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GANG史上、もっとも「運」の強かったClss of 83(前編)

※この記事は、元京都大学GANGSTERS監督の水野弥一さんの新著執筆にあたり、当時のチームの様子を選手の視点から文章化する依頼があり、同期OBが集まって40年前の出来事を振り返った記録である。

●1回生で「関学に勝つ(35-28)」という幸運  
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70年代から頭角を現わし、無敗の王者・関学に土をつけ、見るものを興奮させるに余りある「魂の闘い」で関学に挑み続ける京大Gangsters。70年代後半、京大対関学戦は、関西のスポーツファンのみならず一般の人の耳目も集める人気カードとなっていた。それを知ってか知らずか、わたしたちが入学した1980年、春の農学部グランドには新入生が100人ほど集まり、「今日も腕立て伏せ10回」の掛け声が響き、明るい笑顔があふれていた。

まだ昭和の運動部の香り香ばしいころで「練習中に水を飲んではいけない」のが常識とされており、GANGの練習にも「渇きとの闘い」があったことを記憶している。

一方、Z世代が活躍するいまに続く課題は、宿敵・関学と決定的に異なり、高校から有望な選手を確保する特別枠がなく、その時々の選手で戦うしかないという点にあった。スポーツの世界では非常識(unfair)といえるが、最初から不利な条件が与えられ、公平性に欠ける闘いに挑まなくてはならないのが今も昔もGANGの宿命といえる。よって金の卵である1年生は、おだてて辞めさせないよう、大切に、大切に、扱われた。

春の間は5回生・院生コーチの指導を受けながら4年生中心にチームが運営され、週末になると水野さんがグランドに訪れるという日々であった。このころはまだ同期の誰も水野さんという人物がどのような人なのか知る者はいかなかった。ただ、銀色のCIVICがグランドに現れると「鬼が来た」とピリピリした緊張感がグランドに走ったことは覚えている。

梅雨が明けるころ、水野さんは毎日のようにグランドに顔を見せるようになる。仕事をやめてチームに専念することになったのである。同期の主将・橋詰は「俺は仕事をやめてアメフトにかけるから、お前もアメフトにかけろ」といわれた。

信州・木島平で行われた夏合宿は、天候不順で降り続く雨と霧のなかドロドロのグランドを走り回り、「京都に帰ったら辞めようと思っていた」と当時の心境を振り返る者もいた。そのとおり夏を過ぎるころには同期の数は20人ほどに減っていた。

迎えた秋のリーグ戦、初戦の近大に敗れ、涙を流す4年生の姿をみた。チームのお客様1年生もこうした先輩の姿をみて「京大Gangstersとはなにか」を悟っていくのである。その後、同志社にも敗れて優勝の可能性がなくなったのだが、看板カードである京大・関学戦は多くの観客を集めて西宮球場で行われた。京大は伸び伸びとしたプレイで5年振りに関学から勝利をあげる。ちなみにこの年のリーグ戦に1年生ながら、SS鎌谷・WR梅津・G山端・DT橋詰・QB大社が出場している。当時のチームの台所事情は、こんなものだった。

●京大有利の前評判ながら関学に大敗(48-0) 
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入部2年目を迎えた81年の春合宿は、四国松山にある帝人松山工場内のグランドと宿舎を借り受けて行われた。戦力的には、攻守フロントに力のある4年生が揃っていたがQBとDBは極めてお粗末。(ここを担うのがわたしたちの学年)攻撃陣はウイッシュボーン体型から京大のお家芸ともいえるトリプルオプションに取り組んでいた。

春の関学との試合、はじめてスターターQBとなった大社は、8回パスを投げてインターセプト5回という凄まじい(恥ずかしい)デビューを果たし守備陣は何本も1発TDを献上した。

丹波で行われた夏合宿では、難しいことはやらず「あたり」を中心に何度も何度も基本動作を繰り返す反復練習に時間が割かれた。当時「京大は夏を超えると別のチームになる」といわれていたが、2年生のわたしたちにその自覚はまったくなく、とにかく指示された練習を必死でこなすだけだった。

そして迎えた秋のリーグ戦。京大は強力な攻撃ラインに支えられスーパーRB松田さん(3年)が縦横無尽にフィールドを走り回った。春とは見違えるような戦いぶりである。強力なランニングアタックで大量得点を重ねリーグ戦を勝ち進んでいった。そうなるとマスコミもヒートアップする。この年ランで1300ヤードを超えた松田さんの存在もあり「もしかしたら、ついに京大が関学を破って甲子園ボウルに行くかもしれない」。前評判は京大有利に傾いていった。

そして全勝同士で迎えた関学戦、万博陸上競技場は満員の観衆で埋め尽くされた。試合に臨む自分たちの精神状態がどうだったのかは覚えてないが、緊張と興奮が入り混じった少し楽観的で前向きなものだったかもしれない。ところが関学は恐ろしいまでの闘志で臨んできた。「京大にパスはない」と踏んだ8メンフロントのアグレッシブな守備にOLが翻弄され得意のランプレイがまったく進まない。一方、俊足のDB小野をRBに据えた関学は、早い展開のオープンと短いパスでゲームを支配し、京大から自由を奪い去った。終わってみたら48対0の惨敗である。いま試合を振り返ろうにも同期の大半が「この試合のことは記憶にない」という。

じつは、関学戦後にもう一試合、関大戦を残していた。その関大戦までの1週間、関学戦とはまったく逆に「誰もが忘れ得ない」、まさに地獄のような日々が待っていた。

土のグランドにハンドダミー(HD)を並べ、そこに向かって走り込み、5ヤード程手前からHD向けて飛び込んでいくという通称『飛び込みドリル』が課されたのである。(水野さんのなかに「関学戦で自分のプレイができなかったのは自分を捨て切ることができなかったからだ」という認識があっただろうことは理解していたものの……)そんな練習が続いたある日、水野さんが選手を集め、次のように問いかけた。 

