差別の根本原理としての「種」についての省察−病の齎す災厄の下で


 昨今の新型コロナ騒動において、人々の罹患や病死、或いは疫病とそれに対する各種の対策によって引き起こされる経済への大打撃といったその直接的な被害とは別に、人心を惑乱させる出来事が幾つか起こっている。例えば、国境や都市のロックダウンなどの強権的な方策、そして新型コロナウイルスに対する恐怖心からそれを求める民情によって、人々の自由を制限する国家権力がそのまま際限無く肥大化する可能性があることが、主にリベラル・デモクラシーの立場から懸念されている(既に3月31日、ハンガリーのオルバン・ヴィクトル首相は無期限の非常事態宣言を発動した。これは政府の権限が、無期限に、そして無制限に拡大する可能性が極めて高いことを意味する。すなわち、歴史の歯車が逆回転するように「独裁」が再誕したのだ)。この方向性については、既に別の論考(拙論「グローバリズムの隠喩」としての新型コロナウィルスの世界史的意味−「市民的公共」の黙示録)において論じてみた通りである。


 四月になり年度が切り替わってから、事態は愈々風雲急を告げている。アメリカの感染者数の急激な上昇はここ数日のうちに起こったことであり、英仏西伊など西欧の諸国においても感染者数・死者数が加速度的に急増している。猖獗を極める疫病は全世界において止まる所を知らない。我々が今まで公私共に信じてきたり従ってきたりしてきた筈の自由と平等、そしてその地盤となる制度であった民主主義と人権は、日に日に増幅する疾病への恐怖と防疫の為に拡大の一途を辿る国家権力によって、今後此れ迄と同様の形で国家社会の中に存続することはないだろう。完全に喪われてしまうことがないにせよ、その内実が変わってしまうことにはなるだろう。肺炎による呼吸困難で呻吟しながら亡くなっていく幾多もの犠牲者の亡骸を後に残して、歴史的存在としての人間のあり方そのものが変貌を遂げてしまうだろう。


 これはまさに現代文明そのものの危機である。
 顧みれば私が、この『晦瞑手帖』において現代とは危機の時代であると述べたのは、その第一の記事「「中断」する生と加速する世界––『ゲンロン0 観光客の哲学』『勉強の哲学 来たるべきバカのために』『中動態の世界 意志と責任の考古学』に寄せて」であった。そこで現代を覆う危機は、情報と資本と情動の加速する奔流が人間を自己の内外から押し流していく「加速のニヒリズム」として洞察された。激流に呑まれる人間達は、何とか自らの拠って立つ足場らしきものへと縋り付く為に、宗教原理主義やナショナリズムのようなものを仮構であれ求めるだろう、と私は論じた。勿論、それらは必ずや人間の理性を裏切り、人間を貧しく愚かで閉鎖的な世界像へと遁げ込ませ、そして、内に秘められていた暴力性を解放することを見越して、そう述べたのである。


 そうして「加速のニヒリズム」は、人間を主体的には理解し難い「愚かさ」へと閉じ込める(拙論「人間の愚かさについての哲学的序説−「愚かさ」を理解するとはどういうことか」を参照して欲しい)。こうした「愚かさ」には、人間を全くの生物学的客体として扱う(進化心理学などの)科学技術によって分析的な説明が成されることだろう(拙論「加速する「暗黒」と人間の〈影〉」を参照して欲しい)。


 そして今、コロナウィルスという自然の暴威が、グローバリズムという歴史的に形成された開放系の構造を介して、潜在的に見込まれていたこの危機を一気に現実化させたのである。国家が新型コロナウィルスに立ち向かう為には、医療と統計が必須である。すなわち人間を単なる「生物の肉体」、或いは単なる「数」としての「人口」として客体的に把握することが必須である。そして、これらを統合的に運用するための強大な権力の発動が必須である。世界各国は情勢の悪化と共に、外出禁止令、国境や都市の封鎖などの強権的な措置を取りつつ同時に大規模な賃金補償等を決定している。これらの国々ではまさに、「人口」を生きさせる巨大な生権力を発露させているのである。未だに自粛ばかりを唱えて補償の議論すら遅々として進まぬ我が国日本は完全に「バスに乗り遅れている」。しかし、人心に起こっている変化は概ね似たものであろう。只管に人間を客体化し物象化する思考と、感染への恐怖に怯えたり全くの他人事と考えたりする個人的な情動の分離、そして、その間に挟み込まれる共同性への随順と排外意識。これこそが問題である。


