〈翻訳〉ニック・ランド「暗黒啓蒙」第二部

〈本記事は、ニック・ランド(Nick Land, 1962~)の評論「暗黒啓蒙(dark enlightenment)」(出典:http://www.thedarkenlightenment.com/the-dark-enlightenment-by-nick-land/)(2012年)第二部の翻訳である(第一部はこちら)。ニック・ランドは、昨今千葉雅也氏、仲山ひふみ氏、そして木澤佐登志氏によって紹介されている加速主義の内、右派加速主義と呼ばれる思潮の騎手であり、その「新反動主義」という立場によってオルタナ右翼に多大な影響を与えている哲学者・作家・ブロガーである。本論稿の後半部(第4部c以降)は五井健太郎氏によって解題付きで邦訳されており、『現代思想』2019年5月号(青土社刊)に収録されている。ここでは、その前半部の翻訳をここに漸次掲載することとする。〉



第二部  歴史の弧は長いが、それはゾンビ・アポカリプスの方へと曲がっている



デイヴィッド・グレーバー(David Graeber):このことをその論理的な結論まで推し進めていくとすれば、真の民主主義社会を有するための唯一の道はこの国家において資本主義を廃することにもなるであろう。


マリーナ・シトリン(Marina Sitrin):我々は民主主義を資本主義と共に有することはできない…民主主義と資本主義は協働しない。(ここでは、ジョン・J・ミラー(John j. Miller)を介して)


このことは常に、歴史の困難である。このことは常に、克服されているように見える。しかし、それは未だ嘗てない。(メンシウス・モールドバグ)


 「民主主義」と「自由」を一緒にググることは、ダークな道においては非常に啓蒙的なことである。サイバースペースにおいては、少なくとも、明確なマイノリティだけが自分達の間柄をポジティヴに結び合わされているものとして考えていることは明らかである。意見というものがグーグル・スパイダーとそのデジタル上の獲物という観点から判断されることであるならば、断然、最も流行する協同というものは離接的か敵対的なものなのであり、民主主義が自由にとって致命的な脅威を配するという反動的洞察を当てにして、自由の最終的根絶を殆ど保証してしまう。自由に対する民主主義は、一箇のパイに対するガルガンチュアに等しい(確かに、お腹をゴロゴロ鳴らしたり唾液を分泌させたりするに至るまで、我々は自由を愛しているように見えうるだろう)。


 スティーヴ・H・ハンケ(Steve H. Hanke)は、アメリカ人の経験に着目した彼の小論「民主主義対自由について」において、事例を展開している。


大半のアメリカ人を含め、大半の人々は、「民主主義」という語が独立宣言(1776年)やアメリカ合衆国憲法(1789年)に現れないことを学べば驚くであろう。彼等は、合衆国建国の文書に民主主義という語が不在であることの理由を学べばショックを受けるだろう。プロパガンダが公衆に信じさせることとは反対に、アメリカ建国の父達は民主主義に関して懐疑的であり、心配していた。彼等は、マジョリティの暴政を伴う悪に気付いていた。憲法の起草者達は、連邦政府がマジョリティの意志に基づかず、従って民主的でないことを保証するためにはどんな労も厭わなかったのである。
憲法の起草者達が民主主義を歓迎しなかったとしたら、彼等は何を支持していたのか?満場一致で、起草者達が同意していたのは、政府の目的とは生命に対する権利、自由に対する権利、財産に対する権利というジョン・ロックの三位一体説において市民を守ることである、ということだった。


