつこさに苛立ちが起こった。咄嗟にラスカルの仕業だと思い、怒りのままにドアを開けた。
「うるせぇぞ」
「あら、元気そうね、よかった」
ドアの直ぐ前には門脇土木の事務員さんが立っていた。やっぱり綺麗だった。僕は出した怒りをどうしていいか分からずに下を向いてしまった。事務員さんは川嶋カヲルという名前で、歳は信じられないことに四十六歳とのこと。
「どうぞ、あがってください」
今言える言葉を発してみた。
「無事なら良かったわ、いつから来れる?みんな心配してるわよ」
そう突き放された。
「じゃおやすみ、仕事出てきてね」
カヲルさんの声が聞こえて、直後に階段を降りる音がして、コツコツというハイヒールがアスファルトを叩く音に変わり、その音も徐々に小さくなっていった。川嶋という苗字には微かに覚えがあったけど、それが何かは思い出せなかった。

 翌日、僕はまだ部屋にポツンと居た。昨夜は二回自慰をした。二回とも最後はカヲルさんが乱れているところで果てた。次の日からまた電車に揺られた。駅前を過ぎた辺りで少し前を歩く金髪が目に入った。急ぎ足で近付き声を掛けた。
「加藤さん」
金髪が振り向く。
「おはようございます。えっと、この前はすみませんでした」
「風邪治った?カヲルさんから聞いた」
「大丈夫っす。すんません」
それから暫く二人とも無言で歩いた。僕は何か話しかけなきゃ悪いような気がしていて咄嗟に口から出た言葉は、昨日からずっと思っている事だった。
「カヲルさんて綺麗っすよね」
「カヲルさんなバツイチなんだけど、まあな、いい女だな」
僕の中にタイトスカートが似合う紺色のスーツを纏ったカヲルさんが現れた。
「今は社長の、なんつうか、女だけどな」
「え?」
僕は滅茶苦茶動揺した。なんだか社長とカヲルさんの激しく絡み合う場面が急に頭の中のスクリーンで上映され始めた。
「いいなぁ社長は」
そう言って加藤さんは事務所へ入りタイムカードを押した。

 梅雨の晴れ間は空気が重い。体全体に湿り気のあるものが纏わりつく。午前十時の一服の時にはみんな口々に、暑いよなぁとか言いながらも特に変わった事もなく煙草を吸ったり、飲み物を飲んだりして休んでいた。
 掘削した道路の縁で玄田さんがペタンと座り込んでいるように見えたのはお昼近くだった。安達っつあんが声をかけて軽く肩へ触れると玄田さんの首がカクンと折れた。玄田さんは気を失っていた。
 玄田さんは熱中症をおこしていた。病院の先生は感心した。うちの社長は特に従業員の安全と健康には気を使っている。そのため夏場になる前には熱中症対策のあれこれを大事な仕事の時間を割いてでも従業員にレクチャーしていた。そのために現場にいた四人は僕を除き手際が良かった。病院へ着くころには玄田さんの意識も戻りつつあった。
「熱中症は非常に危険な症状です。特にお年寄りは死に直結するほどです。でも皆さんのチームワークは素晴らしかった」
それを聞いてみんなちょっと照れくさそうだった。僕はアタフタしていて少しだけ手を貸しただけだったので居心地が悪かった。
 玄田さんは三日で退院出来た。それから数日自宅療養してから出社してきた。朝礼の時に玄田さんは挨拶をした。
「すみませんでした。迷惑をかけました。そして、本当にありがとうございました」
そう言って深々と頭を下げた。
「玄田は考えました」
そう言うと事務所の天井を見上げて間をとった。玄田さんは続けた。
「社長とも話して、仕事を辞めることにします」
「ちょっと待てって」安達っつあんから声があがる。
「いや、実際もう歳だし、またこんな事になるかもって思うと、とてもとても」
「玄田さんの娘さんからも話があって、これからは娘さんとこで同居することになるそうです」
社長も寂しそうな口ぶりだ。
「年寄りの一人暮らしはいけねぇって、孫にもまだ手がかかるからみて欲しいって娘に言われて」
そう話す玄田さんは穏やかで少し嬉しそうに見えた。
 週末に玄田さんの送別会が駅前の居酒屋で行われた。となりに座った加藤さんがしきりにビールを勧めてくる。
「俺飲めないんすよ」「噓こけ、誰が飲めないだよ?」「いや本当に、それに俺未成年だし」
「こらこら加藤駄目だぞ」社長が斜め向かいの席から止めてくれた。社長の横で玄田さんが酔っていた。
「玄田はしあわせでした。社長、永いことお世話になりました」
普段は声が大きい安達っつあんは静かにやっている。キイさんはごきげんだ。真面目そうな出井さんと稲嶺さんがカヲルさんにちょっかいをだしているけど、カヲルさんは軽くあしらっている。和やかな雰囲気の中、居酒屋の入口から一人の男が入ってきた。
 「お一人様ですか?」という店員の呼びかけに無言で頷いたのはラスカルだった。ラスカルは小上がりを背にしてカウンター席に座った。門脇土木の一行は小上がりで良い感じになっていた。僕は横の加藤さんをつつきラスカルを指差した。
「ラスカルじゃんか、社長うしろうしろ、ラスカルいますよ」
小上がりでカウンター席に背を向けてた社長が振り返った。ラスカルは出てきたコップ酒に口をつけるとこだった。
「もういいから、気にすんな、関係ないから」
そう言ってから玄田さんに寄り添った。そしてカヲルさんへ目配せし、カヲルさんはどこかへ電話をかけた。
「門脇土木ありがとうぅう」
大声で言いながら両手を高く上げている。玄田さんはベロベロになっていた。カウンターへ目をやるとラスカルが帽子をとるところだった。帽子をとったラスカルは金髪だった。
「なんだよラスカルじゃねぇじゃんか」
加藤さんが陽気に言った。僕は不思議だった。店に入って来た男は確かにラスカルだったはずだけど見間違いだったのか分からなくなった。そのあと玄田さんの娘さんが玄田さんを迎えに来た。小上がりの前に立ち、頭を下げた。
「お父さん帰るわよ、もうこんなに飲んで」
「まあまあ、ちょっと一緒にどうですか?」
稲嶺さんはそう言って娘さんに赤ら顔で手招きした。普段の真面目な稲嶺さんとは大違いだ。
「皆さん長い間お世話になりました。これで失礼します。カヲルさん連絡ありがとうございました」
玄田さんは目を瞑りそうになりながらよろよろと歩いて娘さんと一緒に店を出て行った。
「主役も帰ったし段々とお開きにするぞ、まだ飲みたい奴は飲んでてもいいけどここから先は自腹だからな」
社長とカヲルさん、安達っつあんは席を立った。社長が会計をやっているときにカヲルさんが小上がりまで戻って来て僕を呼んだ。
「社長からよ」
そう言って僕の手に一万円を握らせた。
「あんまり飲み過ぎちゃダメよ、おやすみなさい」
カヲルさんは笑顔で手を振って帰っていった。そのあとキイさんも「じゃ俺も行くわ」と言って店を出て行った。出井さんと稲嶺さんはもうかなり酔っていた。
「カヲルちゃん、なんだって?」
出井さんはそう言って僕の股間を軽く叩いてきた。
「カヲルちゃん、たまらんよなぁ」
そんな事を言う稲嶺さんの目は、なんだか怖いくらいだ。そんな事をやっている時、カウンターの金髪がこっちを見た。目を細めて挑発的にも見える。
「ラスカルてめぇ、何見てんだ」
稲嶺さんの口から聞いたことのないような暴言が吐かれた。それを聞いたラスカルが立ち上がった。金髪になってたけどやっぱりラスカルだった。ラスカルも出井さんも加藤さんだって、当然稲嶺さんもみんな赤い色をしている。
「ちょいちょいちょい、ちょっとすみませんどうしましたか?」
店員が気付いて寄ってきた。唯一酒を飲んでなかった僕は取り繕った。
「すみません、いや知り合いなんです。すみません、ホントすんません」
そうは言ったものの何の解決策も無かった。
「出ましょう、すみませんお会計お願いします」
僕はレジへ行き少しばかりの支払いを済ませた。帰り支度をしたみんながよろよろと小上がりの席を立ち、カウンターのところを出入口へ向かって歩いている時に、加藤さんが金髪の後頭部を軽くはたいた。店を出て駅へ歩き出したけど出井さん加藤さん稲嶺さんは、もう一軒行くなんて言いながらさっきの店がある方へ引き返して行った。
「俺帰りますよ」
僕はそのまま駅に向かおうと歩き出した。「おっ」という声がして、ガッシャーンと自転車の何台かが倒れる音が聞こえた。振り返ると小太りの金髪が身体ごと加藤さんに突っ込んでいるみたいだった。直ぐに稲嶺さんと出井さんがラスカルを取り押さえた。自転車の上にいる加藤さんは動かない。僕は小走りで加藤さんの所へ行った。
「加藤さん、大丈夫っすか?」
「ボケが何やってんだラスカル」
稲嶺さんが叫んだ。加藤さんは目をしっかりと見開いていた。怒りが身体全部を包んでいるようだ。自転車が「ガシャっ」と小さな音を立てて加藤さんがゆっくりと立ち上がった。
「出井さん、稲嶺さん、ちょっと離れてください」
出井さんと稲嶺さんがラスカルから離れた。地面に座っているラスカルの前に加藤さんが近付いたと思ったら、「どかっ」という鈍い音がして右足の靴先がラスカルの横腹にめり込んだ。直ぐに右足は引き抜かれ、早くも顔面を捉えていた。
「ざけんなオラ」
次の蹴りを繰り出した時、ラスカルは加藤さんの右足にしがみついた。加藤さんは咄嗟に左足を振りかぶった。ラスカルは右足にしがみついたまま身体を捻ると、加藤さんはバランスを崩して倒れてしまった。僕の中が光で一杯になり二人に近付いた。左の掌を加藤さんの背中へ、右の掌をラスカルの背中へ置いた。掌のものが二人に入っていく。ラスカルは手を放し、加藤さんも力が抜け二人共ぐったりとなった。僕は立ち上がり、出井さんと稲嶺さんに会釈してからまた駅に向かって歩き始めた。出井さんと稲嶺さんは変な顔をしてお互いを見ていた。
駅へ歩きながら感覚がおかしかった。自分は何をやっているんだろうという思いに苛まれた。何故次から次へとこんな事が起こるのかと考えてみると、答えは意外とシンプルなものだった。