 繰り返すが、この新型コロナウィルスが齎す危機は、歴史的・社会的存在としての人間の在り方そのものの問題である。具体的に言えば、後期近代の中を生きる我々現代人が被らざるを得ない問題である。この甚大なる危機は、近代的な国家と社会のシステムを、それらが掲げる正義の原則をも時には揺るがすことによって、それによって絶えず克服すべき課題として抑圧されてきたもの(或いは、より穿った見方をすれば見えないように形を変えられてきたもの)、「人間性の奥底にあってそれを限界付けている或る根源的なるもの」をこれまでになく顕に露呈させるであろう。



ウィルス禍により激化する「差別」



 それは、「差別」である。
 欧米において、中国人を含めた黄色人種一般に対して苛烈な人種差別が横行している。Twitterを見る限りでも、中国人を新型コロナウイルスと同一視して入店や乗車を拒否しようとしたり、日本人であっても見た目の問題から勝手に中国人扱いして罵倒したりするなどの露骨に差別的な出来事が欧米各国で相次いでいるようである。外国人に限らず、各国のアジア系に対する人種差別が深刻なものとなっている。イタリアの国立音楽院が東洋人へのレッスンを禁じたことは最早この機器の中で遠い昔に思えてしまうが、最近のことである。アメリカのトランプ大統領が新型コロナウィルスを「中国ウィルス」と表現したことに対して、人種差別的であるとの批判が殺到し、大統領がその意図を否定するという騒動もあった。日本においてこうした事態は、レイシズムを脱した先進的でリベラルな欧米という一般的なイメージを覆すような驚くべき事態として余りにも素朴に受け止められたり、或いは反対に、外面的には非常にリベラルに振舞っているかに見える欧米の昔からの本音として多少露悪的な心情を込めて受け止められたりしていた。欧米の方に目を転じてみると、自国の人間が恐怖心からかレイシズムへと陥ることを嘆く人々の声も散見される。
 しかし依然として、アジア系への言葉による攻撃や物理的攻撃は欧米の各都市で多発している。またより多い所で言えば、アジア系に対する自覚なき差別的言動や間接的な不寛容の表現が多く経験されているという。人種差別が今、リベラルな社会を建設することを目指して極右などの排外主義に対抗してきた筈の先進諸国でもあからさまに吹き荒れているのだ。


 ここでは一つ、アメリカでの出来事を紹介しておこう。3月11日付のビジネス・インサイダーに「同僚も被害に…… 新型コロナウイルスの感染拡大とともに広まる"アジア系"に対する人種差別と外国人嫌悪」と題された記事が投稿されているが、そこでは次のように幾つかのエピソードが語られている。


そして、筆者の同僚もここ数週間以内に人種差別や外国人嫌いを経験もしくは目撃していた。
Business Insider USのエディトリアル・フェローで韓国系アメリカ人のブライアン・ピーチ(Bryan Pietsch)は3月5日の午前中、ブルックリンで地下鉄に乗った。すると、すぐに中年女性が口元を覆い、ブライアンをにらみつけ、どこかへ移動していったという。
「ぼくが近くに立ったというだけで、顔を覆い、敵意に満ちた視線を送られたのは残念でした」とブライアンは話している。
「周りの人たちがどのようにこの状況を解釈したのか、不安になりました。彼女の動きを見て、混雑した車両にぼくがいることで、もっと不安になったんじゃないか? と」
同じくBusiness Insider USのアニメーション・フェローで韓国系アメリカ人のエミリー・パーク(Emily Park)は3月2日、マンハッタンで地下鉄に乗り、咳払いをした。すると、女性がエミリーのことをじっと見て、突然立ち上がり、遠く離れた席に移動したという。
「同じような経験をしたというアジア系の人の話を聞いたことはありましたが、わたしは初めてで、ちょっと気分が悪くなりました」とエミリーは話している。
Business Insider USのシニア・プロデューサー、アラナ・イゾラ(Alana Yzola)は最近、ニューヨークでウーバーを利用していた時に、運転手がドアにロックをかけ、「ここは中国人が多いから、気を付けないと」と言われたという。この時、ちょうど新型コロナウイルスについて話をしていたため、これはウイルス感染についての言動と見られる。ウーバーはこの件について調査している。
Business Insider USのカスタマー・サクセス・スペシャリスト、ジェニファー・エルナンデス(Jennifer Hernandez)は、ニュージャージーからニューヨークまで鉄道を利用し、到着後、エレベーターに乗った際にあるやりとりを目撃したという。エレベーターにはジェニファーの他に白人男性3人とアジア系女性1人が乗っていて、全員知り合いではないように見えた。3人の男性が新型コロナウイルスについて話し始め、1人が感染拡大は「中国人が食べる全ての汚らわしい食べ物」に関係していると発言した。アジア系の女性は明らかに居心地が悪そうで、腹を立てていたと、ジェニファーは話している。たまりかねた女性は声を上げ、中国の食べ物と文化を擁護したという。
(https://www.businessinsider.jp/post-209052)