彼は、次のように詳述する。


憲法とは第一に、権力を行使するべきは誰かということと彼等がどのように権力を行使するべきかについて箇条書きにした、構造的で手続き的な文書である。大きく強調がなされるのは、権力の分立と、システム内のチェック・アンド・バランスである。これらは、ソーシャル・エンジニアリングにおいて目指されるデカルト的構成概念ないしは定式ではなく、人民を政府から保護するための盾である。一口に言えば、憲法は政府を統治するように設計されたのであり、人民を統治するように設計されたのではない。
権利章典は、国家による侵害に抗して人民の諸権利を樹立する。市民が国家から要求しうる唯一のものは、権利章典の下においては、陪審員による公判についてのものである。市民権の残りは、国家からの保護である。憲法が裁可されてからざっと100年の間、私有財産、契約、合衆国内での自由国内取引は厳粛なものであった。政府の視野と規模は、依然として非常に制限されたものであった。以上のこと全てが、自由として解されるものとの間で非常に一貫性を持っていたのである。


 反動の精神がそのシスの触覚(Sith-tentacle)を脳に突っ込んだ途端に、古典的な(或いは非共産主義的な)進歩的語りが嘗て如何にして意味あるものとなり得たのかを想起することが難しくなる。人々は何を考えていたのか?現れつつあったスーパーエンパワーされた、ポピュリストの、食人国家に、彼等は何を期待していたのか?最終的な災害が完全に予想可能ではなかったのか?一箇のホイッグになることは嘗て如何にして可能だったのか?


 過激な民主化のイデオロギー的な信憑性は、勿論、問題ではない。(キリスト教進歩派の)ウォルター・ラッセル・ミードから(無神論的反動の)メンシウス・モールドバグに至るまで連なる思想家達について徹底的に詳しく説かれてきたように、このイデオロギー的信憑性は過激派プロテスタントの宗教的熱狂主義に全く以て準拠している。そのことは、革命的な魂を賦活するその権力によって誰も驚かないほどである。ローマ教皇の体制に対してマルティン・ルターが挑戦していたまさにその数年の間、小作農の叛徒達がドイツ中で自らの階級的な敵共を絞首刑に処していたのである。


 民主主義的進歩の経験的な信憑性は、それよりもずっと悩ましいものであり、そしてまた本当に入り組んでいる(つまり、論争的であり、或いはより正確に言えば、データベース化され、厳密に交わされる論争の価値があるものである)。部分的には、それが何故なのかと言えば、民主主義の近代的構成がより広範な近代主義的潮流の範囲内で現れるからである。この近代主義的潮流の技術−科学的、経済的、社会的、政治的成分は、曖昧に相互に関係し合っており、紛らわしい相関関係とその後に続く誤った因果関係によって編み合わされている。シュンペーターが主張するように、産業資本主義が沈滞に終わる民主的−官僚的文化を産出する傾向にあるならば、それにも拘らず、民主主義が物質的進歩と「協同していた」かのように思えるであろう。沈滞している指標を実定的な因果的要因であると誤解するのは容易いことである。特に、イデオロギー的な熱意がそのバイアスを誤解へと導く時は、そうである。同じように、癌は生物を単に蝕むから−はっきりした理由で−生命力と関係することもあるのだ。


ロビン・ハンソンは(優しく)次のように記している。


1世紀ほどの間、多くの潮流が実際的であってきた、然り。このことが示唆するのは、1世紀ほどの間、それらの潮流が栄え続けるであろうということ、然り。しかしこのことは次のことをゆめゆめ意味しはしない。すなわち、現代のケネディによる政治的冒険によって「貧困、疫病、暴政、戦争を終わらせ」うるという話を「ユートピア的幻想」だと考えることを理由に、学生達が経験的に、或いは道徳的に誤っているということを。何故か?これらの領域における現在の諸潮流が、そのような政治運動によってまさに引き起こされたというわけでもないからである!それらの潮流は殆ど、産業革命によって我々が豊かになったことで引き起こされたのであり、産業革命とは、諸々の政治運動がそれどころか概して押し留めんとする傾向にあった出来事なのだ。