 寝過ごしたと思って素早く身体を起こしてから、今日が日曜日だという事実が徐々にわかってきた。また雨か、と声に出さずに確認した。咄嗟にカーテン代わりの布をめくると電柱のところになんとなくラスカルが居るような気がしていた。そのまま部屋を出て外階段を降り、電柱を見たけどラスカルは居なかった。雨が頭をコツコツと叩いた。
 肩が雨でじんわりと濡れてきてまた部屋へと帰った。途中、階段下のポストに溜まった色々なものを鷲掴みにした。部屋へ入ると濡れた髪から水滴がフローリングの床へ落ちた。ショッキングピンクのカラフルなチラシ、何とかという宗教の冊子、三週間前の大売り出しの告知、公共料金の支払い用紙とかに混じって少し大きめの封筒があった。母さんからだった。元気でやっているの?とか、たまには電話しなさいとかそんなことが書かれていて、僕宛にきた手紙が同封されていた。差出人は川嶋十四朗という人からだった。その名前に見覚えはなかった。
 お久しぶりです。と始まる文章にあの広場を思い出し、財布の中に仕舞い込んでいた名刺を取り出した。そうだあの人だと、手紙を読んだ。伝えたいことがあるから一度会ってほしいとのこと。
名刺と携帯電話を交合に見ながらその番号に電話したのは、手紙を読んでからシャワーを浴びたあとだった。あの名刺を貰ってから二年程経っている。その間、あたりまえだけど一度も連絡はしていないし、電話番号が変わっているかもしれない。それでもメールを打つよりも直接電話しようと思った。決着をつけないといけないとそんな事を思った。繋がらなかったら繋がらなかったでそれまでだと。
「はい、川嶋です」
川嶋十四朗は二回目のコールであっさりと出た。僕は少し出鼻を挫かれたけど、とりあえず話し始めた。
「手紙を読みました」
「ありがとうございます。高校を卒業されてこの街を出られたと聞きました」
「ところで、いったい何です?」
「あなたはご自分の、その力にまだ気付かれてないでしょう?」
力?力ってなんだ?僕は少しの間考え次の言葉を探した。
「川嶋さん、何か勘違いをされていませんか?僕には力なんか無い」
「数人ですが集まりました。一度お会いできないでしょうか」
川嶋十四朗は変なことを言った。何が集まったというのだろう。
「突然ですけど今日の午後お時間もらえないでしょうか?」
その言葉が僕を押した。直接会おう、直接会ってこの関係を終わらせよう。少し苛つきだした僕は結果を急いだ。
 駅の近くにその喫茶店はあった。普段この道を通って駅へ向かっているのに、こんな所にこんな喫茶店があった事に今日初めて気付いた。重みのある木製の扉を開けて中へ入ると二つ先のテーブル席にいた川嶋十四朗と目が合った。テーブルには他に二人座っていて、一人は二十代くらいの若い男で、もう一人は中年の女性だった。店の中は閑散としていて窓際の席に読書をする老人が一人居るだけだった。
感情を殺して「お久しぶりです」と声をかけてテーブルについた。初対面の二人は無言で俯き加減だったけど視線はしっかりとこっちに向かっている。
「こちらが今川君、お隣が左近川さんです」
川嶋十四朗に紹介された二人がペコンと頭を下げた。そのまま一分近く誰もが無言だった。僕は、なんの為にここに来たのだろう?そんな事を思い始めた時に川嶋十四朗がようやく口を開いた。
「急にお呼び立てしてすみませんでした。お願いをしたくて今日は来ました」
そこへ三十代くらいの顔色の悪い男が僕の注文を取りに来た。毛糸で編んだベレー帽を被り口髭を蓄えていて瘦せていた。
「アイスコーヒー」と告げてから川嶋十四朗を見た。
「ここに居る今川君と左近川さん、それにあと二人がわたしと一緒に動いています」
「動いている?」僕はその動くという言葉に、昔の学生運動みたいな事を想像した。
「あなたに、わたしたちを見届けて欲しいのです」
川嶋十四朗がそう言うと俯き加減だった二人も顔をあげてこっちを見た。
「見届けるって、川嶋さん、電話でも言ったけど何か勘違いしてますよ。あなた達が何をしているのか分からないけど僕には関係ない」
川嶋十四朗は微笑を浮かべた。一緒に来ていた二人は彼に目を向けた。喫茶店入口の扉に何かがぶつかったような音がして、窓際で読書をしていた老人が無表情のまま木製の扉へ顔をやった。もう一度ゴンという音がして扉が開いた。入って来たのはラスカルだった。
「その人に、な、な、なにする」
ラスカルは酒に酔ってるみたいな感じだった。店内の空気が鼻の奥をツンと締め付けるような、そんな嫌な感じに一瞬で変った。
 川嶋十四朗は黄色、今川君と左近川さんは薄水色、ラスカルは赤に近いオレンジ色になっていた。ラスカルは手に棒みたいなものを握っていた。ラスカルは棒を振りかざしながら近付いて来る。またこいつだ、僕は嫌気がさした。
 「やめろ」と僕が言うのと同時にラスカルの棒がテーブルを叩いた。今川君と左近川さんが椅子に座ったまま後ずさる。ラスカルが次の一撃を繰り出すために振りかぶった時、川嶋十四朗の笑顔が際立った。僕は掌をラスカルの胸へかざした。ラスカルの動きは止まり、床にへたり込んだ。静まり返った店内で川嶋十四朗が笑いながら自信に満ちた声で言った。
「これがあなたの力だ。これだけじゃない。あなたには神が憑いている。いや貴方が神なのです」
今川君と左近川さんの目つきが完全に変わっていた。川嶋十四朗はまだ笑っている。

 駅前ロータリーの中程にベンチがあって、僕とラスカルは二人で座っていた。夕方から夜に入っていく様に陽は沈んでいった。二人共無言だった。生温い風が吹いた気がした。
「何がしたいの?」
「た、助けてほ、欲しい」
「何言ってんの?」
「おで、見えた。む、む、紫のひ、ひかり」
溜息が出た。やっぱりか、あの光かぁ、そうかぁ。なんとなく感じていたあの事を短い言葉で的確に突かれた。それからラスカルはたどたどしく話し始めた。言葉を発すると、どもりが出る事、それは吃音症という言語障害の一種だとか、そんな自分を受け入れてくれた門脇社長への感謝、同僚達からはそれを馬鹿にされていた事、特に若いあの二人には「何言ってんかわからないから喋るな」「声、きしょいから」そんな事を言われていた事、ちょっと潔癖症なとこがある事をゆっくりと、どもりながら話した。だからあの時も声を出さなかったのかと納得した。
「ば、罰があたった。アレは武井は、い、い、いい気味だった。し、死ぬと、とはお、おもわな、思わなかった」
僕は少しだけラスカルに同情した。あと、聞いておきたい事を聞いた。
「その頭、なんで金髪にしたの?」
「た、武井もか、か、加藤もきん、金髪だ」
だからってあんたも金髪にする理由は無いと思った。そこからまた暫く間があってから、今までよりも少し太い声がした。
「こ、こ、これから、い、いく、い、い、一緒にいくか、から」
 ラスカルの目は真剣だった。

 「パープルってどうでしょう?」
川嶋十四朗は電話口でそう言った。そのグループの名称だと。もう何を言っても聞き入れられそうになかったけどラスカルを使ってみようと思った。
「わかりました。では受ける条件として、そのパープルへあの男も入れてください」
「あの男とは誰ですか?」
「あの時、喫茶店で暴れた男です」
川嶋十四朗は暫くの間黙り込んだ。
「あの人はお知り合いですか?わたしたちに敵意剝き出しだったじゃないですか」
「助けてあげたくなりました」
川嶋十四朗はまた声を無くした。携帯電話の向こう側で感情が昂っているのが伝わってきた。
「遂に開いたのですね、わかりました。では受け入れましょう」
「それとパープルという名前ですけどパープルライトの略称としてPRにしませんか?そうした方が言葉に紛れて後々便利だと思いますよ」
自分でも何を言ってるんだと思った。何かの組織に足を踏み入れたという事なのに、なんだか他人事みたいに思え、それなのに早くも提案じみた事までやってしまっている。PR、なんだそれは?
「PR、素晴らしい。わかりました。今川君達へ伝えます」
そうして電話は切られた。これから何かが起こるのか全く分からないし、ラスカルを助けるとはどういうことかも、PRが何をするのかも、僕がどうすればいいのかも何も分からなかった。

 夕方の全国ニュースで僕の地元の事が報道されていた。葛城ジュンライアン徹、山勝義春という共に二十六歳の若者が公園の敷地内で死亡していたというもので、事件事故の両面から捜査が行われているという事だった。公園の映像も少し映ったけれども所々モザイク処理がされていて場所を特定し辛かった。頭の中に自分がよく行っていたあの広場が浮かんだけど、あの場所を公園と呼ぶには少し無理があると思った。念のために川嶋十四朗へ連絡を取ってみたけど電話に出ることはなく、とりあえずメールを入れておいた。
 翌日、川嶋十四朗から着信があった。テレビを見ていないから詳しくは知らないけど街に警察が多く出ていると言っていた。それから近々こちらへ引っ越して来るという事だった。理由は特に聞かなかったけど、なんとなく、集まり始めるのかなと思った。
 久しぶりに母さんに電話をかけてみると嬉しそうだった。事件について聞いてみたら、現場はあの広場だった。
「救急車の音がして、それからパトカーが何台か来たみたいで、何かあったのかしらって思っていたら夕方のニュースでやってて、次の日なんかテレビとかの撮影する人達が何組もいたわよ。うちにまで来たんだから」
普段クールな母さんが珍しく言葉数多く話してくれた。