「俺よりも関学に勝ちたいと思っていた奴は手をあげろ」

誰一人、手をあげることができる者はいなかった。誰も、何も、いわなかったが、負けた原因は他でもない自分たち自身にあることを逃げ場なく突き付けられた瞬間だった。(←ほんとうの地獄とはこのことである)

●チームに深化をもたらした「悲劇」と「歓喜」   
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82年の春合宿は前年に続いて松山。同期の間では「腕立て伏せ5000回の春合宿」として記憶に残っている。この頃、関学ではマシンを使ったパワー強化やコンディショニングなど科学的アプローチで身体能力の向上をはかる取り組みがはじまっていた。一方の京大は、残念ながらマシンを買うお金がなかったようで地球の重力頼り。合宿中の食事も、たんぱく質を補給するため大量の大豆を持ち込み、それを焚いてもらって練習の一環(豆ドリル)として選手に食べさせた。そんな京大もお金はなかったが知恵だけはあった。当時ゲータレードというスポーツドリンクが普及していたが高額で買えない。そこで農学部のマネージャーが研究室から調達してきたアスコルビン酸ナトリウムで特製「ギャングエード」をつくって選手に水分補給させた。その異次元の味には悩まされたものの秋にはずいぶん改良された。GANGにおいても練習中に各自のペースで水分補給が自由にできるようになっていった時期である。

そして、あの5月5日を迎える。

オール京大対オール関学の試合が西京極球技場で催された。その試合中、RBの藤田俊宏さん(3年)が倒れ、病院に救急搬送されたのである。医療関係者の懸命な治療、ご家族やチーム関係者のサポートも空しく、6月3日、藤田さんはこの世を去った。京大Gangsters史上、最悪の出来事である。

毎日毎日一緒に練習に励み、試合の悲喜交々を共有してきた先輩(仲間)が、もう二度と話することすらできなくなってしまったのである。ともに過ごしたのは2年余りであるが、1年時から試合で大活躍したのは知っており、かつてのエースRB津島の再来と呼ばれた人であった。藤田さんは足首を左と右の2度、脱臼骨折している。その度に苦しいリハビリを休むことなく続け、フィールドに戻ってはチームの勝利に貢献した。その姿にわたしたちは「不屈の精神とはなにか」を教えられた。CB山村は、藤田さんの訃報を聞いた親から電話があり、「そんな危険なスポーツはすぐに辞めなさい」といわれるのだが、反対に「それで腹が固まった」と振り返る。

それまで、なんのためにアメフトをやっているのか、どんな思いでやっているのか、本気で関学に勝つ気持ちになっているのか、そんな曖昧で、いま思えば浮ついた感情が、藤田さんの死に直面したことで静かに深く整えられていった。それは、誰かが誰かに何かを語るというのでもなく、水野さんがみんなに諭すように話したわけでもない。藤田さんの生と死に向き合ったそれぞれの内的体験が各自の「思い」を研ぎ澄まし、真摯なものに深化させていったのかもしれない。

春から初夏にかけてチーム練習はできなかったものの、個人として、またユニットとしては相当な練習量をこなしていた。練習量だけでなくプレイの精度についても極めてハイレベルのものをお互いが要求し続けた。丹波での夏合宿は、これまでにないハードなものとなった。

当時の京大でOBスクリメージ(※)といえば、もっとも怪我のリスクをともなう練習だ。普段、選手に優しい言葉などかけない水野さんから、この時だけは「OBは本気で壊しに来るから気をつけろ」と声がかかる。この合宿で水野さんは守備陣に「OBに怪我させても良いから本気で行け」と指示をだした。そしてCB山村は、ちゃっかりOBのひとりを病院送りにしている。(余談:翌年、秋のリーグ戦前のOBスクリメージでエースWR梅津は肋骨を折られている)
(※)スクリメージとは試合形式の実践練習のこと。
   当時はフルタックルが基本であった。

秋のリーグ戦は、RB松田さんのランニングアタックを核にWR梅津へのパスが面白いように決まり、ハイスコアで勝ち星を重ねていった。そして11月21日、長居陸上競技場で関学と6戦全勝同士で対決することになる。この試合、京大OLは関学フロント8を完璧にコントロールしFB麻さん(3年)が関学中央の守りをズタズタに引き裂いた。要所で決まるWR梅津・TE竹野へのパスに関学DBは対応できない。守備陣も関学選手の戦意をそぎ落とす激しいタックルを見舞い続けた。リードしたまま迎えた最終Q、ゴールライン目前の関学攻撃に大きな壁となって敢然と立ちはだかり4回の攻撃をみごとに止めた。17-7の完勝。ついに王者・関学の牙城を崩し、甲子園ボウルへの切符を手にしたのである。

同期でこの年を振り返ると、不思議と口から出てくるのはゲームの話ではなく、関学戦に臨むチームの雰囲気や、関学戦に至る練習や日常、自分たちの当時の心情についての話ばかりである。

「普段は水野さんがやれと言わなければやらなかったのかもしれない。でも藤田さんの死からやることの覚悟ができた」「あんなに深く練習したことはなかった」「自ら意識をもって主体的に練習していた」「1本・1本、この1本という気持ち、その真剣度が違った」「関学戦の次の日はない、という気持ちで練習に臨んだ」「練習でのスクリメージは凄まじかった」

この年、京大Gangstersは、ひとつの大きな壁を越えたといえるのではないだろうか。(後編に続く)

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