 単純な歴史年表が示すところによれば、産業化が進歩的民主化に由来するというよりは寧ろ、産業化が進歩的民主化を支える。この観察が、ポップな社会科学の理論立ての、広く受け入れられた学派を生んできた。その理論立てに従えば、民主的な方向を持つ社会の「成熟」は、富裕への、もっと言えば中産階級形成へのとば口によって定められる。民主主義は物質的進歩と相関して基本的に非生産的であるという観念の厳密に論理的な相関者は、例によって強調されない。民主主義は進歩を消費する。暗黒啓蒙のパースペクティヴから見られた時、民主主義現象を研究するための適切な分析様式は、一般寄生虫学(general parasitology)である。


 アウトブレイクに対する似非リバタリアンの反応は、このことを暗に受け入れる。住民がゾンビウイルスに重篤に感染し、食人という社会的崩壊へとよろめき歩くならば、好まれる選択肢は隔離である。本質的なのは、コミュニケーション上の孤立ではなく、フィードバック・ループを締めて、人々を最大の強度で彼等自身の行動の結果へと晒すような、社会の機能的な脱−連帯化(dis-solidarization)である。社会的連帯は、それとは全く対照的に、寄生虫の友である。(マーケット・シグナルのような)高頻度のフィードバック・メカニズムの全てを露出させ、そして「一般意志」の中央集権化された公開討論会を通過する緩慢な赤外線のループをそれらと置き換えることによって、ラディカルに民主化された社会は寄生を、それがなすことから隔離する。そのようにして、ラディカルに民主化された社会は、ローカルであり、痛ましくも機能障害であり、受け容れ難い、そうであるが故に緊急に訂正された行動パターンを、グローバルで、麻痺させられており、そして慢性的な社会−政治的病理へと変形させるのである。


 他の人々の身体の部分を噛み切れ、そうすれば職を探すのは困難になるかも知れぬ−これが、堅いフィードバックをなす、サイバネティックに強烈なレッセ・フェール(laissez faire)秩序によって学ぶことができるであろう教訓である。それはまさしく、あらゆる哀れみ深い民主主義が思想犯罪として告発するような種類の、無神経なゾンビ恐怖症的差別でもある。他方でこの哀れみ深い民主主義は、公的な予算を生命に障害のある人(vitally-challenged)へと注ぎ込み、不本意な食人衝動症候群で苦しむ人々を代表して意識向上運動を請け負い、高等教育カリキュラムにおけるゾンビのライフスタイルの尊厳を肯定し、利潤に取り憑かれた、パフォーマンスを中心にする雇用者達、いやそれどころか時代錯誤の活力説論者の雇用者達によって、足を引き摺るアンデッドが犠牲にならないよう保障するための作業場を厳格に制御するのである。


 啓蒙されたゾンビ寛容が民主主義的な巨大寄生虫のシェルターにおいて繁栄する時、反動主義者達の小さな残党は、真の選好の諸結果に対して注意深いので、次のような定型的問いを提起する。すなわち、「これらの政策がゾンビ人口の圧倒的な拡大へと不可避的に通ずることにあなたは気付いているのか?」と。歴史の支配的ベクトルが前提するのは、このような迷惑となる異議が社会的な陶片追放によって周縁化せられ、無視せられ、そして−可能な限り−沈黙せられる、ということである。残党達は、乾物、弾薬、銀貨を溜め込みつつ基地の守りを固めもするし、セカンドパスポートのための申請手順を加速させもする。そして、鞄にものを詰め始めるのだ。


 これらの全てが歴史的具体性から次に纜を解かれたものであるように見えるならば、便利なことに局所的な処方箋がある。すなわち、やや本題から逸れたギリシャへのチャンネル・ホッピングである。リアルタイムで上演された、西洋の死の小宇宙的モデルとして、ギリシャの話は魅惑的である。この話は、原−民主主義から達成されたゾンビ・アポカリプスに至るまでの、少しもきちんとしていないが、抗い難くもドラマティックな2500年の弧を描いている。その卓抜した美点は次の点である。すなわち、この話が極限状態での(in extremis)民主主義メカニズムを完璧に描出していて、個人とローカルな住民を、大規模で中央集権化された再配分システムを通して彼等の行動を搔き集めることでなされる彼等の決定の結果から分離している点である。あなたは自分がなすことを決める、しかしその時、結果に投票しているのである。誰であれこのことに対して如何にして「ノー」と言えるだろうか?