 越して来たのは、川嶋十四朗と今川君それにラニーという外国人だった。僕のアパート近くに部屋を借りて三人で住み始めた。
「左近川さんには旦那さんと小学生の男の子がいるので流石に引越しは無理で、あと一人の、彼は、ちょっと事情で来れなくなりました」
 ラニーは僕に頭を下げた。僕も下げると驚いたような顔をして川嶋十四朗の方を向いた。ラニーはインドネシア人で歳は二十五、身体は細身だけど力は強く瞬発力も相当なものらしい。数年前までインドネシア軍に所属していて除隊後に来日したとのこと。褐色の肌は、艶があり綺麗で顔つきも整っている。髪は短く刈り込まれ顎髭を生やしていて目つきは鋭い。
 川嶋十四朗は借りた部屋をPR本部だと言った。此処で何をしようとしているのか分からなかったけど、僕が彼らのリーダーで間違いはなかった。
 ラスカルを連れて川嶋十四朗達のアパートへ向かった。部屋の入り口にはPRという表札みたいなのが掲げてあった。部屋へ入ると、川嶋十四朗はパソコンで作業しているようだった。今川君は地図を広げていて、ラニーもそれを覗き込んでいた。
「ラス」と言いかけて少し考えた。
「石田さんです。これから一緒によろしくお願いいたします」
僕がそう言うと、川嶋十四朗と今川君は複雑な表情をした。続けてラスカルが口を開いた。
「い、い、石田で、す。こ、こ、この前は、わる、悪かった。この、このしとにつ、ついていきたい」
 ラスカルの事を知らないラニーは、何か珍しいものを見たような、好奇心を持った目でラスカルを見ていた。
「わかりました。石田さん、よろしくお願いします。もう暴れたりしないでくださいよ」
川嶋十四朗はそう言ってラニーの方を見ていた。
「川嶋さん、これから具体的に何をするのですか?」
僕は疑問をそのままぶつけてみた。何故彼らが集まっているのか未だにわからない。
「困っている人を助けてあげようと思っています」
「ボランティアとか便利屋さんみたいなものですか?」
「そうですね、そうとも言えますね」
「PRは会社ですか?」
「会社というか共同体というか、でも生活に心配はありません。あと一人くらいなら一緒に住めますけど、石田さんはどうされますか?」
それを聞いて今川君は天井を見上げた。
「お、お、おで、ここに来、来てい、いいのか?」
ラスカルが僕を見た。ラスカルの安心したような顔を初めて見た。ラスカルはその日の夜にボストンバッグを二つ抱えてPR本部へやって来た。

 来日したラニーは、ようやく街にも慣れてきたところだった。一人二人と知り合いも出来て夜の繫華街で楽しい時間を過ごしている時だった。だいぶ酒も進み、次の店に行く前に公衆トイレで用を足していると二人組が入ってきた。彼らも酔っているようだった。
「おっ、誰かと思えばクロンボじゃん。元気?勇気?チンポンチー?」
ラニーは相手にせずに早くそこを立ち去ろうと思った。
「シカトすんなってチンポンチー」
後ろから肩を掴まれたけど、ラニーは自分に言い聞かせた。駄目だ、駄目だ、あの時を思い出せ、駄目だ。
「チンポンチーつってんだろうが」
男はラニーの髪に手をかけた。もうひとりの男は、すぐそこのコンビニへ入って行った。
「神よ」
 ラニーの右の拳は男の左顎を捉えていた。男は狭いトイレで顔から壁にぶつかった。その直後ラニーの左腕は男の横っ腹に強烈なボディブロウとなってめり込んでいた。前屈みになった男の口から血の混じった嘔吐物が湧き出してきた。「やめろ、やめろ」という声と「まだだ、もっとだ」という声が鳴っていた。ラニーの右足は男を蹴り倒していた。男はトイレの床に仰向けに近い状態で倒れていた。暫くすると動きが止まった。
 ラニーが軍を除隊した理由は、同僚とのトラブルで過剰に暴力を振るってしまい相手に瀕死の重傷を負わせたからだ。その時の記憶が重く思い出されていた。
「おい」
ラニーが声を掛けても男の反応は無かった。川嶋十四朗がその公衆トイレに入って来たのはそんなタイミングだった。床に倒れている男を見ながらも、先ずは用を足すのが先決だった。巻き込まれたくないなと思いつつも倒れている男に見覚えがあった。用を終えてから改めてよく見てみるとやはり奴だった。川嶋十四朗はこんな事が本当に起きるのだなと傍にいた外国人に声を掛けた。
「君がやったの?」
ラニーは素直に無言で頷いた。川嶋十四朗は笑顔だった。脈をとってみたけど無かった。
「素晴らしい」
そう言って川嶋十四朗はラニーを称えた。
「わたしの車まで一緒に運んでくれるよね。そこの道に停めてあるから」
ラニーは川嶋十四朗と一緒に男を両側から支え、酔っぱらいを介抱するような感じで車まで運んだ。後部座席に男を入れて、ラニーは助手席へ座った。ラニーは、会ったばかりのこの男に従うしかなかった。
 車の中で川嶋十四朗は後部座席に横たわっている男の素性をラニーへ話した。それを聞いてラニーは少しだけ気持ちが楽になった。どれくらい走っただろう、車は山道から更に脇道へ逸れて進んでいた。もうこれ以上は車では無理というところで停まった。エンジンを切ると暗闇の中で何も見えなくなった。ラニーは不安に駆られたけど川嶋十四朗は落ち着いていた。
「大丈夫、もう少ししたら目が慣れるから。ほら、月もあの辺までくれば木の枝を交わすし」
目が利くようになって、後部座席から男を下ろした。二人で引きずる様に森の奥へ進んだ。木の根や石に足を取られながら歩いていると、空気が少し湿り気を帯びてきたのがわかった。
「あそこ」
 川嶋十四朗が指差す先に池のような場所が見えた。ようやく辿り着いた其処は古い溜池だった。今はもう使われている様子はなく、池の周りは雑草が生い茂っていた。川嶋十四朗はラニーに石を集めて来るように言い、自分は車に積んでいた土のう袋とロープで準備に入った。土のうに石を詰め、ロープで男の体へ縛りつけた。三袋も縛りつけると男の体重と相成ってかなり重くなった。どうにか池の淵まで運び、頭の方を池の水面へと傾けると自重でゆっくりと雑草の上を滑りながら男の死体は溜池の中に沈んでいった。溜池の中から立っていた気泡も徐々に無くなり、淡い月明かりに浮かび上がるお互いの顔が人の顔をしていないように思えた。

 左近川静代は疲れていた。息子が小学校へあがってからは何かと同級生の親との付き合い方やPTAの活動に嫌気がさしていた。元々社交的な性格ではなくそういう事が苦手だったのだけれど、相談出来る友人などおらず、夫へ言っても「学校の事はお前がやれ」と聞く耳を持ってくれなかった。誰もが通る道とか、今だけだからとか、親として当たり前のこととか、そんな声ばかりが聴こえてくる。日々、子どもが学校から持って帰ってくるプリント類を見るのが嫌だった。次々と行われる小学校の行事、親子参加型のイベント、奉仕活動、提出物の数々、そんなものの他に「親睦を深めましょう」なんて言いながらどこかの親が張り切って要らん飲み会を企画したりしていた。ある事件が報道されたのはそんな時だった。

 その地域では四組程の家族を一班として、毎日交代でどこかの親がその班の子どもたちを保育園に送って行くという決まりがあった。外国人の母親はそのことに戸惑っていた。まだ幼い自分の子供の事だけで手一杯だった。日本人の夫は仕事に追われていた。ようやくこの土地に建売住宅を購入したばかりだ。
 保育園への送り当番は週に一度のペースで回ってきた。外国人の母親はとてもストレスを感じていた。保育園の先生にも相談してみたけど上手く伝わらず「地域の事ですから」「そのうちに慣れますよ」「みなさんやられていますし」そんなトンチンカンな言葉が返ってくるばかりだった。その日、外国人の母親は自分の子どもを含め四人の子どもを車に乗せて保育園へと向かっていた。
 車通りの少ない農道で母親は車を停車させた。運転席から降り立ち、後部座席に乗っている子どもを一人ずつ呼んでは手にかけていった。自分のこども以外の三人を殺害したのだ。左近川静代はこのニュースを知った時、外国人の母親へ強く同情した。
 スーパーの出口を出たところで腕を掴まれた。振り返ると体格の良い若い女だった。
「レジを通っていない商品がありますから」
女が告げると店の中からスーツ姿の男二人も現れて脇を固められた。買い物客がちょっとざわついた感じでそれを見ていた。左近川静代が三人に囲まれるようにして店の裏口へ誘導されていく様子を見て川嶋十四朗は高校生の頃の自分と重なっていた。あの、最も屈辱的だった出来事だ。通用口の扉が開いたあたりで四人に追いついた川嶋十四朗は咄嗟に声を掛けた。
「すみません、何かあったのですか?」
スーツの男二人が怪訝な顔をした。
「妻なんです」
川嶋十四郎が言うと、若い体格の良い女が軽く会釈をした。
「バッグの中に会計が済んでいない商品をお持ちです」
左近川静代は川嶋十四朗を見ていた。
「すみません、すみません、わたしがお支払いしますから」
そう言って川嶋十四朗は何度も頭を下げた。一緒に事務所まで行き店長に土下座した。初犯ということもあり何とか許して貰った。
「若い旦那さんに感謝するんですよ、もうこんな事は絶対にしないでください」
最後にそう言われて解放された。二人で深く頭を下げ事務所を出た。暫く無言で歩いていると左近川静代が足を止めた。
「どうもすみませんでした」
左近川静代は深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございました。すみません、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「わたしは川嶋といいます。つい、妻だなんて言ってしまってごめんなさい」
「いえいえそんな、川嶋さん、わたしこれから帰って夕飯の準備とかしないといけなくて…すみません、本当はもっと、そのぉ、すみません、あのぉ主人へは今日の事は」
「大丈夫です。勝手にやった事なんで気にしないでください」
「後日お礼をしたいので連絡先だけでも教えてもらえませんか」
川嶋十四朗は名刺を渡してそのまま別れた。連絡なんか来ないと思っていたら次の日にあっさりと電話がかかってきた。
「左近川です。昨日は迷惑をおかけしてすみませんでした。お礼をしたくて連絡させて貰いました」
「お礼なんていいですよ」
「それではわたしの気が…」
とそこまで言って、左近川静代は考え込んだ。わたしの気が済まないなんてどの口が言うのだ。彼女は電話口で急に無言になった。
「では、手伝って欲しい事が出来たらこちらから連絡させてもらっていいですか?」
「あ、はい、わたしに出来る事なら何でもします」
そうやって左近川静代は川嶋十四朗に納まっていった。