 この記事の中で、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校のジョスエ・デイビッド・シスネロス教授は「新しい感染症が人々の恐怖、偏見、特定の人々への責任転嫁を招くのは、驚くことではありません。なぜなら、わたしたちはこうした出来事を過去の感染症のレトリック —— 恐怖、偏見、特定の人々への責任転嫁に根差したもの —— を通じて理解しがちだからです」、また歴史的な観点から、「アメリカの初期の移民法の一部は中国人の移民をターゲットとしていました。これは、中国人が人種的、文化的、生物学的な脅威と見なされていたからです。中国人排斥法もその1つです」と語っている。つまり上に引用した諸々の差別的なエピソードは、シスネロス教授に言わせれば「認識された生物学的脅威が、認識された文化的脅威と結びつけられた」ということである。



首を擡げる非合理のかたち



 ここでシスネロス教授により提起されている問題について考えねばならない。新型コロナウィルスの蔓延に対する防疫という純粋に公衆衛生学的な問題に関して、人種が関係を持たないことはまず明白である(現にコロナウィルスへの感染は人種に関わり無く起きているし、記事の中の韓国系アメリカ人記者などは中国人と同じ黄色人種というだけで中国本土とは殆ど関係が無いではないか)。文化にしても、公衆衛生学的に見て感染の原因となるような不衛生な規則や風習などが存するのでない限り、その文化の食べ物が「汚れている」ということは有り得ない(例えば、記事で述べられている「中華料理だから汚れている」ということは端的な偏見である)。しかし、現代科学の目覚ましい進歩と情報環境の飛躍的向上によるその普及の中にあって尚、ウィルスの「脅威」はそれらの正確な認識からすればカテゴリーミステイクとしか言いようのない偏見を通して人々に認知され、それがアジア系への差別へと繋がっているのである。例えば「中国人」、そしてそれと文化的に結び付く「中華料理」とか、或いは(見た目から韓国系や日系をも中国人の類縁として含めた)「黄色人種」等といった歴史的・文化的な枠組みと結び付けられている。


 ここで注意すべきは、「中国人」「中華料理」「黄色人種」といったこれらは何れも、普遍的な概念である「類」と、最早概念ではない各々の個体である「個」の間にある「種」的な概念である点である。上の事例のように「種」的な概念に基づいていることから、差別や偏見を考え直してみるとどのようなことが言えるだろうか。問題をよりよく視詰める為に、ここで少し一般的で理論的な話へと立ち入ってみたい。



中途半端な、「種」的な概念



 先の事例を見るにつけても、偏見にせよ、差別にせよ、歴史的・文化的コンテクストの中にある特定の「種」的な概念、すなわち全き普遍でも個物でもない言わば「中途半端」な概念に往々にして不快や恐怖や嫌悪や軽蔑など特定の否定的な感情と結び付いた評価を帯びた属性が結び付いている事態であるように思える。「種」的な概念は、「個」でもなく「類」でもなくその中間にあって個を包摂する概念である為に、明晰判明な「類」概念よりも遙かに多くの諸々の質的な規定を如何としても含むことになる。しかもそれは各々の言語、更に言えばそれぞれの歴史的・文化的コンテクストに相当に依存するために、普遍から見た場合は本質的に相対的な規定であらざるを得ない。更に共時的にも社会的に流通しながら其々の定義と異なる使用がなされ、それによって意味や文脈が変容することすらある為に、数学や物理学の如くに精確極まりない定義を為すことは事実上不可能である。より深く考えるのであれば、無際限に多様な性質や属性を持つ個々の「個」を「種」的な概念によって包摂するのであるから、どの共通の性質や属性を採用するのか、否、抑もどの次元で共通性を規定するのかという点において厳密性を求めることは困難である。結局の所「類」に包摂される複数の「個」の無数の性質や属性の内の幾らかを、何らかの「本質」として規定する以外に無いのである。そしてその規定の仕方において、歴史的・文化的コンテクストに依存せざるを得ない。社会において、偏見とか差別とか言われる現象は少なくともこのような背景を共有していると思われる。本来は範疇的に区分すべき幾多の性質や属性が一纏めのものとして扱われてしまい、更に「個」がその下に還元されてしまう時、そうした現象が生じるのであり、また、そうした現象の元になる或る社会的構造が存続するように思われるのである。しかし私には、これはやや粗雑な定義であるように思われる。両者は密接な関わりを持ちながらもその間には明確な相違があると考えられるのである。