 EUの一因として30年以上に亘り、ヨーロッパの連帯という大袈裟な電気回路構成を通じて短波の社会的信号の全てを取り除き、フィードバックを別ルートで送るソーシャル・エンジニアリングの大規模プロジェクトと、ギリシャ人達が熱心に協働してきたことは驚くべきことではない。このプロジェクトは、全ての経済に関連する情報が欧州中央銀行の熱力学的に死んだ油だめを通って赤方偏移されることを確実にしていた。最も専門的な言い方をすれば、それは、ギリシャの金利に含まれるかも知れない全ての情報を根絶することを「ヨーロッパ」と共謀してきたのであり、従って国内政策の選択における全ての金融的フィードバックを実際に不具にしてきたのである。


 これが、消費的形態における民主主義である。現実の統制的廃棄以上に「一般意志」に正確に適合するようなものが何も無いがために、そして、チュートン人[ドイツ民族]の金利が東地中海人の支出に関する意思決定のカップリング以上に決定的に現実に対して毒人参を供するようなものが何も無いがために、この消費形態は更なる完成型を寄せ付けない。ヘレネス[ギリシャ人]のように生きろ、そしてドイツ人のように支払え—かのプラットフォームにおいて権力の座に上れなかったあらゆる政党が、原野で禿鷲に摑まれたスクラップをゴソゴソと捜し回るに相応しい。件の表現についてのおおよそ全ての想像されえる意味において、これは究極の思考を要しない話(no brainer)である。ことによると、何が道を踏み外しうるのだろうか?


 これはもっと肝心なことだが、何が道を踏み外したのか?メンシウス・モールドバグは、彼の『無条件の留保(Unqualified Reservations)』シリーズの「いかにしてドーキンスは打ち負かされたのか(How Dawkins got pwned)」の冒頭に、「可能な限り有毒」であるような仮説的な「選択的なミーム上の寄生者」についての設計ルールのアウトラインを記している。「それは、非常に伝染しやすく、非常に病的で、そして非常にしぶといものになるだろう。本当にタチの悪いバグだ。」このイデオロギー的な超−伝染病と較べたら、『神は妄想である』(The God Delusion)において卑しめられている痕跡的な一神教は、精々のところやや不快な鼻風邪のように現れるだろう。壮大な歴史と同じくらい抽象的な、結論をいじくり回すミームとして始まるものは、暗黒啓蒙のモードにおいては次のようなものである。


私の信ずるところによれば、ドーキンス教授は単にキリスト教的無神論者であるのではない。彼は、プロテスタント的無神論者である。そして、彼は単にプロテスタント的無神論者であるのではない。彼はカルヴァン主義的無神論者である。そして、彼は単にカルヴァン主義的無神論者であるのではない。彼は、アングロ−カルヴァン主義的無神論者である。彼はまた、ピューリタン的無神論者としても、(イギリスの)国教反対者的無神論者としても、(イギリスの)非遵法派的無神論者としても、福音主義的無神論者としても、などなどと描かれうるだろう。

この分岐学的分類学はドーキンス教授の知的祖先をおよそ400年ほど遡って追跡し、イングランド内戦の時代へと至る。無神論的主題を勿論除いて、ドーキンス教授の核心とは、原始メソジスト派、水平派、ディガー派、クエーカー派、第五王国派、或いは、クロムウェルによる空位時代に栄えた、あらゆるより過激な英国の非国教徒的伝統との注目すべき一致である。

端的に、これらの連中は奇人(freak)である。狂気に満ちた熱狂者である。17世紀、18世紀、或いは19世紀の英国において主流派をなすあらゆる思想家達は、この伝統(或いは現代におけるその末裔)が今、惑星規模で支配的なキリスト教の教派であるということを知らしめていたのであり、彼等はこのことを切迫したアポカリプスの兆候であると見なしていたであろう。もし彼等が誤っていると確信しているならば、あなたは私よりも強く確信している。