 今川国元はコンビニエンスストアで働くフリーターだ。高校を卒業して就職した会社は三か月もしないうちに辞めてしまった。そんな事で両親とも折り合いが悪く、何か目標があるわけでもなく、惰性で一応働いていた。実家暮らしの国元は顔を合わす度に父親から小言を喰らっていた。
「どうだ仕事、あれを一生やっていくのか?コンビニエンスストアの経営でもしようと思っているのか?」
国元は小さく呟く。「うるさい」
「フランチャイズをお考えか?ハハハハハそんな訳無いか」
ドンという音を立てて国元は廊下の壁を右手で叩いた。そして自分の部屋へ向かった。
「なんだその態度は?国元、国元」
背中に父親の声がピイピイと聞こえた。
 その日は早番で、そろそろ仕事も終わる頃だった。レジカウンターの中に居た国元は、店に入って来た客にため息をついた。
「またきた」
 国元が働くコンビニエンスストアは街道沿いにある。その為に客層は近隣住民よりも街道を通る車、観光バス、トラックなどが立ち寄る事が多い。そんな中、その少年は度々店を訪れ店員達を困らせていた。近所に住んでいるのか徒歩でやって来る。最初のうちは母親と一緒に来ていて、お菓子やアイスクリーム、カップラーメンなんかを母親が持つ買い物かごの中に次々と放り込んでしかられていた。歳はよくわからないけど、小学生の低学年に見える。そしてダウン症だ。それが近頃は一人でよく来るようになっていた。お客として来る分には何の問題も無いのだけれど、その子の所持金は百円だったり三十円だったりして、にもかかわらず買い物かご一杯に商品を詰め込んでレジの前に立つ。
「お会計七千三百五十二円です」
そう告げると笑顔で小銭を差し出す。
「足りないから買えないよ」
するとみるみるうちに表情が曇り、泣き始めてしまう。かごの中の商品を陳列棚へ戻していると、後ろからやってきてお尻のあたりを勢い良く殴りだす。力が弱いから殴られても何ともないのだけど、来店する度にこれの繰り返しで店員達は困っていた。
「来るなら俺があがってからにしろよ」国元は小さな声でそう言った。いつものように買い物かごを手にして店内を物色し、商品でいっぱいになったそれをレジカウンターへ乗せた。その子の後ろに一人の客が並んだ。通常なら隣のレジへ誘うのだけどシフトが切り替わる今の時間帯には国元しかレジ係がおらず、これから始まる一連の事柄を見られるのが嫌で、気を利かせたつもりで言った。
「お先に会計しますのでどうぞ」
「いや、この子が先に並んでいたんだし待っていますから」
男はそう言って笑顔を見せた。仕方なくかごの中の商品をバーコードに通していく。
「お会計六千八百四十七円になります」
すると意外なことに少年は千円札を一枚差し出し満面の笑みを見せた。千円札には少し驚いたけどやはり全然足りなかった。
「足りないよ」
「噓つけ」
「いや、本当だよ」
「これ紙のお金だぞ。紙のお金はなんでも買えるの知ってるんだぞ」
そう言って少年は引かない。国元が困っていると、後ろでそれを全部見ていた男が少年の肩をそっと触った。
「ねぇ、この中でどうしても欲しいものを教えて」
すると少年は商品を選別し始めた。最後にカステラがサンドされている菓子パンを置いてから男の顔を見た。
「すみません、こっちの商品だけもう一度会計してもらっていいですか?」
男に言われ国元はもう一度レジスターと向き合った。
「お会計三千四十円です」
少年は誇らしげに千円札を差し出す。
「あと足りない分はわたしが出すから袋へ入れてやってください」
男はそう言うと二千五百円を現金トレーの上に置いた。商品を受け取った少年は特に男に何も言わずに大きめのレジ袋二つを両手に店から出て行った。
「いいんですか?」
国元は男に言った。男は自分の分を会計してもらっていた。
「おなかいっぱい食べさせてあげたいじゃないですか」
男はそう言って雑誌とコーヒーを受け取った。これが川嶋十四朗との出会いだった。

 「ノズエが捕まった」
左近川静代から連絡を貰った川嶋十四朗はラニーと今川国元へそう伝えた。深刻そうな三人を部屋の隅でラスカルが見ていた。
 あの事件が急展開していた。犯人が逮捕されたのだ。ニュースの画面に映し出された犯人の写真は高校の卒業アルバムの写真だろう。藤田乃洲衛(二十一歳)職業フリーターとなっていた。
 川嶋十四朗は常に彼等の事を調べていた。川嶋十四朗は裕福な家庭に育った。その裕福さは羨ましがられる反面、マイナスなものを惹きつける事もあった。成長するにつれ、それは疎ましく思う場面が増えた。中学、高校と進むにつれて川嶋十四朗のそういう部分につけ込みたい輩が寄ってくるようになった。それでも正義感の強い彼は、跳ね返していた。そうやっていくうちに逆恨みをする者が出てきた。
「金持ちのくせに」「自分さえ良ければいいのか」「生意気だ」「あいつ陰で悪い事ばかりしているんだぞ」そんなどうでもいい噂が独り歩きしていった。そういう噂はその時期の当事者たちにとっては、かなり重要に受け止められ、遂にはあの集団リンチみたいな事へ発展していた。それでも川嶋十四朗は屈しなかった。そしてあそこであの人に出会ってしまった。あの日を境に川嶋十四朗への嫌がらせはピタリと止まった。それからは何事もなかったかのように高校生活は過ぎていった。それでもあの集団リンチは耐え難いものだった。肉体面というよりも精神が酷く傷ついた。川嶋十四朗はあの五人の事をずっと追っていた。
 ラニーと偶然出会ったのは奇跡だと思った。ラニーが殴り殺してしまった男はあの五人の内のひとりだった。共犯者となってしまった二人が行動を共にするのは自然な流れに思えた。
 まさかあの人もここに住んでいるとは思っていなかった。電話を受けて鳥肌が立った。その日の午後に、左近川さん、今川君と一緒にこの街を訪れる事は前から決まった事だったからだ。姉から連絡を受けたのは、新聞の地方版に小さく載っていた工事現場の事故の記事を見た前の日だった。二十六歳の現場作業員死亡と出てた。姉も少し興奮気味で話した。
「うちの会社に居るって言ってたでしょ、あんたが捜している武井康隆、さっき死んだわよ」
それを聞いて力強く拳を握りしめた。知らないところで事が進んでいるみたいだった。それで、その諸々を確認するために日を設定していたのだ。

 インターネットの掲示板で妙な事柄が取り沙汰されていた。公園で殺害されていた葛城ジュンライアン徹、山勝義春の二人は同級生で、更に行方がわからなくなっている門田作雄もそう、隣県で仕事中に亡くなった武井康隆までもが高校時代に一緒につるんでいて、あまり良い噂を聞かないグループに所属していたというもの。あくまでもインターネット上の噂なので信憑性は低かった。それでもネットの住民たちは面白おかしく、そのグループ名だの他にメンバーは居なかったのかとか、そんな事を調べたり騒ぎ立てたり適当な噓を投稿したりしていた。
「ノズエが捕まるのは想定内の事だったのだけど、石田さんあなたが武井をやったのですか?」
川嶋十四朗はラスカルに向き合っていた。
「い、い、いや、あれ、アレは事故、お、おれは、み、見てただ、け」
「そうだったんですね、なんという」
川嶋十四朗は笑顔だった。川嶋十四朗のところに集まった人たちは皆偶然に集まってきた。川嶋十四朗にはカリスマ性みたいなものが備わっていた。ラニーも左近川さんも今川君も川嶋十四朗に会うたびに惹かれていった。そして川嶋十四朗はその度に若き指導者の話をしていた。そしてその一片を、左近川静代と今川国元はあの日初めて訪れたこの街の喫茶店で目の当たりにしたのだ。
「石田さん、あなたまでが何かに導かれるようにここにこうして居るみたいです」

 逮捕された藤田乃洲衛は絶対口を割らなかった。動機も一貫していた。飼っていた子犬をあの二人に殺され、何年もつけ狙いその時を窺っていたと、単独犯である事を主張した。
 ノズエだけはちょっと違う経緯で川嶋十四朗に近付いた。川嶋十四朗が裕福なのは昔から変わりはない。近所に住むノズエにはどうしても纏まった金が必要だった。その夜、意を決して川嶋十四朗を訪ねると、丁度外出するみたいだった。黒っぽいぴったりとした服を着ていて、もう一人は外国人に見えた。ノズエは咄嗟に身を隠してしまった。川嶋十四朗ともう一人は急ぎ足で暗闇を進んだ。ノズエは二人を目で追うと自分も必死についていった。暫く行くと墓地の手前の広場が見えてきた。
 ノズエには来年春に大学に進学予定の弟がいる。高校を出てフリーターをやっているノズエに弟の進学資金を捻出する事は到底無理な事だった。ノズエのうちは父子家庭で、父親は数年前から身体の調子が思わしくなく、ほぼ毎日家にいるような感じだった。弟だけはどうしても進学させてあげたかった。兄想いの優しい弟で、父親の事や家の仕事も嫌な顔ひとつ見せずに進んでやっていた。ノズエは恥を偲んで川嶋十四朗を訪ねたのだった。

 葛城ジュンライアン徹と山勝義春は夜の広場で酒を飲んでいた。川嶋十四朗が辺りを伺っている。山勝義春が突然前のめりに倒れた。
「おい、何やっとんだ、酒こぼれとるぞ」
葛城ジュンライアン徹がそう言っても山勝義春は起き上がらなかった。
「おい、おいて、寝たんか?」
葛城ジュンライアン徹が山勝義春の背中をトントン叩いていると、背後に黒いものが現れて首筋に何か細いものをスッと差し込んだ。そのまま葛城ジュンライアン徹も横に倒れた。実行役のラニーにとってはこのくらいの事は容易かった。川嶋十四朗とラニーは二つの遺体を墓地の脇にある防火水槽まで運んだ。とりあえず防火水槽の壁を背にして遺体を寄りかからせている時に、人の気配を感じた。
「あのう、すみません」
草むらの奥からノズエはなるべく小さな声で喋った。その時、ラニーはもうノズエの背後に居た。
「かわしまさん?」
「ラニー待て」
川嶋十四朗は慌ててラニーを制した。
「藤田君、こんな時間になにしてるの?」
「実は……」そこからノズエは全てを話した。
「懲役になるよ、それでもいいの?」
「はい」
川嶋十四朗は翌日直ぐに五百万円をノズエに手渡した。ノズエは何度も感謝の言葉を述べた。

 「加藤と二人でちょっと東京まで行って欲しいんだよ」
朝礼のあと、僕と加藤さんは社長に呼び止められてそう言われた。加藤さんは渋い顔をしていた。
「社長、アレっしょ?あの資格の試験っしょ」
「そうそう、今からの時代は資格が生きてくるんだ。資格が無いと何も出来ないんだぞ」
社長はそう言って笑った。
「カヲルさんがテキストと問題集取り寄せてくれたから、ちゃんと勉強しろよ」
「受かったら給料上げてくれます?」
加藤さんがやる気のない声で聞いた。
「そういう事言うのは受かってからにしろ」
社長は笑いながら事務所の奥へ入って行った。
「東京かぁ」僕には現実感が無かった。
「ああもう俺、試験とか駄目なんだよ。去年も全然だった」
「そうっすか」僕は、そう言うしかなかった。