偏見は謬見、差別は貶価



 どういうことか。偏見とは、特定の「種」的な概念に意識的・無意識的に紐付けられた一般に非合理的な諸々の属性の認知のことを指す。つまり偏見は、単なる無知に由来する無根拠な決め付け、或いは謬見である場合が多いが、その中核には社会的に流布したステレオタイプ(これがまさに「種」的な概念である)がある。偏見の内には単に恐怖や嫌悪といった感情や否定的な価値付けに基づくもののみならず、十分な根拠も無しに他人を良く考える好意的なものも含まれることもある(「あの国の人はみんな良い人だ」等、或る属性の人々を皆善人だと思い込むことも往々にしてあるだろう)。それに対して差別とは、合理的なものであれ非合理的なものであれ、特定の「種」とその属性に関して明確に否定的な価値付けを帯びた行為ないしは表現である。偏見と異なり、差別の場合は否定的な要素を含むもののみがそこに分類される。


 差別の本質を成すと思われる「否定的な価値付け」。これは、特定の属性の「価値を貶めること」すなわち「貶価」と言い換えても良いものである。「貶価」(demean)という言葉は、他者の価値(特に道徳的価値)を貶めて他者を下の地位に置くことを意味する。これは、悪質な区別や差異化(つまり差別)とそうでない区別や差異化を切り分けるためにアメリカの法哲学者デボラ・ヘルマンが提起した概念である(詳細は次の書を参照して欲しい。デボラ・ヘルマン著、池田喬・堀田義太郎訳『差別はいつ悪質になるのか』、法政大学出版局、2018年)。ヘルマンは、「貶価」であるか否かを切り分ける二つの基準として提示している。一つは「HSD特徴」と呼ばれる「誤処遇の歴史または現在の社会的不利益(history of mistreatment or current social disadvantage)」、そしてもう一つは「ヒエラルキー条件」(俗に言う個々人間の、或いは社会集団間の「権力勾配」)である。当然ながら、これらは何れにせよ、歴史的・文化的なコンテクストに依存するものである。
 彼女はこれらの考察の背景において、全ての人間に平等な道徳的価値を認めるという「平等原則」が毀損されることを問題としている。逆から言えば、「HSD特徴」にせよ「ヒエラルキー条件」にせよ差別を構成し得る諸条件は、その「平等原理」を基準として、それに対する違背の「程度」によって考えられている、ということである。より直截に言えば、ここで差別は個々人を道徳的価値において「下位に置く」度合によって考えられており、選別基準が幾ら馬鹿げたものや理不尽なものであり、その結果として不利益を被ったとしても、その選別基準が「貶価」を含意しなければそれを差別に分類しなくても良いということである(逆に言えば、「貶価」であっても悪質な差別として判定されない場合も存在し得るのだろう)。
 本稿の主題上、これ以上はヘルマンの精緻な哲学的議論について踏み込んで論究することは出来ない。しかし彼女の議論において、「貶価」というものが、個々人の平等な道徳的価値を認めるという「平等原則」を毀損する度合によって考えられている点は見逃してはならない。この「平等原則」とは「人間の尊厳」の謂であり、まさに近代的価値としての人権の基礎、民主主義の基礎とも言うべきものであることは言うまでもない。差別を批判することは差し当たり、この「平等原則」を基準として、「誤処遇の歴史」を批判し尽くし、そして「現在の社会的不利益」を解消することであると言える。しかし知っての通り、これは容易なことではない。新型コロナウィルスの流行に伴う人種差別は、正しい情報と知識を提供する公衆衛生学に基づく差別への批判にも拘らず、広まっている。恐らく問題は、情報や知識を宣伝することによって認知を合理化することでは解決しないのである。何故か、ということを考えなければならない。


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