幸運なことに、クロムウェル自身は比較的穏健であった。極端なウルトラ−ピューリタンのセクトは保護国での権力において強固な独占を得ることはなかった。それよりも更に幸運なことに、クロムウェルは年老いて死に、そしてクロムウェル主義は彼と共に死んだ。国教会が恢復されたように、遵法的な政府がグレート・ブリテンに恢復された。そして、非国教会徒達は再び周縁的な過激派グループとなった。そして端的に、それこそ忌々しい厄介払いであった。


 しかしながら、あなたは良き寄生虫を鎮めておくことはできない。ピューリタンのコミュニティはアメリカに逃げ、ニュー・イングランドの神権主義的コロニーを創設した。アメリカの反乱[アメリカ独立戦争のこと]と南北戦争での軍事的勝利の後、アメリカのピューリタニズムは世界支配の道を順調に進んでいった。第一次世界大戦、第二次世界大戦、そして冷戦における彼等の勝利は、彼等のグローバルな覇権を確証した。今日の世界におけるあらゆる正統な主流派の思想はアメリカのピューリタンより、そして彼等を通して英国の非国教会徒より伝わっているのだ。


 この「本当にタチの悪いバグ」が世界の支配権へと興隆したならば、ドーキンスのような脱線的形態の粗探しをすることなど奇異に見えるかも知れない。しかしモールドバグは、絶妙に判断された戦略的理由によって彼のターゲットを選んでいる。モールドバグは、ドーキンスのダーウィニズムを、アブラハム的有神論に対する彼の知的拒絶や、科学的合理性に対する彼の広範なコミットメントと同一視する。にも拘らず、彼が決定的に認識しているところでは、ドーキンスの批判能力は、覇権的な進歩主義に対する更に広範なコミットメントを危険に晒すかも知れぬ点に至って−唐突に、そしてしばしば喜劇的に−停止するのである。この仕方で、ドーキンスは強力なまでに示唆的なのだ。闘争的な世俗主義は、アブラハム的メタ・ミームのアングロ−プロテスタント的な、ラディカル・デモクラシーという分岐学的分肢において、それ自体がそのメタ・ミームの近代化された変形体なのだ。この分肢に特有の伝統は反伝統主義である。『神は妄想である』の喧しい無神論が表しているのは、保護的なフェイントであり、そして、経験主義と理性を打ち負かす進歩的熱狂の精神に導かれた、宗教改革の一貫したアップグレードなのだ。他方でそれは、神を主題とした草創期の緊張において見出される何物に対しても比肩する苛立たしいドグマティズムを例証しているのである。


 ドーキンスは単に、啓蒙された、近代進歩主義的で暗黙裡のラディカル民主主義者であるのではない。彼は、見事なことに証明書付きの科学者、より専門的には生物学者であり、(従って)ダーウィン主義的進化論者である。従って、ミーム上のスーパー・バグが定義するように受け入れ可能な思想の臨界に彼が触れる点とは、非常に予想しやすいものである。彼に受け継がれた低教会派のウルトラ・プロテスタンティズムの伝統は、〈神〉を、霊的投資の座としての〈人間〉へと置き換えてきたのであり、そして〈人間〉は150年以上に亘り、ダーウィン主義的研究による解体のプロセスの中にあり続けてきた。(私が知っているように健全で上品な人物として、モールドバグと共にこんなに遠くまで来てしまったあなたは恐らく既に小声でこう呟いていることだろう、人種について言うのはやめて、人種について言うのはやめて、人種について言うのはやめて、お願い、おお、お願いだから、〈時代精神〉と親愛なる進歩という非−神の名において、人種について言うのはやめて……と)……しかしモールドバグは既にドーキンスを引用し、トーマス・ハクスレーを引用しているのだ。「……思考によってなされるべきであり、噛み付きによってなされるべきではない異議申し立てにおいて。文明のヒエラルキーにおいて最高の座は、我々の浅黒いいとこの力の及ぶ範囲の内には確実にないだろう。」ドーキンスは次のように言うことによって以上のことを言っているのだ。「ハクスレーが…もしも我々の時代に生まれて教育を受けていたとしたら、(彼は)(自らの)ヴィクトリア朝風の感情といかにも感動したような調子に対して我々と共にうんざりしてみせる最初の人物いるはずである。私は、〈時代精神〉がいかに動くかを例証するためだけにそれらを引用する。」