 川嶋十四朗に呼ばれてPR本部と呼んでいるアパートへ行った。共同生活にも大分慣れたような感じで各自が居た。ラスカルでさえも上手く溶け込んでいるようで、この場で浮いている存在は僕だけだった。
「ちょっとわたしたち来月に東京へ行くことになりまして、出来ればご一緒してもらえないかと」
川嶋十四朗はいきなり話し始めた。
「実は僕も来月東京行きますよ。来月末ハロウィンの頃です」
「それは良かったです。試験か何かですか?」
そう聞いてくる川嶋十四朗は何か最初から知っていたような口ぶりだ。
「わたしたちの方が少しだけ早くたちますね。今川君は一人ここに残ってもらうつもりです」
僕は何で川嶋十四朗達が東京へ行くのかわからなかった。
「東京で何かあるんですか?」
「捜していた人が見つかったんですよ」
「そうなんですね」とは言ったものの釈然とはしなかったけど、深く考える義理も無い気がした。
「これから勉強とかもあるんでなかなかここへ来れなくなりますけど」
そう口にして、そもそも僕はこの人たちとどんな関係なんだろうという思いが頭の中に現れた。
「いえいえ、勉強頑張ってください。東京では少しだけ会う時間をお願いしますね」
川嶋十四朗は終始機嫌がよかった。ラスカルも落ち着いているようだった。

 「キイヤの居所がやっとわかったわよ」
姉から連絡を受けた川嶋十四朗は唾を飲んだ。
「富ヶ谷に部屋を借りて住んでいる。富ヶ谷って言ったら渋谷ね。住所は後で送るから」
あれから何年が経ったのだろう。八年か、いや九年か、まさか東京に居るとは思わなかった。
「来月末向こうへ行くように手配したから、会場も渋谷区内だから、それに合わせて」
「ありがとう姉さん。もう大丈夫、無理しないで、そこを離れて良いからね」
「わかったわ。おじいちゃんにも話しておいたから」

十月二十二日。川嶋十四朗、ラニー、ラスカルの三人は東京へ出発。新幹線の中で川嶋十四朗は二人に大まかな話をした。
「着いたら、ラニーは直ぐに赤羽で物を調達して欲しい、揃ったら落ち合おう。そこで金を渡すからそのまま帰国する事」
「俺が居ないと危ないと思う」
「大丈夫、こっちには紫の神が居るから、あとのことは気にしないでいいよ」
「石田さんはキイヤの行動パターンを調べてください。キイヤのところが見える部屋を一週間押さえてあるので」
そう言ってラスカルに古そうな部屋の鍵を渡した。
「六日間の張り込みはきついだろうけど、お願いできますか」
「わ、わか、わかった」
「わたしは、ちょっと根回しする事があるから渋谷に潜伏します。これから先は個人名で呼ぶのは無しです。どうしても必要な時はPRを名乗ってください」
それから三人は、それぞれ違う車両へ移動した。

 東京駅からラニーは赤羽を目指した。乗り換えに少し手こずったけど何とか赤羽駅に降り立った。川嶋十四朗から描いて貰った地図を頼りにバングラデシュ人が営むバーを探す。ちょっと裏道へ入ると、まだ夕方の早いうちからレゲエの重低音がズンズン鳴っている店がある。入り口のドアはまだ閉まっているけど、そのドアには黒い布が貼ってあってそこに黄色で大きくRと描いてある。間違いなさそうだ。ドアを開けて入っていくと更にベースが身体に響く。奥のカウンターの中にドレッドヘアのいかつい男がビールを片手にLPレコードを眺めているところだった。
「ピータートッシュだね」
ラニーが言うと、サングラスを下へずらして暫く様子を伺っているようだった。その顔がクシャッとなった。
「若いのにわかるかいブラザー」
「もちろんさ、レゲエのレジェンドだよ」
「こいつはいいや、店はまだなんだが何か飲むか」
「いや、ちょっと探し物を、PR」
ラニーの言葉にジャマイカ人のバーテンダーは表情を変えた。
「あんたPからか、ちょっと待ってな」
ラニーに緊張がはしった。内線の電話越しに誰かと話し始めたバーテンダー。
「はい、そう、ひとり、名前?おい、若いの、名前は?」
「PR」
「PRだそうです。はい、じゃ」
「オッケー、入っていいらしい。この奥だ」
「ありがとう」
バーカウンターの後ろにあるバングラデシュ国旗をめくると、狭い通路が出てきて奥まで続いていた。暗い通路をゆっくりと進むと、その突き当たりにドアがあった。ノックする。
「入れ」
ネイティブな日本語に聞こえた。バングラデシュ人がボスじゃないのか?ドアを開けるとそこには赤黒いソファに深く座っている長い白髪を後ろで束ねた老人が居た。部屋に窓は無く、床に置いてある金属製の皿の上に太めのロウソクが灯っていた。
「よく来た、さぁ座れ」
眼光の鋭い日本人だった。
「あの、品物を受け取りに来ました」
「まぁ待て、そう焦るな、大事なことだぞ。でもお前は見込みがある。よくあそこで名前を言わなかったな。もし名前を言ってたならお前はもう帰国出来なかったし、計画は失敗だった」
ラニーの額からは今にも汗が滴ってきそうだった。老人は立ち上がるとソファの横にあるハイスツールへ近付き、上に乗せてあった紙袋を掴んだ。
「中身を確認してみろ」
老人はそう言ってそれをラニーへ渡した。受け取ったものは思いのほか重量があり、もう少しで床へ落としそうになった。
「おい、大事に扱えよ。まだ足はついてないんだから」
ラニーがそれを取り出すと、やはり銃だった。トカレフの模造品だったけど精工そうに思えた。
「どうだ、わかるか?」
「はい」
「軍にいたらしいな」
「……」
「なるほど賢い男だ。あとはこれだ」
ビニール袋に細かく分けられた乾燥大麻だった。
「国へ帰ったら家族を大切にしろ、そして日本の事は忘れろ。最後まで気を抜くな。よし、行け」
ラニーは老人に軍式の敬礼をして店へ戻った。決して後ろを振り向くことは無かった。バーは営業が始まっていて、既に数組の客が入っていた。ジャマイカ人のバーテンダーはカウンターの入口を無言で解放しただけで、ラニーの事はまるで見えていないような対応だった。店のBGMはバングラデシュのものになっていた。

 ラスカルは新宿から小田急線へ乗り換えるところだった。ラスカルは訳が分からなかった。新宿に着く前から中央線が駅に止まる度に段々と人が増え始めていた。ちょうどラッシュアワーと重なってしまいゆっくりと電車を吟味することが出来ないまま急行の車両へ押されて乗ってしまった。富ヶ谷へ行くには代々木八幡で降りる必要があるのに、急行の電車は無情にも駅を通過して、一つ先の代々木上原で停まった。ここでも人の波にもみくちゃにされ、中々上りの電車へ乗ることが出来ずにいた。するとそこへちょうど電車が涼しい顔をしてやってきた。やっと乗車すると次の駅は新宿だった。降りて隣のホームから訳も分からずにそれに乗ると、またしても代々木八幡を通過して代々木上原に至った。二度目の代々木上原でラスカルはようやく乗車ホームが違うことに気が付いた。上りの各駅停車がやって来ると、ちょっと色が違うと思い迷った。それでも乗り込むと駅を出て直ぐに地下へ潜り始めた。焦ったラスカルは次の駅で急いで降りた。すると、代々木公園という駅で代々木八幡駅の直ぐ近くの駅だった。この地に来るだけでラスカルはへとへとになってしまっていた。
 富ヶ谷の商店街を抜け、井の頭通りへ出た。井の頭通りを渡ると住宅街へ入っていく。さっきまでの庶民的な商店街から雰囲気が一変した。一軒一軒、土地はそんなに広くないけど立派な家が立ち並んでいる。ほとんどの家が一階部分は車の駐車スペースとして使われている。停められている車は、どこかで名前を聞いたことがあるような高級車ばかりだった。ただ、土地が狭い為に窮屈そうな顔をしている。少し急な坂を上り切った左側のマンションが川嶋十四朗から渡された地図に示してある目的地だ。そして、その斜め向かいの建物は、おおよそこの辺りのものとは思えない作りの木造アパートで、今日から寝泊まりする場所だった。築何十年になるのか想像もつかない。玄関は開け放たれていた。幾つもの靴が散らばっていて、備え付けの靴箱に入っている靴もあった。ここがこのアパートの共同玄関で、廊下の両側に引き戸がぽつぽつとあって、その引き戸ひとつひとつに部屋があるのがわかる。ラスカルはその共同玄関で靴を脱いであがった。部屋の鍵には、[二階き]というタグが付いていた。廊下の途中にある階段を半信半疑で上がっていき、五つ程ある部屋の、[き]という札が貼ってある引き戸の鍵穴へ鍵を差し込み左へ回すと、コトンという解錠の音がして引き戸が横へ滑った。ラスカルは部屋へ入ると、そのまま倒れ込み寝息をたてた。

川嶋十四朗は自分の計画が最終的な段階にきている事を冷静に感じていた。あの日、あの場所で、あの人に、いや、神に逢った事で、それまでの事を綺麗に精算する事が出来ると喜びを覚えた。ラニーとは偶然の出会いだったけど、そこからは急激に事が回り始めた。左近川さんと今川君には降りてもらう。彼等には深く関わって貰うわけにはいかない。
 ノズエが捕まった事を川嶋十四朗へ伝えた左近川静代に、その電話口で関係を終わらされた。「今までありがとうございました」と言う川嶋十四朗に左近川静代は食い下がった。
「嫌です。もっと話を聞いて欲しいです。あなたが言うあの人は確かに凄いかも知れないけど、わたしにはあなたが…」
そこで川嶋十四朗は通話を切った。そして、その携帯電話の電源を落とした。翌日、左近川静代の自宅に小包が届く。現金百万円と短い手紙が添えられていた。「ご家族とお幸せに」と書いてあって、差出人の名前は無かった。
 今川国元は、川嶋十四朗達が東京へ発った翌日、PR本部であったアパートの解約をした。それが最後の仕事だった。その足で駅へ向かい、川嶋十四朗から渡されていたキーでコインロッカーを開けた。封筒があって、その上のメモ紙にメッセージが書いてあった。封筒の中身は百万円と「ご苦労様でした。これで自由を掴んでください」そう書かれたメモ紙だった。今川国元は熱いものが込みあげてくるよな感覚になった。コインロッカーに一礼をして、そのまま何処かへと旅立って行った。

 ラスカルが目を覚ますと、もう翌朝の六時を回っていた。部屋の奥の窓に近付いてカーテンを少しスライドさせると、斜め向かいのマンションがよく見えた。渡されたキイヤの写真は数年前のものだったけど、部屋の位置は確実だった。ラスカルの部屋からは左斜め上の三階部分にある右の角部屋だ。ラスカルはカーテンを十センチくらい開け、それに合わせて木枠で作られている窓も開けた。ラスカルは暫くそこからキイヤの部屋を眺めていた。
 アパート前の道の坂の向こうから、朝の静けさに場違いな声が聞こえてきた。七時を過ぎた頃だ。酔っているみたいで陽気な声を出して肩を組んで、若い男の二人組がよろよろしながら坂の上に達した。下りに入った途端、ひとりの足がもつれて前のめりになると、「あああ」なんて言いながら二人とも転倒した。
「何やってんだよバカ」
「いや、おまえだろ」
地べたに座り込んでも陽気に話している。笑いあっていた二人はようやく立ち上がり、歩き始めた。歩き始めて直ぐに左側に建つマンションの中へ入って行った。マンションのエントランスへ二人が入って行く時にラスカルは、そのひとりと目が合ったような気がした。
 特に何もなく一日が過ぎようとしていた。ラスカルは、一日の大半を窓際で過ごした。夜九時過ぎ、トイレから出て窓際へ腰を下ろすと丁度あの二人組がマンションを出るところだった。一瞬ひとりが振り返りこっちを見たけど、部屋の電気は点けていないから見つかるわけは無いと思った。そのまま二人組は坂を下って行った。キイヤの部屋は何の動きもないように思えた。張り込んで一日目はキイヤを確認することは出来なかった。もしかして、あの二人組のひとりがキイヤかもしれないけど、マンションへの立ち入りは他にも沢山あった。住民と思われる者たちの他にも、宅配業者や新聞配達員、ポスティング、何かのセールスマン、工事の業者などが出入りしていた。ラスカルは、我慢強く窓際に居た。食事も窓際で摂った。日付が変わろうとしているあたりでウトウトしては目を覚ますのを繰り返していた。眠気の限界に身体を反転させていると、キイヤの部屋に明かりが点いた。ラスカルは、キイヤの部屋を見つめたけど瞼は直ぐに閉じてしまった。
 顔に水滴が飛んできて、それで目を覚ました。十センチ程開いた窓の隙間から雨が降り込んできていた。慌てて窓を閉めようとすると、木枠の窓は水分を含んで滑りが悪かった。朝になっていた。キイヤの部屋は相変わらずに見えた。窓を閉めたから外の音が少しだけミュートされたけど気密性の無い窓なのでさほど変わりはなく聞こえた。聞こえてきたのは昨日の朝に聞いた声だった。見てみると、雨が降っているのに傘もささずにフラフラ歩いてくるあの二人組だった。今日も何だか楽しそうだ。二人はマンションへ入る前に立ち止まりお互いの顔を見つめ合っていた。ラスカルは、彼らが何をするのか全く予想がつかなかった。キイヤの部屋を確認してからもう一度視線を戻すと、二人は抱き合いキスをしていた。そして手をつないでエントランスへ消えていった。
 張り込みも四日目を迎え食料の買い出しに行くため昼近くにアパートを出た。この時間帯はマンション全体で殆ど動きが無いからだ。四日前に脱いだ靴は、共同玄関の靴の海に揉まれていた。ようやく両方を探し出して玄関から一歩踏み出した直後に股間に水がかかった。雨は降っていない。どこから飛んできたのかわからなかったけど歩き始めると、ピュウっとまた股間が濡れた。辺りを見ても誰も居ないし、子供のいたずらにしても学校へ行っている時間だ。ラスカルの股間は小便を漏らしたみたいになったけど、そのまま出掛けた。スーパーとコンビニエンスストアで買い物を済ませた頃には股間の事なんかすっかり忘れていた。レジ袋を両手に持って早歩きでアパートへ帰っていた。角を曲がって坂道に入ったところで股間がまた濡れた。坂道の両側に威力のありそうな水鉄砲を構えた奴らが立っていた。あの二人組だ。ラスカルはそれでも坂道を歩き始めた。
「ちょっと」
ひとりが言って水鉄砲を発射した。股間に命中しズボンの裾から水が垂れ始めた。すると反対側にいた奴も言ってきた。
「あんたさぁ」
そう言って股間を狙った。ラスカルの股間はグズグズになった。坂の途中まで歩きながら二人は股間を攻めた。遂にラスカルは立ち止まり交互に二人を睨んだ。そこで二人ともキイヤでは無いと確信した。
「な、な、なんだ」
ラスカルが口を開くと、二人は顔を見合わせた。驚いたような表情をしていたけど、直ぐに頷きあってまた水鉄砲を撃った。今度は両側から同時に水が股間に的中した。ラスカルは両手に食料が入ったレジ袋を持ったまま叫んだ。
「があああ、こ、ころ、ろすぞ」
妙にカン高い声と、予想だにしなかったどもり具合に二人はちょっと驚いた。
「あんた、なんでわたしたちを見張っているのさ」
今度は口に放水した。
「ここんとこあのアパートからずっと見てんじゃん」
お尻を狙ったらラスカルが動いたから背中にかかった。ラスカルは遂にレジ袋を投げ出して右側にいた奴に飛びかかった。馬乗りになったラスカルの後頭部を左側の奴が水鉄砲を撃ちながら近寄ってきた。水が切れた水鉄砲を後ろから投げつけるとラスカルの動きは止まり、ラスカルにやられていた奴は気を失っていた。
「ちょっと、退きなさいよ」
ラスカルは坂の下まで転がっていったジュースやお茶、缶詰なんかを見ていた。
「タク、ねぇ、タク、しっかり」
ラスカルはレジ袋を手に取り坂道を下った。転がり落ちたものを回収してから、また坂を上った。坂の途中で、ようやく気を取り戻したタクという奴が身体を起こして首を押さえていた。二人の横を通り過ぎようとした時、もうひとりが変なことを言った。
「キイヤさんも知っているんだから」
ラスカルはずぶ濡れで立ち止まり二人を見下ろした。
「お、お、おまえ、た、たちには、か、かん、けいない」
部屋へ戻ったラスカルは着替えを済ませて窓際に座りキイヤの部屋を見てから、パンを食べ始めた。食べながらキイヤの部屋を見ていると、サッシの下端から何か黒い棒状のものがこの部屋に向いている事に気が付いた。元からあったものか、今日現れたものか判断出来なかったけど確かにそれはこっちを向いていた。ラスカルは嫌な予感がしてきた。

 赤羽で安ホテルに泊まったラニーは、朝食も摂らずにチェックアウトした。赤羽駅で頃合いを計っていた。模造品とはいえ銃を所持している為だ。通勤のラッシュアワーに紛れて渋谷を目指そうとしていた。そして、徐々にピークになりつつあった埼京線に乗り込んだ。噂に聞いていた以上に電車内は、身動き出来ないくらいのすし詰め状態だった。電車が揺れるたびに人の塊も揺れる。つり革にも掴まれないから周りの動きのなすがままだった。そんな状態なのに人々は表情一つ変えず、いつものことですよとばかりに揺られていた。ラニーの前には若いOLがいて、その周りはスーツを着込んだサラリーマンの男達だった。OLの女の様子がおかしいと思ったのは池袋に着く前だった。頻りに身体を捻る動きをしていて、顔は俯いたままだ。女が急に意を決したように顔を上げた。
「痴漢です」
周りの目が女とその近くに居た者に向けられた。女の真後ろにいたラニーは、さっきまでの女の動きをようやく理解した。それと同時に、俺じゃない、違う違うと、誰かへの言い訳を頭の中で繰り返していた。もしも濡れ衣を着せられ、警察に取り調べなど受けたら全てが終わってしまう。ラニーは、辺りを見回していた。女は歯を食いしばっていた。電車が池袋へ停車する直前に女は手を上げた。
「この人です」
電車のドアは開き、降りる者と乗り込む者で訳が分からなくなった。手首を両手でしっかりと掴まれていたのは若い男だった。「ちがう、ちがう」と頻りに言っていた。周りにいた乗客も手伝って、その男は混乱するホームへと降ろされて、それと交代に乗り込んできた乗客たちで、電車の中はまたさっきの状態に戻った。
 渋谷駅に着くとホームに人が溢れかえった。ラニーは必死に辺りを見回してハチ公口はどこなのかを探ったけど、さっぱりわからなかった。出口へ向かっているのか、乗り換えの為に進んでいるのか、このエスカレーターで良いのか、駅の構内はどこも人があらゆる方向へ行進している。やっとのことで南口の改札から駅の外へ出ることができた。駅の周りをぐるりと歩くとスクランブル交差点が見えた。そこから川嶋十四朗へメールをすると、即返信がきた。PR スクランブル交差点を渡り、正面のセンター街を真っ直ぐ進んでください。と記されていた。ラニーは世界的にも有名なこの交差点を渡った。先ほどの駅構内と違って人はまばらだった。朝から営業している店もあるけど、センター街は駅へ向かう人がちらほら歩いている感じだった。シャッターが閉まっているジーンズショップの前で酔いつぶれている若者が居た。ゴミ集積所にはカラスが四羽ほどつついたり跳ねたりしていて、横暴な通行人が歩いてくると軽く羽ばたいて三メートル程飛び上がり、行ったのを確認するとまたゴミへちょっかいを出していた。そのまま進んで行くと途中からセンター街の雰囲気が無くなってきた。飲食店や雑貨屋、その他の店もあるにはあるけどセンター街のそれとは違っていた。川嶋十四朗は何処に居るのかわからなかったけど、ラニーは真っ直ぐ進んだ。
 朝なのに薄暗い雑居ビルと雑居ビルの間から、不意に呼ばれた。ラニーは一旦通り過ぎてから後戻りをした。エアコンの室外機が並んでいて、その三台目辺りに人影が在った。その佇まいから川嶋十四朗とわかった。別れてからまだ二日ほどしか経っていないのに、懐かしさと安心感がラニーに満ちてきた。
「川嶋さん」
無防備な声をラニーは出していた。そして、おつかいを頼まれた子どもが親にそれを差し出すように、乾燥大麻の小袋とトカレフの模造品を渡した。川嶋十四朗はしっかりと受け取り、ラニーを見つめて何度も頷いた。ラニーは何か言葉を発したかったけど感情が昂っていて何を話していいのかわからなかった。
「ご苦労様」
川嶋十四朗の言葉が低く雑居ビルの間に響いた。それから紙袋と封筒をラニーへ渡した。
「羽田からジャカルタへの直行便のチケット、午後発だから、間に合うから」
川嶋十四朗は続ける。
「もう一切を忘れる事。そこに三百万円入ってる。人生をやり直してください。本当にありがとうラニー」
そう言うと室外機の奥へ歩き始めた。ラニーは震えていて、紙袋を握りしめ下を向いていた。
「川嶋さん」
そう言った時には川嶋十四朗の姿は見えなくなっていた。ただその、居た気配が残っていて、それは尊いものだった。
 あの時、怒りが絶望へと変わりつつあった。そんな中、不意に現れたこの人に導かれたことをラニーは噛みしめた。
「俺にとっては、貴方が神みたいなものだった」
ラニーは小さく呟き、羽田空港へと向かった。