 事態はますます悪い。モールドバグは、ハクスレーの手を取っていて、そして…(おえっー!)その掌を指で撫でている(doing that palm-stroking thing with his finger)ように見える。それは確かに、バニラ−リバタリアン的反動では些かもない−深刻なまでにダークに、そして恐ろしくなってきている。「全く真剣に聞きたいのだが、同胞愛の証明とは何か?全くもって、あらゆる新ヒト科動物(neohominid)が神経学的発展に関して同一のポテンシャルを持って生まれていると、ドーキンスは何故信じるのだろうか?彼は答えない。恐らく、彼はそれは自明だと考えている。」


 人間の生物学的多様性について、或いはその一様性についてのそれぞれの科学的メリットについてどんな意見を抱こうとも、それは確かに、後者の想定のみが大目に見られるということには議論の余地が無い。たとい人間本性についての進歩的―普遍主義的な諸々の信念が真であるとしても、それらの信念は真であるから、或いは、批判的な科学的合理性に照らして笑われることがないようなあらゆるプロセスを通して到達されるから、採用されないのである。それらは、信心の本質的な諸要素を特徴付ける同情的な強度の全てを伴って、宗教的な教義として受け入れられているのであり、そして、それらの信念を問い質すことは科学的な非正確性の問題ではなく、我々が現在は政治的正しくなさ(political incorrectness)と呼び、嘗ては異端として知ったものの問題なのである。


 人種主義との関連においてこの超越的道徳的態度を維持することは、原罪の教義に同意することと同じくらい理性的ではない。何れにせよ、それは原罪の教義の紛うことなき近代的代替物である。無論、違いとなるのは、「原罪」が伝統的な教義であり、戦闘配置に付いた社会集団によって同意されており、公共的な知識人達とメディア人達の間で相当に過小評価されており、支配的な世界文化の中で深く時代遅れであり、そして広く批判されている−嘲笑われているのでないにせよ−のであり、しかもその批判者達が殺人、窃盗、姦通を奨励しているのだと即座に仮定されることなく、そのように批判がなされている、という点である。他方で、最上級の決定的な社会的罪としてのレイシズムの身分を問い質すことは、社会的エリートから普遍的告発を受けることになり、奴隷制支持の弁明からジェノサイド神話にまで及ぶ範囲の思想犯罪の嫌疑を喚起することになる。人種主義は純粋な、或いは絶対的な悪であり、その固有の領域は無限なるものと永遠なるものである。もっと言えばそれは市民的なインタラクションの世俗的制限や、社会科学的リアリズム、或いは有効で均整の取れた合法性というよりは寧ろ、ハイパー・プロテスタンティズムの教唆的な罪深き魂の深みである。古き時代の異端達と今その地位に就いている者達に随行する情動、制裁、そして生々しい社会的権力の不均整は、既に言及したように、口喧しい徴候である。或る新しいセクトが君臨している、そしてそれは特に隠れているというわけでもないのだ。


 最も硬化した人間の生物学的多様性の支持者達(HBD constituency)[HBD=human biodiversity]の中にあってさえ、もっとよく人種について考えること(plus-good race-think)をヒステリカルに浄化しようとすることがあれば、ラディカル・デモクラシーに対し、モールドバグが看破するような深甚な不健全のオーラを加えることに関して殆ど足りていないのだ。このことは、〈国家〉に対する祈祷的関係を要請するのである。


〈本記事は投げ銭方式です。〉

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