 試験を明日に控え、僕と加藤さんは渋谷に居た。ホテルは笹塚というところだったから、チェックインする前に渋谷の街へ行こうと加藤さんに誘われたからだ。
「何がいい?」
加藤さんはニヤニヤしながら聞いてきた。
「ラーメン旨いとこに行かないっすか」
「じゃなくて、性感とかよピンサロとか、ちょっと予算がアレだけどソープとか」
「飯食いに来たんしょ?」
「飯も食うけど、せっかく渋谷に来たんだからよ」
「行きたいけど、明日試験終わってからにしません?」
「明日は明日で行くだろ」
そんな事を話しながら歩いていると派手なネオンが昼間から賑やかなパチンコ屋の自動ドアが開き、一人の老人がブツブツ言いながら出てきた。その老人を僕たちは知っていた。なんでこの人が渋谷のパチンコ屋に居るのかわからなかったけど、加藤さんが話しかけた。
「玄田さん」
老人は目を開けているのか瞑っているのかわからないくらいの顔をこっちに向けた。
「お兄さんたち、この玄田を知っているとな」
僕と加藤さんは直ぐに気付いた。声が全然違うし、話し方もあの玄田さんとは思えなかった。だけどこの老人は自分の事を玄田と名乗った。
「門脇に居た玄田さんですか?」
僕は聞いてみた。
「門脇とな、この門脇を知っているとな」
老人は玄田さんではないようだ。そして変な受け答えをしている。それにしても良く似ている。いくら玄田さんがギャンブル好きでも、まさか渋谷でパチンコを打っているわけはなかった。老人はよろよろと歩いてきて加藤さんに寄りかかるような感じで倒れ込んだ。
「ちょっと、大丈夫かよ、重いから退いてくれよ」
加藤さんの言葉に僕は慌てて老人を抱きかかへ加藤さんから離した。老人は目を見開いていたけど白濁していて、口元は笑っているみたいで涎を垂らしている。
「いってえ」
その声に加藤さんを見ると、加藤さんが座っている辺りのアスファルトに液体が滴っていて、加藤さんの腹のところに木製の柄が立っていた。
「加藤さん、それ」
僕が指さすと、加藤さんがゆっくりと自分の腹を見た。
「じじい、てめえ」
すると老人は、さっきまでのよろよろとした動きは噓でしたと言わんばかりに機敏な動きを見せ走り始めた。加藤さんは一瞬真っ赤な色を発したけど、それは直ぐに青白く変わっていった。僕はもう走っていた。一連の事を見ていた通行人も多くいたのに、ハロウィンを明日に控えた渋谷の街は、起こること一つ一つを楽しいイベントと結びつけようとしているみたいで、ただ見ているだけだ。
 老人へ追いつき、前に回り込み、掌を胸に突き出すと、それは老人へと入っていった。老人はその場にへたり込んでしまった。
「だれか警察をお願いします」
僕の声は誰の耳にも届いていないようだ。加藤さんのもとへ走りながら妙に人々の笑顔だけが目に付いた。それでも加藤さんの周りには数人の人が居て、声をかけてくれていた。
「救急車呼びましたから」
駆け寄った僕にそう話しかけてきたのは川嶋十四朗だった。

 渋谷署の建物はパッと見、警察署には見えない。中にいる多くの人が警察官の制服を着ているから、それで此処は警察署なんだとわかる。鉄筋コンクリート造のデザイナーズマンションみたいだ。そこで色々と聞かれた。僕は被害者側のはずだけど、何度も何度もあの時のように、武井さんの事故の時のようにしつこく同じ事を聞かれた。加藤さんとの関係性、上京の目的、なぜ渋谷に居たのかなどを回りくどく、しかし口調は気持ち悪いくらい柔らかなものだった。
「あの老人は何ですか?」
ようやく僕が質問できた。
「ううん」
恰幅の良い中年の刑事は右目だけがあまり開いていない。その右目を更に閉じながら少し面倒くさそうな表情をした。
「当たり屋ってご存知ですか?今の時代でも居るんですよ。わざと車に接触して、派手に騒いでお金をせしめる昔からのスタイルの犯罪です。車を当てさせるパターンもあります」
「それとあの老人は関係あるんですか?」
「埼玉の有名な当たり屋ですよ」
加藤さんは刺されたのだ。一方的に刺されたのと、その当たり屋とは何の関係も無い気がした。
「何も言わないけど、誰かに雇われていたみたいです。でもこれは殺人未遂なんで、当たり屋どころではありません」
渋谷署から解放されたのは夜九時を回っていた。加藤さんは入院した。もう遅いから病院に行くのは明日にしようと思いメールしてみると、直ぐに返事がきた。ダリい、暇だ、あの糞じじいめ、でもこれで明日試験受けずに済むわ。そう書かれていた。ゆっくり休んでくださいと返信して笹塚へ向かった。

 ラスカルは見張られていた。キイヤは用心深い。あのマンションでゲイのカップルを使って売り買いをしている。真っ暗な部屋の中には五台のモニターがあって周辺の動きを常にチェックしている。ラスカルがあのアパートへ着いた次の日にはラスカルの部屋に望遠のカメラが向けられていた。ラスカルは川嶋十四朗へ報告のメールを入れた。PR キイヤは確認出来ない。オカマが二人いる。夕方出かけて朝帰ってくる。その二人に「キイヤも知っている」と言われて水をかけられた。買い物の帰りにやられた。
 川嶋十四朗はそれを見て考え込んだ。これ以上の張り込みは危険だと判断して返信した。PR できるだけ早くそこを出てください。井の頭通りを右へ行くと通りに出ます。それを左へ進むと代々木公園に続いています。野外ステージのところの時計台で待ってます。
 ラスカルは閉まりの悪い木枠の窓を閉め、身支度を始めた。それはキイヤのモニターでも確認出来た。ラスカルが靴を探し出し共同玄関を出ようとした時に、アーミーパンツを履き、黒のタイトなシャツを着た体格の良い赤い髪をした男が腕組みをして立っていた。
「ハロー覗き屋さん、どこ行くの?」
キイヤだ。突然の事にラスカルは後退りをして、脱ぎ捨ててある靴の海に足を取られて尻餅をついた。
「そう慌てんなって、お前なんで俺を見張っているんだ?どこの関係のもんだ?」
ラスカルが立とうとすると、キイヤは人差し指で銃口を作りラスカルの額を押した。ラスカルはまた転がった。
「どこのもんだって聞いてんの」
ラスカルは低い体勢からキイヤへタックルを試みたけど、あっさりかわされ前のめりに倒れた。キイヤはラスカルを見下ろして、手に持ったものをラスカルのこめかみ辺りに押し付けた。夕方が近いとはいえ真っ昼間だ。それは妙に冷たく感じられた。ラスカルから表情が消えた。
「人生終わらすか?」
キイヤはそう言って引き金に指を掛けた。坂の向こうから若い女の声が近付いてきた。キイヤは舌打ちをしてそれを仕舞った。若い女の二人組が坂の上に顔を見せるとキイヤはラスカルに話しかけた。
「大丈夫ですか?どうしたんですか?」
ラスカルは無言で頷いた。女二人はチラッとこっちを見たようだったけど、そのままマンションへ入って行った。キイヤはラスカルの耳元で囁いた。
「立て」
ラスカルは立ち上がりマンションの方を見ると、まだエントランスのところで喋っている二人を確認した。ラスカルは下を向いたまま全力でダッシュした。不意を突かれたキイヤは二、三歩踏み出してみたもののそれ以上は追わなかった。
 ラスカルは走った。坂を何度も転びそうになりながら駆け下り、角を右へ折れ井の頭通りに出た。後ろを振り返ってみるとキイヤの姿は見えなかった。ラスカルは休まずそのまま通りを代々木公園へ進んだ。銀色の柱の時計台は直ぐに見つけられたが人影は無い。時計台の下に辿り着いたラスカルが辺りをキョロキョロしていると、時計台の裏から人が現れた。知らない顔だ。
「石田さんですか?」
薄紫色のポロシャツを着た男は、特徴のない顔をしていて年齢も全く想像出来なかった。ただ、胸に施されているワンポイントの刺繡が何かを言いたげだった。
「あの人からです」
そう言って紙袋を渡された。
「伝言を伝えます。これで終わりました。約束のお金です。ご苦労様でした。東京を離れてください」
男はそう言って原宿方面に歩いて行った。
「ちょ、ちょっと、ちょ、まて」
ラスカルは紙袋を手に男の背中を見ていたけど、通行人に紛れていく男は煙のように消えてしまった。PRというワンポイントの刺繡が少しだけ不気味に感じた。

 カヲルさんから着信があったのはハロウィンの朝で試験当日だった。
「大変だったわね、今日の試験は加藤君の分まで頑張って」
「やっぱ受けなきゃですよね?」
「当たり前じゃない、何しにそこに居るのよ」
カヲルさんの声が何だか違うものに聞こえた。
「あとね…」
カヲルさんの声のトーンが変わった。
「急だけどね、わたし退職する事になったの」
「え?」
「これからも仕事頑張ってね。試験受かりますように。じゃあね」
これがカヲルさんの本当の声なのかもしれないと何となく思った。幸い加藤さんの傷は浅く午後にでも退院出来るということだった。それにしても何でカヲルさんは退職する事になったのだろうか。
 電車で次の次、試験会場がある初台は直ぐだった。会場の区民会館の周りにはそれらしい人が集まりつつあった。受付を済ませて部屋へ入り暫くすると、試験の説明が始まった。説明をしていた司会みたいな人と入れ替わりに試験監督員が解答用紙を持って入室。その助手みたいな女の人が問題用紙を配り、試験が始まった。
 解答用紙を提出して区民会館を出たのはお昼前だった。そのタイミングで川嶋十四朗から電話がかかってきた。あまりのタイミングの良さに出てくるのを何処からか見ていたんじゃなかと思うほどだ。
「試験終わりましたか?上手くいきました?」
川嶋十四朗の声は張りがあった。
「今から渋谷で落ち合いましょう」
「あのう、昨日刺された加藤さんの病院へ行こうと思ってるんですけど」
「あ、彼なら午前中に退院して今頃は新幹線の中ですよ」
その時は特に不思議だとも思わず、ああそうなんだ良かったと思ってしまった。
「じゃ… 渋谷へ向かいます。渋谷の何処へ行けばいいですか?」
「道玄坂の右側の歩道を少し歩くとラーメン屋があって、そこを右へ曲がるとテラプルっていうバーがあるので二時間後そこで待っています。赤い看板が出てるんで、そこから階段を下ったところがテラプルの入り口になっています」
「わかりました」
僕は渋谷へ向かった。新宿あたりでラスカルから電話があった。
「い、いま、いまどこ?」
「新宿に着いたとこ」
「い、い、今から、ど、どこいく?」
「川嶋さんに会うのに渋谷へ向かってるけど」
「い、い、行かないほ、ほう、方がいい」
「どうしたの?川嶋さんと一緒じゃないの?」
「な、な、なんか、だ、ダメな、き、気がす、する」
「今何処に居るの?」
「よ、よこは、よこはまの、ち、ちかく」
「何かあったの?」
「き、キイ、」
そこまで言いかけてラスカルは黙ってしまった。僕は何でラスカルが横浜に居るのかわからなかったけど、PR内で何かがあった事は予想出来た。
 渋谷に近付くにつれ電車内には仮装した人間が増えていった。テレビや映画に出てくるキャラクター、話題になったスポーツ選手を誇張したもの、アメリカ大統領や問題だらけの国の指導者、お笑い芸人を模したもの、オーソドックスに動物に扮した人たち、様々なスタイルで楽しんでいるようだった。渋谷で電車を降りると、ハロウィン当日に仮装していない僕は不自然に浮いている感覚を覚えた。まだ昼間なのにスクランブル交差点は更に熱を帯びていた。警察官の人数も相当だ。信号が青になった交差点内で若者のグループがグルグルと回り始めた。それを確認した警察官数名が直ぐに駆けつけて、それを止めさせようとしている。拡声器を片手に交通整理に声を張り上げている警察官に向かってブーイングを飛ばしているスーパーマンは既に酔っぱらっているようだ。クマ出没注意という黄色い襷をかけた熊が、二足歩行でウロウロしている。突然こたつを抱えた四人組が交差点の真ん中付近に陣取り、麻雀を始めた。マットレスを敷いて寝る者が現れた。ひと際大きな歓声が上がり、ビキニ姿の派手な三人組がセクシーなポーズで挑発している。そんな事が行われている中、信号が切り替わると色々な方向の対岸へ一斉に移動が起こる。ただその動きはけっして機敏ではなく、交差点へ進入して来る車輌からクラクションを浴びる事になる。

 時間を確認する為に携帯電話を取り出す。昨日から充電をしていない待ち受け画面の時計は約束の時間まで一時間ほど早い時刻を表示していた。残りのバッテリー量は四%を示していて、その赤い文字は直後に三に変わり点滅を始めた。信号が青に変わったタイミングでスクランブル交差点へ一歩踏み出すと、後ろからサッカーアルゼンチン代表のユニフォームを着た五人がセンター街方向へ走り出した。向かいのセンター街からはイングランド代表の者たちがボールを蹴りながら進んで来る。ボールは途中でバットマンに奪われたりガチャピンに投げられたりしながらスクランブル交差点内を転がった。ボールを追うアルゼンチンとイングランドの選手達は皆笑顔でボールの行方に右往左往していた。
 ようやくスクランブル交差点を渡り切りると、地味な服装の何だかよくわからない女の人に呼び止められた。
「あのう、あなたの幸せを祈らせてください」
灰色のチューリップハットの奥で、何の疑いも無い目をして合掌しながら話しかけてきた。その人を見ると、澄んだ色をしていて綺麗だった。
「いや、大丈夫です」そう言って軽く断ろうとして手を顔の前に何気なくあげると、女の人に手をかざしたみたいになった。直後に女の人は目に涙を浮かべた。僕は動揺した。
「いや、なんか、そんなに」
どう言って良いのか狼狽えていると、女の人は力強く合掌して深々と頭を下げていた。涙が地面を濡らし始めていた。じっと動かないでいた僕たちは、やって来た動物のぬいぐるみ達にのまれていった。ぬいぐるみ達はセンター街へ消えて行き、女の人を捜してみたけど見つけることは出来なかった。あの人は、何かの宗教を信じてあんな事をしているのだろうか。もしかして川嶋十四朗が言うような事が僕の中にあるのだろうか。それは、どういうものなんだろうか。人々が求める神というものは誰なんだろうか。そんな事を繰り返し思いながら、色々なキャラクターで溢れる渋谷の街をあてもなく歩いた。
 道玄坂の中程にそのラーメン屋はあった。ラーメン屋というよりも居酒屋みたいな雰囲気で、東側と南側の引き戸は開け放たれてカウンター以外のテーブル席は座るところが無いくらいに賑わっていた。客はやはり五人組の戦隊ヒーローやメイドさん、大リーガーに政治家とバラエティーに富んでいて、なかには青いアフロのかつらを被っただけの者も居た。そのラーメン屋のところを右へ曲がると、狭い間口の脇に赤い色をした自立式の置き看板が見えた。近付くと所々剝がれた箇所があるものの、[テラプル]そう書いてあった。三尺程しかない間口の先は地下へ通じる階段になっていた。僕は言われた通りに店へ向かった。階段を半分くらい降りたところで上から声がした。
「あんたがPR?」
振り返ると二人の婦人警官が立っていた。逆光で顔が良く見えなかったけど、ショッキングピンクの口紅はわかった。極端に短いスカートからは下着が見えている。狭い間口の階段をお互いの腰に手を回し密着しながらゆっくりと降りてくる。すぐ近くまで二人が来た時に彼らがゲイのカップルだとわかった。二人とも笑顔だった。
「ハロー」
階段の上に人が居た。アーミーパンツに黒のタイトなシャツを着た赤い髪の大柄な男だった。
 僕はその男を知っていた。ニヤリとした口元を見た時、記憶が高速で遡り始めた。高校生あたりで一旦止まり、直ぐにまた後退していく。中学時代のいざこざを通り過ぎると、あの広場に出た。今にして想えば、あのやられているのが川嶋十四朗だ。そして、それを一歩退いて見ている奴の口元と赤い髪の男の口元が一致した。婦人警官のところまで降りてきた男は静かに聞いてきた。
「モノはその中か?バングラデシュ産なんだって」
男は僕のバックを指差して言ったけど何のことかわからなかった。男が何で渋谷に居るのかも理解出来なかったけど、昨日加藤さんが刺された事なんかもこいつ等と関係がありそうな気がして心臓の音が大きくなった。
「なんか言いなさいよ」
右側の婦人警官が甘い声で囁いた。その声は恐ろしく低い声だった。
 テラプルの入り口が音を立てずに開いた。婦人警官二人の目線がそっちへ向く。中から現れたのは警察官だ。婦人警官と赤い髪の男は少しだけ怯んだけど冷静さを取り戻した。今日はハロウィンじゃないか、そんな事を思い出したみたいだ。僕は警察官の胸の刺繡が目に付いた。POLICEのスペルがPRとなっている。警察帽を目深に被っているその警察官が僕の傍まで近付き、僕の身体の脇から左側の婦人警官へ大きめな茶封筒のような紙袋を差し出した。
「小分けにしてある。確認してみろ」
婦人警官はそれを受け取り赤い髪の男へ渡した。赤い髪の男が袋に手を入れたその時、警察官は銃を構えた。プラスチックが割れたような乾いた音がして、咄嗟に男を庇った婦人警官が倒れた。
「なにやってんの、ちょっと、ちょっと、」
撃った警察官を睨みながら、倒れた婦人警官にもう一人の婦人警官が抱きつく。警察官は帽子を取った。川嶋十四朗だ。赤い髪の男は紙袋を手放し、腰から銃を抜いていた。
「お前、なんだ?あのオヤジの親分か?」
僕の身体は明らかに発光している。薄暗い階段が紫色になっていく。川嶋十四朗が口を開く。
「門脇喜矢、これで終わりにしよう」
門脇?僕のなかに躊躇いのような疑問が現れ光が弱くなった。
「おまえ、誰だ?」男の声が昂る。
「川嶋だ」川嶋十四朗は引き金に指をかけている。
「門脇って、僕の会社の?」
「そうです。あの社長のバカ息子がこいつです」
それを聞いた僕の中にカヲルさんが出てきた。川嶋カヲルだった。色んな線が繋がりかけてきた。川嶋十四朗とキイヤはお互いに銃口を向け合っている。
「やめろ、なにやってんだよ」
僕は大きな声を出した。それと同時に再び強く発光し始めた。
「川嶋?知らねえ」
惚けた声を出しながらキイヤは撃った。川嶋十四朗もほぼ同時に引き金を引いた。二種類の銃の音は意外にもどこかで聞いたことのあるような生活音みたいだった。キイヤの放った弾は川嶋十四朗を掠めてテラプルの扉へめり込んだ。倒れたのは身体を張ったもう一人の婦人警官だった。
僕は意識して二人に掌を向けた。紫の光が二人の胸を突き抜けた。川嶋十四朗は笑顔になった。キイヤは自分の胸へ視線を落とした。

 階段は紫の光に満ち溢れていた。キイヤが何か喚きながら僕に銃口を向けた。複数の足音が聞こえて、僕の発光は無くなった。階段の上から人がなだれ込んで来た。警察官だ。はじめに駆け下りてきた男がキイヤにタックルをして、折り重なるように倒れていた婦人警官の上を転がり落ちた。キイヤと一緒に川嶋十四朗の足元へ落ちたのはラスカルだった。川嶋十四朗は真下へ銃を構えたが直ぐに警察官に取り押さえられた。テラプルの店内からはトムウェイツのクロージングタイムが漏れ聞こえてる。

 イメージと違うなと思った。もっと暗くて冷たくて絶望を味わう感じだと思い込んでいた。

 「戻ってきましたね」
恰幅の良い中年の刑事に言われた。矢張り右目はあまり開いていない。あの当たり屋の老人は川嶋十四朗に雇われていたらしい。昨日の倍くらいの時間取り調べを受けて、留置場へ入れられた。留置場の中は淡い色で統一されていた。鉄格子の色も黒ではなくて白かった。白い鉄格子を見ていると懐かしい感覚になっていった。秋になるとあの広場で立ち枯れている雑草の茂みに入って行って、その中から見える世界に浸っていた。背の丈よりも高く伸びて枯れている雑草が秋の風に吹かれている。鉄格子と立ち枯れた雑草が重なり、また何かにゆっくりと心を締めつけられていくような、でも今はそれが心地良いとも感じていた。

僕は留置場の中で発光している。そして、その紫の光はどんどんと増すばかりだ。

            〈了〉

           

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